そのとき、僕はいつものように眠りに落ちていこうとしていた。ベッドの中で寝返りを打ち、そばにある目覚まし時計に目を向けた。時刻はとうに日付が変わっている。窓の外を眺めると、上弦の月が空にぽっかりと浮かんでいる。僕はそれを確認すると、ふたたび目を閉じた。そうして僕はいつものように深い眠りにつき、明日を迎えるはずであった。
 しかしそこで僕は、自分の部屋にとても奇妙なものがいるのを発見した。
 女の子が、僕の目の前に立っていたのである。長い黒髪に真っ白なワンピースを着て、彼女はそこに立っていた。彼女は壁に寄りかかるようにして、僕の部屋の窓の方をじっと哀しげな表情で見つめていた。僕はその少女をしばらくぼーっと眺めていたが、やがて意識がはっきりしてきた。
 ……ていうか、誰?
 少なくとも僕には、その少女の顔に全く見覚えがなかった。そんな兄弟もいとこもいないし、だいいち家には客なんて誰も来ていない。少女は外見からして十三か十四くらいだった。
「もしもし?」と僕はその少女に声をかけた。しかし、彼女はそれを気にするそぶりも見せず、さっきと同じようにじっと窓の外を眺めていた。
「……おい、ちょっと」と僕は続けて言った。「ちょっと聞いてるのか。返事くらいしたらどうなんだよ」
 そう言うと、彼女はようやくこちらの方を振り向いた。一瞬だけ僕と彼女の目があった。僕も少女も長い間黙ったままだった。すると彼女は唐突に、

「――みえるの?」

 僕は眉をひそめた。
 それは僕の質問に対する答えではなかったし、そもそも話がまるでつながっていなかったので、僕は何がなんだか分からなかった。
「……や、そりゃあ人間は目がついてるし」と僕は言った。「それがどうかしたの?」
「え、だ、だって……」
「だってなんだよ」
「……だって、」と彼女は口ごもったが、やがて、
「だってあたし、幽霊なのに」
 幽霊?
 僕はベッドから体を起こすと、上から下まで改めて彼女の姿を確認した。長い黒髪のなかに幼い顔があり、ワンピースに身を包んだ身体があった。そして僕と彼女の決定的な差は、彼女の足が途中から『ぼんやりと透けて無くなってしまっている』ことだった。
 僕は、それをだまって凝視した。
 体中から鳥肌が立った。
「……ほらね」
 彼女はそう言って、ふわりと地面から上に飛び上がった。まるでシャボン玉がふわふわと飛んでいくように、水の中にでもいるような感覚で、彼女はそこに浮かんだ。
 僕は、それをしばらく見つめたあと、
 布団にもぐってそのまま寝た。


