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「おい、佐伯」
昼休みに机に突っ伏して居眠りをしていると、後ろの席の坂本が僕に声をかけた。
「なに」
「お前、青柳優子と付き合ってんの?」
一瞬、耳を疑う。
「いや、そんなことはないけど」
「でも、他の組とかで噂になってんぞ」
心配そうな声で、坂本は続けた。
「なんか屋上で二人で話してる所とか、何度も目撃されてるんだぞお前。いくらなんでも見間違いじゃないぜ」
「……それが、どうしたんだよ」
「どうしたじゃねぇよっ」
坂本は声を張り上げる。
「あの青柳優子だぞ? お前も授業サボったりしてただでさえ浮いてるのに、これ以上テンパって何になるって言うんだよ」
「悪いかよ」
「……お前、ターゲットにされる前にもうやめとけって。先公とか他の不良とかにはもう目ぇ付けられちまってんだぞ。手遅れになる前にさ、」
「じゃあ、あいつとこれ以上会うなって言うのか?」
自分の声色の低さに、自分で驚く。
一旦口に出すと、もう歯止めが効かなかった。
お前らは、彼女に何をしてやれたと思うんだ。
誰かひとりでも、彼女に手を貸していれば、
彼女は、苦しまずに済んでいたかもしれないのに、
「……いや、だからそういう意味じゃなくてさ、俺は」
「黙れ」
お前らはただ面白がって、
相手の気も知ろうともしないで、
抑えていた思いが、止まらなかった。
「全部お前みたいな、お前みたいな臆病者がいるからいけないんだよ!」
――、
教室が、一瞬沈黙に包まれた。
クラスの全員の目が、一斉に俺を見ていた。
切れた息を、必死で抑える。
「……クソ、」
椅子から立ち上がって、そこら辺の邪魔な机を蹴飛ばしながら、僕は教室を出ていった。
足は、自然に屋上へと向かっていた。
***
「――もう、一ヶ月になる」
話すまでに、だいぶ決心がいった。
「……本当は、付き合ってるだとか、そういうことじゃなかった。友達以上恋人未満っていうか、とにかく俺たちの間には何にも無かった。ただあいつが俺の隣にいて、俺があいつの隣にいた、それだけだったんだ」
彼女は相槌も打たずに、黙って僕の顔を眺めながら、僕の話に耳を傾けていた。
だんだん暮れてきた日が、僕らを照らしていた。
「……分かれる直前に、あいつ、変なこと言ったんだ」
「変なこと?」
僕はうなづく。
「……一言、『ありがとう』って」
ありがとう。
そう言い残して、彼女は僕の前から去っていったんだ。
「……」
「その時、俺はそれが何を指しているのか、よく分からなかった。今でもまだ、よく分からない。でも、あいつは俺の前からもう去っていってしまったんだ。だからもう確かめる術はない。
……俺の話は、これでお終いだ」
僕は静かにため息をついて、地面に目を伏せた。
それから、お互いにずっと黙ったままだった。
いつまでもいつまでも、そうしていた。
「……あの、さ」
彼女が、急に口を開いた。
僕は顔を上げる。
「なに?」
「……あれ、言おうとしたこと忘れちゃった」
彼女は微笑む。
夕日は、もう沈みかけようとしていた。
「じゃあ、そろそろ俺帰るわ」
僕はそう言って立ち上がる。
彼女は僕に何か言いたげだったが、やがて頷いた。
「私は、もうちょっとここにいるよ」
「……そうか」
「明日になったら、きっと思い出すから」
そう聞いて、僕は頷いた。
「じゃあ、また明日」
「うん、じゃね」
彼女は手を振る。
僕は立ち去りながら、後ろの彼女に右手で答えた。
だけど、その約束は守られることはなかった。
彼女はその夜、屋上から飛び降りて、死んだ。
***
わたしが死んだのは、誰のせいでもありません。
ただ、私が弱かったせいなのです。
わたしの両親、先生。それだけは分かってください。
学校から飛び降りたこと、迷惑だったと思ってます。すみません、反省しています。でも、わたしの死に場所としてはそこが一番のような気もするし、私が死んでもし授業がなくなったりでもしたら、生徒たちからしてみれば万々歳でしょう。でも、ごめんなさい。
それから、佐伯くんへ。
君には、本当にお世話になりました。分からなかったと思いますが、実は君とはじめて会ったあの日に、本当はわたしは死ぬことにしていたんです。でも、君と出会ったおかげで思いとどまることができました。
色々な話をして、一緒に笑いあったりして、本当に楽しかったです。これは本当です。裏切るような真似をして、本当に申し訳ないと思っています。
でも、君と話をすればするほど、わたしの心はやりきれない気持ちでいっぱいになっていったんです。
よく分からなかったら、ごめんなさい。
謝ってばっかりですね。
じゃあ、そろそろ先に行きます。
それでは。
追伸。
前に話してくれた、「ありがとう」の意味、今なら、なんとなく分かる気がします。
あの子は、何かしらの形で、君に救われるところがあったのだと思います。
だって、わたしもそうでしたから。
あなたにはきっと、すぐにまたいい人が見つかります。
いつまでもお元気で。
***
遺書は、彼女の着ていた制服の胸ポケットの中に入っていたそうだった。
彼女の言ったとおり、その日の授業は無くなって、その三日後に急遽彼女の家で通夜が行われた。
葬式の後の形見分けで、僕は彼女のライターとキャスターマイルドを受け取った。
屋上の手すりに寄りかかりながら、僕は屋上の地べたに座り込んで、雲ひとつない青空を見上げていた。周りには人の姿も声もなく、ただ心地よい太陽の光と静寂だけがあった。
(僕は彼女に、一体何をしてあげられたんだろう?)
ぼうっと虚空を見つめながら、そう思った。
結局、彼女にしてやれることはなにもなかったのだ。僕はただ、自分だけが彼女の気持ちを分かっているフリをしていただけだ。
期待はしない方がいいと、分かっていたはずなのに。
期待が募れば募るほど、失ったときの辛さが増すだけで、そんなことをするくらいなら何も考えない方がマシだって、分かっていたはずだったのに。
何にも分かっちゃいなかった。
僕はただ必死にもがいていただけだったのだ。
「……」
隣を向いても、そこにあるはずの影はなかった。
僕は、右手に力なく握られているタバコのパッケージと、緑色の百円ライターを黙って見つめていた。
――君も、吸う?
声がした。
一本だけ口にくわえて、黙って火をつけた。
しばらく煙を吸い込んでから、思い切り吐き出す。
後には、虚脱感しか残らなくて。
一人で吸ったタバコの味は、不味いだけだった。
(終)