あのあと、道の途中で気が抜けたせいなのかは知らないが、僕は校門の目の前で盛大にずっこけて結局一時間目の授業には間に合わなかった。数学教師の熊沢から出席簿で頭を殴られて、クラス全員に笑われた。おまけにちょうど小テストの最中だったせいで時間が足りずに回収された。たまにこういうことをやるとろくなことがない。踏んだり蹴ったりだった。

「あっくん、おいしーい?」
 食堂で昼飯を食っていたとき、結々がいきなりそう話しかけてきたので、僕は危うく吹き出しそうになった。グラスの水を飲み干して肺を落ち着かせつつ、彼女の方をにらむが、相変わらず彼女は僕の隣でニコニコと微笑んでいた。
「そういえばお前、今日なんで遅れたの?」
 隣の席の小林が、僕にそうささやきながらカレーを口に運んだ。「佐伯にしては珍しいなとか思ったんだけど」
「いや、ちょっとハプニングに見舞われて」
「なにそれ、寝坊じゃなかったん?」ともう片方の席の坂本が訊いた。
「いや、まぁ寝坊ではないけど」
「そうか、アレだな」と日暮は僕の言葉を途中でさえぎる「通学路の曲がり角で、ちょうどトーストくわえて制服に片手だけ突っ込んだ美少女とぶつかって、一緒にカバンから落ちた教科書類をひろってて、そこでうっかり手が触れてしまったという」
 それはどういうオチだ。
「まぁ、当たらずとも遠からずってところだよ」
「は? なんだよそれ」と坂本。
「いいだろ別に」
「まぁ、女の子に突然出会ったってところは一致してるけどね」と横から結々がささやいた。「ねぇあっくん、それおいしいの?」
 突っ込むに突っ込むことができず、僕は黙ってたぬきうどんをずるずるとすすった。 「おい何で黙ってんだよ佐伯、図星か?」
「だからそんなんじゃないってば」
「……ん、そんなんじゃないってことは、それに近い何かはあったわけか」
「だから違うっつってんだろ」
「あってるのにー」
「だからお前は黙ってろってば」


 ……む、まずった。


「誰に向かって言ったんだ? 今の」
「……いや、独り言」と僕は平然を装って答える。
「なに、お前の隣には幽霊でも座ってんのかよ?」
 一瞬ぎくりとした。
 くそ、これじゃ調子を狂わされっぱなしだ。
「……わり、俺ちょっと先に帰ってるわ」
「は? どっか調子でも悪いの?」
「そうだよお前、さっきからキョドり過ぎだぞ」
「だからなんでもないってば」と言って無理やり話を切り上げると、食堂をさっさと出て中庭へと向かった。そこなら独り言を呟いても怪しまれることは少ない。
「ねぇ、うどんいいの?」
「……おまえ邪魔しないって言っただろうが」
「あたし、邪魔してた?」
 ……それはツッコミ待ちなのか?
 まぁいい、もうたぬきうどんのことは忘れよう。中途半端に残してしまった三百八十円が悔やまれる。
 僕は中庭に入ってベンチに座りこむと、深くため息をついた。中庭では、元気な中一君たちが楽しそうに遊んでいる。僕はそれをぼーっと眺めた。
「そういえば、お前の家って結局どこにあるんだ?」
 しばらくして、僕は彼女になんとなく訊いてみた。別に間を持たせるための質問で、彼女の実家についてなんか聞きたくもないのだが、気がついたら口にしていた。
「……江ノ島」と彼女はつぶやいた。
「江ノ島?」と僕はその言葉を繰り返してしまった。「江ノ島にお前の家があるの?」
「うん、そうだよ」と彼女は頷いた。「江ノ電の七里ヶ浜で降りて、歩いて五分ぐらい」
 そう言われても、僕は江ノ島なんてあまり行ったことがなかったし、江ノ島が特に好きというほどでもなかったからよく分からなかった。ここからなら電車で三時間ぐらいでたどり着けた気がする。一度だけ、小学校の遠足で江ノ島に行ったことがあったのだ。
 僕はその頃の記憶をもそもそとまさぐってみたが、あの頃の記憶は僕の頭からさっぱりと消えうせていた。
「どうしたの? 何か考え事?」と彼女が訊いた。
 なんでもない、と僕は答えた。
「ていうか、何でそんなに俺に付きまとってくるわけ? さっさと帰ればいいだろ」
「だって……寂しいんだもん」
 ていうか帰れよ。
 そのセリフを僕は黙って飲み込むと、僕はまた深くため息をついた。僕はこの短期間の間にどうやら我慢する事を覚えたようだ。
 ……憑かれるって、疲れる。


