七里ヶ浜駅を降りると、時刻はもう夕方に近かった。抜けるようにまっさらな空を、一機のヘリコプターが音を立てて飛んでいった。ずいぶん遠いところまで来てしまった、と僕は思った。
 やがて、結々が呟いた。
「あたしの家、案内してあげる」
「え?」
「ついてきて」
 彼女はふわりと浮き上がると、まるで泳ぐかのように駅の外へ出た。僕も急いでそのあとをついていった。
 駅を出てすこし歩くと、やがてちらほらと住宅が目に付き始めた。彼女は慣れた様子で道をふわふわと進んでいって、やがて一軒の一戸建ての住宅の前で足を止めた。
「ここだよ」 
 それは、三階建ての一戸建て住宅だった。
 まず最初に目に付いたのは大きな車庫だった。コンクリートで壁を固められた一階が車庫になっており、黒い高級車と銀色の大きなワゴンの二台の車が入っていた。
 階段を上がり、玄関のドアの前に立って、僕と彼女はしばらくそこを動かなかった。僕は彼女の顔を眺めてみたが、彼女はドアの取っ手のほうをじっとにらんでいた。僕は思いきってチャイムを押した。
 返答は無かった。
「両親は?」
「共働きだから」と彼女は言った。「たぶん、鍵はその鉢植えの下にあると思うけど……。どうかな、もう取られちゃってるかも」
 僕は言われた通りに、ドアの前に飾ってある鉢をどけた。すると、そこには彼女の言ったとおり、この家の鍵らしきものがちゃんと隠されていた。
「あたしが学校に通ってたころだけど、よく鍵を持っていくの忘れてたの。だから、お母さんがここに隠してくれてたんだ。なんか無用心でしょ」と彼女は笑った。
 僕はそれでドアの鍵を開けると、中に足を踏み入れた。中は薄暗く、しんと静まり返っていた。これじゃまるで空き巣である。
「こっち」と彼女は言うと、ふわふわと玄関の奥へと消えていった。僕も靴を脱いで、電気はつけずに玄関に上がりこんだ。
 玄関を入ると廊下が続き、居間や他の部屋へと続くドアと、上の階へと上がる階段があった。入り口の方においてある電話は、留守番電話のランプが点灯していた。
 そこには二件の電話が録音されていた。どちらも今日の日付で、今から一時間ほど前にかかってきたものらしかった。
僕は少し迷ったが、彼女はもう二階に上がってしまったようなので、思い切ってボタンを押した。
『あ、お母さんですけど、お父さん?』
 四十代ぐらいの、女性の声がした。『今日は私飲み会なので遅くなります。多分こっちに泊まると思います。冷蔵庫にたしかチャーハンとお刺身があったと思うから、後は適当に食べてください。じゃ』
 発信音が鳴る。
『あ、お父さんです。今日はちょっと付き合いが会って、家には帰れません。夕飯はいらないんで。じゃあ』
 二件のメッセージが終わると、留守電のランプは消え、メッセージも流れなくなった。僕は、しばらくその電話を黙って眺めていた。


