ありがとう。
 そう言い残して、彼女は僕の前から去っていったんだ。


***


 屋上の手すりに寄りかかりながら、僕は屋上の地べたに座りこんで、雲ひとつない青空を見上げていた。周りには人の姿も声もなく、ただ心地よい太陽の光と静寂だけがあった。僕の頭上をジェット機が一機、静かに飛んでいった。
 十分ほど前に、授業開始のチャイムを聞いた。もう既にみんなは席について、彼らなりにまともに先生の授業を受けているのだろう。そう考えている自分が、まるで自分ではないように思えた。僕のどこかに潜む大きな虚脱感が、今や僕の体を支配していた。
 僕はふと、別れたばかりの一人の少女を思い出した。かなり浮世離れした少女だったが、彼女が隣から消えてしまうと、急に喪失感が僕の中に浮かび上がってきた。
 僕は胸の痛みに耐えながら、黙って空を見ていた。
「――あれ、先客?」
 ふいに声がして、振り向いた。
 屋上の入り口のドアに、女子生徒がひとり立っていた。
 茶色に染めた肩までのストレートパーマ。背は高くも低くもなく、両腕にリストバンドを着け、右手にはライターとキャスターマイルドの箱が握られていた。
 彼女は僕のほうをしばらく見つめていたが、やがて彼女はこちらの方へやってきて、僕の隣に黙って腰を下ろした。
「君も、サボりなんだ」
 女子生徒が訊いて、僕は頷いた。
 それだけ確認すると、彼女は不思議そうな顔で僕のほうを見ていた。僕は彼女の視線も気にせず、黙ってまた空を見上げ始めた。
「……楽しい?」
 また彼女が尋ねた。
「なにが」
「いや、空」
 彼女は僕の顔を覗き込んで、静かに笑う。
「……別に」
 僕がそう答えると、彼女は眉をひそめる。
「じゃあ、なんで空なんか見てるの?」
「……何も考えなくて済むから」
「ふーん」
 彼女が黙ったので、僕も黙った。
 しばらくして、僕たちの頭上を、またジェット機が一機だけ飛んでいった。
 やがて、彼女は僕と同じ格好で空を見上げた。
「ふーん……へんなの」
 彼女は空を見るのに飽きたのか、右手に視線を戻して、箱からタバコを一本取り出して口に加えると、ライターで火を点けた。手馴れた動作だった。
「……中坊がタバコ吸っていいのかよ」
「別に、私は気にしてないけど」と彼女は言う。「君も、吸う?」
「いや別に」
「そう? なんか不良ヅラだと思ったのに」
「余計なお世話だよ」
 僕はそう言うと、彼女はクスッと笑った。
「何か変なこと言った?」
「ううん」彼女は首を振る。
「やっと人間らしい言葉言ったなぁ、と思って」
「……」
 余計なお世話だった。
 彼女は口から静かに煙を吐き、再びこっちを見る。
「君、いつもこんな所にいるの?」
「別に、いつもって訳じゃない」と僕は答えた。「そのときの気分によって、行ったり行かなかったり」
「へぇ」
 彼女は呟いて、少しだけこちらに身を寄せて、言う。
「私も、そうなんだ」
 また微笑む。
 意外に美人だった。
「そうだ。自己紹介まだだったね」と彼女は言った。「私、二の四の青柳。君は?」
「二の二、佐伯」
「へぇー、覚えとこっと」

 それが、青柳優子との出会いだった。


***


「青柳優子?」
「あぁ」と僕は頷いた。「どういう奴か知ってるか?」
 坂本は弁当を食っていた箸を止め、しばらく悩みこむ。
「あんまり、良い噂は聞かないけどな」
「何だそれ」
 僕はさらに尋ねる。
「や、何つーか、荒んでるんだよ」
「彼女が?」
「あぁ。自殺未遂ばっかしててさ」
 自殺未遂?
 坂本はさらに続ける。
「いや、聞いた話なんだけどよ。彼女、家庭環境とかもけっこう気まずいらしくてさ。おまけに友達はいないし、クラスで彼女一人だけ妙に浮いてるっつーか、そのおかげでいじめとかも受けてたらしいぜ。噂では、両手首に自分で切り刻んだナイフの痕があるとか」
 僕は、屋上での彼女を思い出していた。
 自殺?
 あまり想像することが出来なかった。
「んで、それがどうかしたの?」
「いや別に」
 僕はそう言うと、視線を坂本から、窓の外へと移す。外のグラウンドでは、体操服姿のサッカー部の連中が昼錬のランニングを行っていた。
 そこから、視線を上のほうに向ける。校舎の屋上を見たが、人の姿はなかった。彼女はそこにはいなかった。
「……」
 僕は黙って目線を外した。

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