「あれ、佐伯じゃん」
 次の日の昼休みに屋上へ行くと、彼女は手すりにもたれて、真下のグラウンドを眺めていた。
 僕は、彼女の隣に立つ。
「なんか、評判かなり悪いな。お前」
「え?」
「ほら、自殺未遂がどうとか」
 彼女は一瞬、僕の言葉に目を丸くする。
「あぁ、聞いたんだ。君も」
 クスリと笑う。
「……君も見る?」
 そう言って、彼女は腕にはめていたリストバンドを外して、手首を僕に見せた。
 無数の、切り傷があった。
「……」
「ん、引いた?」
 いや別に、と僕は答えた。
 彼女はポケットからまたタバコを取り出し、口にくわえて火を点けた。
「……なんかさ、色んなことが積み重なって、ずっと悩んでたんだよね。両親は私になんて目もくれないし、相談する友達とかいないから……、なんていうか、溜め込んでたんだよ、いろいろ」
「ふーん」
 僕は頷いた。
「ふーん、って君、他に言うことないの?」
「え、何が」
 僕がそう言うと、彼女は不思議そうな目で僕を見て、
「……君って、変な奴だね」
「お前に言われたくないな」
「あはは、そりゃそうだ」
 彼女は笑った。


***


 それから彼女は、放課後にいつも屋上にやってきた。教室の窓から彼女の姿を見つけるたびに、僕は屋上への階段を登って、彼女の元へと向かった。
 そして、それはすっかり僕にとって「習慣」となりつつあった。

「自殺するのって、どんな気持ちするんだ?」
 僕は地べたに座りながら、彼女に尋ねた。
 彼女は吸っていたタバコを真下に捨てると、靴で火をジリジリと踏み消した。
「どんな、って?」
「ほら、例えばさぁ、土壇場になって死ぬのが恐くなったとか、一回死にかけて三途の川を見たとか、そういう類のこと」
 僕が訊くと、彼女はしばらく黙り込んでいた。僕は彼女の横顔をじっと眺めていた。
「恐かったよ、最初は」
 彼女は、空を見上げる。
「一番最初は、手首を切ったんだ。それで、まず台所から果物ナイフを持ってこようとするんだけど、母親は主婦やってて家にいるから迂闊に行動起こせないわけよ。途中で止められでもしたらタチ悪いし、変なところで迷惑とかけずにスパッと死にたかったし」
 彼女は、右腕のリストバンドを外し、手首の生々しい傷跡をじっと見つめていた。
「……いつか、たまたま母親が買い物に行ってて、家に誰もいない時があったんだ。これはチャンスだと思って、台所から果物ナイフを持ち出したの。
でも、当たり前なんだけど、改めてよく見るとナイフってすっごく鋭くて、『これで手首切るんだ』って思ったらちょっとゾッとしちゃって、お風呂場に行ってからも三十分ぐらいかかってようやく決意したりして……」
 彼女はまるで他人事のように、淡々と続けた。
 その顔には、なぜか微笑が浮かんでいた。
 すべてに達観したような、すべてを諦めているような、そんな微笑だった。
「それでもようやく決心して、果物ナイフを右手に突きつけるわけね。本か何かで読んだんだけど、切りどころを間違えると、すっごく痛くて苦しみながら死んでいく、とかそういう事を聞いたことがあって、『ちゃんと見極めて切らなきゃ!』とか思うんだけど、想像するだけでグロテスクで、手なんてもう震えちゃってて。それで、結局ナイフが入り始めた頃にもう親が帰ってきちゃってさ、びっくりして手が止まっちゃって、ナイフは抜けないわ血は出てくるわ、親は騒ぐわでもう大変」
 彼女があんまり可笑しそうに話すので、僕は思わず苦笑してしまった。
「その後は?」
 うーん、と彼女は考え込んだ。
「……一応そんなこともあったから、親がこりゃまずいだろって言って、精神病院の方に送らされたのよ。その頃の事はあまりよく覚えてないけど、……あぁ、やめた」
 そこまで言って、彼女は口を閉ざした。
「え、なんで」
「だって、こんな話ばっかりじゃ嫌でしょ。こんな精神異常者の経歴ばっかり聞かされて」
「……いや別に、経歴とか聞くのには日ごろから慣れてるし、それに、青柳の話は充分面白いよ」
「それって、褒めてるの?」
「知らない」
「うわ、最っ低ー」
 彼女は笑った。
 だから僕も笑った。
 心の底から笑うなんて、久しぶりだった。
「……そうだ、今度は佐伯の話もしてよ」
 ふいに思い出したように、彼女が言った。
「――え、」
「だって、私ばっかり話して佐伯が聞くだけなんて、どう考えても不公平じゃない?」
「別に、俺が語るような事なんてないし」
「嘘」
 ギクリとした。
 彼女は僕の目を覗き込み、言った。
「だって君、最初は死人みたいな顔してたよ」
「……」
 死人。
 そう考えれば、あのときの僕は確かに死人のようなものだった。
 僕は黙って目を瞑った。
「それはまた、今度な」
「……」
 彼女は僕の横顔をじっと見つめていた。
 やがて、
「――君も、吸えば」
 パッケージから一本だけ突き出して、僕に差し出した。
 黙って抜きとった。
 それを口にくわえると、反射的に彼女は僕のタバコに火を点けてくれた。
 やがて、煙が僕の肺の中に入り込んできた。

 思いっきり、咳き込んだ。

「だ、大丈夫?」
 心配ない、と答えてから、深呼吸した。
 それからまた吸い始める。
 今度はだいぶマシだったが、僕は咳き込むのを懸命にこらえて、煙を空へと吐き出した。
 頭の中は、確かに空っぽになった。
「……ありがとう、だいぶ、楽になった」
「そっか」
 彼女は安堵したように微笑む。
 身体は動かず、意識だけがやけにはっきりとしていた。
 彼女は僕の肩にもたれると、目を閉じた。
「……こうしてると、なんだか恋人同士みたいだよね」
「そうかもな」

 こうして今日も、変わらない一日が過ぎていった。

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