***


「そのまんまだなぁ、最後に見たときと……」
 自分の部屋を見て、結々は呟いた。
 僕の部屋の二倍はありそうな整頓された部屋に、大きなベッドと勉強机とたんすと、それからたくさんの服や、豪勢なオーディオセット、ノートパソコン、可愛いぬいぐるみなどがたくさん並んでいた。真新しい教科書やノートが、いやに目に付いた。
「物はたくさんもらったけど、それだけって感じがしたよ」と彼女は静かにつぶやいた。「小学校の卒業式にも出られなかったんだよね。一応卒業アルバムはもらったけど、なんか全然実感わかなくて。それに、『あぁ、私だけ置いてけぼりにされて、みんなはどんどん先に行っちゃうんだなぁ』って思ったら、余計に寂しくなってきちゃってさ」
 机の上には、笑いながら友達と一緒に遊んでいる彼女の写真が立てかけてあった。これはいったい、どれくらい前に撮られた写真なんだろう、と僕は思った。
 友達と一緒に、卒業式に出るはずだったのに。
 一緒に、中学校に通えるはずだったのに。
 彼女が、何をしたというのだろう。
「……あれ、なんか沈んじゃったね? こんなはずじゃなかったんだけどなぁ、ごめんね」と言って彼女は笑った。「ほら、もっと明るく、いぇーい!」
「いぇーい」と僕は言った。
 彼女も肯いた。「うんっ、それでこそあっくん!」
「……だからあっくんはやめろってば」
「あっちゃん?」
「いや、言い方変えただけだろ」
「バレた? えへへ」
 いや、ばれるとかばれないとかそういう問題でもない。
「……あっ!」
 彼女が突然、何か急に思い出したように叫んだ。
「え、なに?」
「どうしようあっくん。今何時?」
 携帯電話を覗き込むと、時刻は6時をすぎていた。窓の外はすでに真っ暗だ。
「どうしよう、今から帰ったら怒られちゃうよ」
「大丈夫だよ、今日はここに泊まってく」
 いつの間にか、口から出ていた。
 彼女は目を丸くした。
「え……ここにって、江ノ島に?」
「どうせ一日くらいなら、学校サボっても大丈夫だよ。殺されるわけじゃないし。それになんかだるいし。親も何とかなるだろ」
 僕は部屋を出つつ、彼女の顔を見た。しかし辺りが薄暗いせいで、彼女の顔から何かを読み取ることはできなかった。
「……じゃあ、うちに泊まってきなよ」と彼女は言った。「たぶん両親も帰ってこないだろうし」
「どうして分かるんだ?」
「だって、最近はずっとそうだもん。そのうちもう別れちゃうんじゃないかな」
 そう言って、彼女は悲しそうな笑顔を作った。その笑顔が、僕の胸をぎゅっと締め付けた。


***


 僕は真夜中に目を覚ました。携帯の時計を見ると、夜中の三時を示していた。僕は、結々の父親のものだと思われる大きなベッドに寝転がっていた。
 天井に目を移したが、そこには誰もいなかった。彼女はどうしたんだろう、とふと思った。近くに姿が見えなかった。
「……ねぇ、いる?」と僕は空に呼びかけた。
「いるよ」
 すると、どこからともなく声がしたかと思うと、彼女が僕の目の前にまるで沸いたように現れた。
「どうしたの?」と彼女が訊いた。でも僕は彼女がすぐそばにいたとは思いもしなかったので、すぐに言葉は途切れた。少しの間だまった後、何かしゃべろうと思って僕は話題を探した。
「あのさ、」
 と、僕はここまで言って再び言葉を切った。後になかなか言葉が続かなかった。
「なんで、連れてきてくれたんだ?」
「え?」
 彼女は僕のほうに視線を移した。
「だってほら、江ノ島に行くっていったとき、いつもなんか嫌そうな顔しただろ。だから、なんでかなって」
 彼女は何も言わなかった。
 辺りを静寂が包み、僕も黙っていることにした。
 やがて、彼女は口を開いた。
「……あっくんだったから、かな?」と彼女は言った。
「え……」
「あ、いやその別にそういう意味じゃなくてさぁ、なんていうか、その……」と彼女の声はだんだん小さくなっていった。「……ほら、死んでからはじめて会った人だし」
 僕は答えなかった。
「……きっと、ずっとひとりでいたせいで、やっぱり寂しかったんだと思うの。死ぬ前も、死んだあとも。友達だってできなかったし、お父さんだって、お母さんだって、あたしなんかいてもいなくてもよかったんじゃないかって。そのほうがあっちも楽だっただろうし。だから、誰かに言いたかったんだと思う。私はここにいたんだ、って。いつかはみんな忘れてしまうかもしれないけど、私は確かにここにいたんだって」
 言い終わると、彼女は苦笑してそのまま口を閉ざした。
 僕は、なにも返す言葉が見つからなかった。
「……おやすみ」と彼女は言った。
 僕が生返事を返すと、彼女はやがてどこかに行ってしまったようだった。しかし、僕のはどうしても目を閉じることができなかった。彼女の笑顔がまぶたの裏に焼きついていた。