***


 その後も、彼女は僕の周りを付きまとってきた。しかしかれこれ三週間ぐらい過ぎると、僕にもある程度ものごとの状況が把握できるようになった。
 まず、結々の姿は僕以外の人間にはどうあっても見えない。逆に言うと僕だけが結々の姿を捉え、声を聞くことができるのだ。また、彼女は幽体であるために、食事や排泄などの行動はしない。またどんなものにも触れることはできない。地面にもふれることができないから、常に空中をふわふわと浮いているのだ。
 そして、彼女は自分の家に決して帰りたがらないのだ。
「なんでって……別に、面白いもんでもないし」
 彼女は、僕が訊くと決まってそう言って口を閉ざした。
 僕もそれ以上はあまり追及しなかった。そして彼女はいつも僕の隣にいて、僕はいつも彼女の隣にいた。それがすっかり当たり前になってしまっていた。
 だからこそ、僕は彼女の事情が無償に気になった。


「あのさ、江ノ島行かないか」
 僕がそう切り出したとき、彼女は露骨に嫌な顔をした。
「……やっぱり、邪魔?」
「あ、いや、ただどこかに行きたいだけだよ」と僕は言った。「帰りたくないならそのままここにいればいいし、どうせあっちに行ってもお前の家なんて分からないだろ。ゴールデンウィークはヒマなんだよ」
 結々は、僕の顔を半信半疑な様子でじっと眺めていた。そして、何か変なものを見るような目で僕のほうを見つめた。
「べつに、理由なんてないよ。ただ行きたいから行こうと思っただけだよ。ほら、ビバ短絡思考」
「……いぇーい?」と彼女が訊いた。
「イエーイ」と僕は笑いながら言った。
 そうすると、彼女も楽しそうに笑った。
 

 僕は五千円札をポケットにねじ込んで、電車に揺られて江ノ島に向かった。
 その日は晴れ渡っていて、外出するには絶好の日だった。僕たちは特に話すこともなく、僕は窓の外を見、彼女は電車の線路図をただじっと眺めていた。
 そして彼女は、やがて少しずつ話し始めた。


「……心臓病だったの」と彼女は言った。「生まれたときに、心音に雑音があったんだって。生まれてくる子供の百人に一人はこういう心雑音を持って生まれてくるんだ、って聞いたことがあるけど、あたしもその一人だった。何回も手術して、何度も入院とか退院をくりかえしたけど、それでもちょっとずつ悪くなっていったの」
 東海道本線の車両から、外の景色を眺めた。住宅や緑が少しあったかと思うと、それらもすぐに通りすぎて、ビルなどが立ち並ぶようになる。
「ほら、ペースメーカーってあるでしょ。電車内では携帯の電源をお切りください、っていうあれ。あれをさ、いっつも身に着けてたの。……すごく嫌だった。とっても怖かった。あたし、電車の中で突然ぱったり倒れちゃったらどうしようって、ずっと頭から離れなかった。電車に乗るのがいつも怖くて、悔しくて、たまらなかった」
 僕は黙って目をつむり、電車の揺れに身を任せた。
 僕の耳に規則的な音が響き、体にその単調な揺れを感じることができた。やがてそれは電車の音から心臓の鼓動へと変わり、僕の体を包み込んでいった。
「たくさん薬も飲んだし、病院にも通った。手術もした。だけど、やっぱりどんどん悪くなっていった。ずーっとベッドに寝たきりになって、それで……あとは、もう、あんまり覚えてないよ」
「いや、もういいよ。ありがとう」と僕は言った。
「……ううん、あたしも話したら少し楽になったよ」と結々は言った。

 やがて窓のむこうに、一面の海が見え始めた。空の色を水色だとすると、海の色は深い青緑色だった。風が強く、雲の流れが早かった。波も高い。むこうの方には中くらいの島があり、灯台も見えた。
「たぶん、もうすぐだよ」と彼女が言った。僕は黙って海の向こうを眺めていた。

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