***


 目が覚めた。窓の外はすっかり明るくなり、雲ひとつない青空が見える。
 僕は大きく伸びをすると、窓を開けて外の空気を吸った。いい朝だ。春の朝はやはりこれくらいでなくっちゃ、と僕は思った。昨日は微妙になにか嫌な夢を見た気もするが、それも気のせいであろう。
「おっはよー」
 思いっきり悪夢だった。
 声がした方を振り向くと、そこには長い黒髪で、真っ白いワンピースを着た女の子が立っていた。
「もーびっくりしちゃったよぉ! いきなりベッドの中に入って寝ちゃうんだもん。いくら起こそうとしても全然起きてくれないしー」
 いや、それはずっと無視してたからだと思うけど。
 僕は、また改めて彼女の様子を眺めた。彼女は前に見たときと同じようにふわふわと宙に浮いていた。
「……オーケーオーケー、ちょっと話を整理しよう」と僕は言った。しかし自分では何がオーケーなのか全然分からない。「……まず最初の質問だ。君はどうやってこの家に……いや、この部屋に入ってきたの?」
「壁から」
 即答だった。
「ほら、だってあたし幽霊だから、壁とか通り抜けられるんだよ」と言って、彼女はふよふよふよと床の下の方にすり抜け、下から再び飛び上がった。
「……あー、分かった。質問を変えよう」と僕は言った。「どうして君はあのとき、あんなところにいたんだ? よりにもよって僕の部屋に」
「……なんでって言われても、べつに。気まぐれだよ気まぐれっ」と彼女は笑った。「いぇーい! ビバ短絡思考ーっ!」
 なんだかノリでXサインを向けられてしまった。
「……ほら、いぇーいだよ、いぇーい」
「はい?」
「だから、合わせてよ。なんか寂しいじゃん」と彼女は言って、もう一度腕を僕のほうに突き出した。「いぇーい!」
「い、いえーい」
「そうそうそう! うまいうまーい!」
「……んじゃ、次の質問いい?」と僕は言った。だんだんイヤになってきた気がする。「そもそも、なんで君は幽霊なんだ?」
「そりゃ、死んじゃったからに決まってるじゃん」
「いやそうじゃなくて、幽霊ってのはそもそも一般人の目には見えないんじゃないの? 死んでるんだし、僕には霊感とかそういうのはまるっきりないんだけど」
「……それはあたしに聞かれても困るよ」と彼女は言った。「……でもさーでもさー、いま実際にこうして見えてるし、こうして話もできるんだから、それでいくない?」
「いいのか?」
「いいんだよきっと。たぶん自然の摂理なんだよ。いぇーい!」
「イエーイ」
「いいじゃん、だんだんサマになってきたよー」と彼女は言ってうんうんと肯いた。なんかすごく嫌だ。
「……あ、そういえば名前聞いてなかったよね」と彼女は言った。「表札には『佐伯』って書いてあったけど、あれってなんて読むの?」
「サエキだよ。佐伯章博」と僕は言った。「ていうか、こういうのって自分から名乗るもんなんじゃないの?」
「あ、そうだったね。あたしくさじまゆゆ。十三歳」
「……くさじまゆゆ?」と僕は反復した。「どこで切るの? 草地まゆゆ?」
「草島、結々だよ。それくらいイントネーションで判断してよー」と彼女は言った。「ゆゆって呼んでね」
「わかったよ草島さん」
「……だからゆゆだってば」
「ちょっとからかっただけだってば」と僕は言った。「……ていうかお前、年下じゃねえかよ」
「でも、あっくんも同じようなもんじゃないの?」
「あっくんはやめろ」と僕は言った。「それに、僕は十四歳だよ」
「ほら、おんなじようなもんじゃん」と彼女は言った。確かにそのとおりだった。
「あれ、じゃあ学校はどうしたの? サボりですか? それとも引きこもってるの?」
「は?」
 携帯の時計を確認する。
 午前八時二十一分。
「うわ……」
 血の気が引いた。
「……どうして教えてくれないんだよ、まるっきり遅刻じゃねぇか!」
「え、だってあたしてっきり……っていやーっ!」
「なに?」
 僕はいそいでパジャマの上を脱ごうととしていたが、彼女の唐突の叫びに思わず振り返った。
「バカ、女の子の前で着替えないでよ! バカ!」と彼女は叫んだ。気のせいか顔は赤くなっている。
「じゃあ、お前がどこか行ってりゃいいだろ!」と僕は言って、脱ぎかけのパジャマの上着をあらためて脱いだ。同時にハンガーにかかっている制服に手をかける。
「きゃーっ! ちょっとバカバカバカバカ!」
「うるさいなあっち行ってろよ! 着替え終わったらいいよって言うから!」
 僕がそう言うなり、彼女は怒りながら隣の部屋に飛んでいってしまった。
 ……やれやれ、と僕はため息をついた。なんでいきなりこんなことになってしまったんだろう、と僕は思った。僕がいったい何をしたというんだ。
 少なくとも僕は今の今までまっとうに人生を歩んできたし、うしろめたい事は特に何もやっていないつもりだった。幼かった頃の失態ならともかく、多分僕の人生はこれからもずっとそんな感じだろう。なのに、何だって突然こんなわけの分からない幽霊に出会わなければいけないんだろう?
「ほら、いいよ」
 僕は急いで着替えを終えると、隣の部屋に小さく呼びかけた。それからカバンに時間割を詰め始める。
 しばらくすると、結々が壁の中からひょっこり顔を出した。まるで一種のホラー映画のようで、それは僕を少なからず驚かせた。でも今はそういうのをいちいち気にしている暇はない。
「……んもう、本っ当に女の子の気持ちとかなにも考えてないんだから」と彼女は言った。
「だってそりゃそうだろ。そっちがいきなり現れたんだから」
「あたしだって別に見つかりたくて見つかったわけじゃないもん」
「……ていうか、おれそろそろ学校行くから。お前もさっさと自分の家に帰れよ。なにもホームレスとして生まれたとかいうんじゃないだろ」
「え、ちょっとー」
 彼女が何かいうのも訊かずに、僕は部屋を出て階段を下りてリビングに向かう。
「あれ章博、朝ごはんはいる?」と、リビングにいる母親が僕に呼びかける。
「どうして起こしてくれなかったんだよ! ご飯なんて食ってるヒマないだろ!」
「だって、これでもかってぐらい意地はった顔して寝てるんだもの、しょうがないでしょ?」
「あー、もういいよ!」
 僕は急いで靴を履くと、勢いよく玄関を飛び出して、学校に向かって走った。携帯を覗き込むと、時刻はもう二十五分をオーバーしている。走ってギリギリ間に合うか間に合わないかぐらいの微妙なところだ。
すると、背後から何かが追ってやってきた。僕が後ろを覗き込むと、結々が飛びながら僕の後を追ってきていた。しかも相当早い。
「あのさ、もしかしてついてくるの?」
「うん」
 また即答だった。
「いいじゃんヒマだし……」と彼女は呟いた。「それに邪魔はしないよ。どうせ他の人にはあたしの姿なんて見えないんだし」
「じゃあなんで僕にだけ見えるんだよ」
「だから、そんなのあたしが聞きたいってば」
 携帯を再び覗き込む。あと一分弱。ちょうどそろそろ学校も先のほうに見えてきたところだった。人間やれば何とかなるものだ。というか、この女の子に付き合ってたら本当に身が持たなそうなのは果たして気のせいなのだろうか。
「まぁ、何も言わなくたってどうせついてくるんだろうけどさ……」
「分かってんじゃーん、いぇーいっ☆」
「……いえーい」
 僕が力なく笑うと、彼女はにっこり笑い返してきた。

MENU NEXT