 窓に朝日が差し込むと、僕はのそのそと体を起こした。その部屋は相変わらずしんとしていて、彼女の姿はどこにもなかった。
 階段を下りると、結々の姿があった。
「早いね」と彼女は言った。「どうする? 朝ごはんならパンくらいあると思うけど」
「海に行くよ」と僕は言った。
 彼女は顔をしかめた。「え、今から?」
「うん、ここにはもう長居はしない」と僕は言った。もう決めていた。「お前も来ない?」
 彼女はしばらく僕の顔を見つめていた。
 僕もそこにずっとたたずんでいた。
「……うん、行こう」と彼女は言った。


***


 小さい頃、一度だけ江ノ島に来たことがあった。小学生の遠足の頃の話だ。僕は海に行くと言われたときからそれが待ち遠しくて待ち遠しくて仕方なく、当日うきうきしながらバスに乗った。
 江ノ島の海は決して青くはなく、浜辺にはゴミがたくさん流れ着いていたが、浜辺で食べる弁当は普段とは何かが違う気がした。時々吹き付ける強い風で弁当の中に砂が入り、笑いながら砂まみれのおにぎりを食べた。
 僕は友達と一緒に海に普段着のまま飛び込んだり、貝がらを何個も拾ったりした。そこでたまたま偶然カキの貝殻を見つけ、大はしゃぎしながらそれを大事にポケットにしまった。あの貝殻はいったいどこに行ってしまったんだろう。
 昔の話だった。


 朝の浜辺で吹く風は肌寒かった。僕はポケットに手を突っ込んだまま、彼女と二人で浜を散歩した。
 日の出はとっくにすぎていたが、太陽の光が海に反射して、目を細めるくらいに眩しかった。
 僕は歩き続けた。
「……きれいだね」と彼女は言った。「本当に、なんで今までこんなきれいなものに気付かなかったんだろう……」
 僕も黙って肯いた。
 今まで僕たちは、どれだけのことに気付かずに、どれだけのものを無視して生きてきたんだろう。
 僕は歩き続けた。
「……昨日考えたんだけど、やっぱり、お前の父さんも母さんも、ちゃんとお前のこと愛してたと思うよ」
「そんなことないよ」と、彼女は悲しそうに笑った。
「だってさ、お前の部屋だって最後に家を出たときのままだったんだろ。植木鉢の下にもちゃんと鍵が残ってたしさ。お前がいつでも帰ってこれるように、母さんも父さんもずっと待ってたんじゃないかな」
 彼女は黙っていた。
 やがて足を止めて、僕は自分の足をじっとにらんだ。
 靴の近くに、真っ白くて小さい貝殻が埋もれていた。やがてそれを埋める砂は打ち寄せる波にさらわれ、そこには小さな貝殻だけが残った。僕は、それを黙って拾い上げた。
 本当に、今まで僕たちは、どれだけのことに気付かずに生きてきたんだろう?
 僕は、胸の奥に潜む何かを感じていた。


「――好きだ」


 潮風が、僕の頬を優しくなでた。
 彼女は僕のほうを振り向いた。
「好きだ」と僕は繰り返した。「好きなんだ」
 やがて、彼女は浜に降り立ち、僕の目の前に立った。彼女の背は低く、ひどく弱々しげに見えた。
「好きだ、結々」
 僕は自分の気持ちを抑えられずに、何度も何度もその台詞を言った。しかし、僕が彼女をいくら抱きしめたいと思っても、彼女のからだを抱きしめることはできないのだ。彼女の頬に触れたくても、決して触れることはできないのだ。
 やがて結々は、小さく微笑んだ。
「……ありがと」
 彼女の体は、朝日に照らされてきらきらと輝いていた。
 僕は、思わず彼女の手を取った。
 今なら、彼女の体に触れることができる気がした。
 僕は両手でしっかりと彼女の体を抱きしめた。僕の腕に彼女の暖かいぬくもりが伝わってきた。彼女の方からも、僕の体を強く抱き返してきたのが分かった。僕たちは、いつまでもいつまでもそうしていた。


***


 そして気がつくと、僕はひとりでそこに立っていた。
 見渡しても、彼女の姿はどこにもなかった。打ち寄せる波が僕の靴とズボンの裾を濡らした。その波の音だけが僕の耳に入る唯一の音だった。
 僕は黙って目をつむり、その波の音に身を任せた。僕の耳にその規則的な音が響き、僕の体に単調な揺れを感じることができた。やがてそれは波の音から心臓の鼓動へと変わり、僕の体を包み込んでいった。


(終)

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