次第に雨が激しくなってきて、僕たちは近くにあった(きっと、もう使われなくなっている)バス停跡の狭い待合室に逃げ込んで、雨宿りのためにひとまずそこで待つことにした。待合室の屋根からはバタバタと激しい雨の音がして、外はもうすっかり完全な闇に包まれて何も見えない。何もすることもなく、そこに設置してあった錆び付いたベンチに三人で無言で腰掛ける。雨はいっこうに止む気配を見せなかった。
 ふと時計を見る、午後八時。僕の胸はますます嫌な気持ちでいっぱいになる。相変わらず由希ちゃんはベンチの上で膝を抱えてうずくまっているし、カッちゃんはただじっと足元を見つめているだけだった。嫌な沈黙が僕ら三人の間に流れている。
「……これから、どうするんだよ」
 ふと、カッちゃんが呟く。でも誰も答える人はいない。それはきっと、いくらどうあがこうとも、もはや僕たちにはどうしようもないということが、既に全員に分かりきってしまっていたからだ。このバス停にたどり着いたときに、今自分たちがどこにいるか既に判別できなくなっていたし、それに、さっき交番に行ってしまった時点で僕たちの顔と足取りはもうあちら側にバレてしまっているだろうから、きっと明日か明後日には見つかってしまう。というか、それ以前に僕たちの所持金がゼロになってしまった時点で、僕たちには選択肢はただ一つしか残されていなかったのだ。でもその答えを言ってしまうときっと全てが終わってしまうような気がするから、だから僕たちはお互いに何も言わない。でもそれを含めても、僕たちにもそろそろ限界が近づいていることは、誰の目にも明らかだった。
「そんなの、わかんないよ……」
 由希ちゃんが今にも泣き出しそうな声で言う。しばらくして鼻をすする音が聞こえ、うずくまっている由希ちゃんの口からひくついた声が漏れる。膝を抱え込んで顔をうずめているせいで表情は見えないけれど、きっと由希ちゃんは泣いている。カッちゃんは口を一文字に結び歯を食いしばって、まるで何かに耐えているような顔をしている。それを見ていると、なんだか僕も泣きたくなってくる。だけど僕は結局涙が出るのを必死で我慢する。今ここで泣いてはいけない、と心のどこかで思っている。それに、僕は泣くのを我慢するのにもうすっかり慣れきってしまっているので、結局泣かないでいる。僕はぎゅっとひざの上の両のこぶしを握る。
「……もうやだよぉ」
 由希ちゃんが涙声で言う。それから首を左右に振る。
「もう、帰ろうよぉ……」

 あぁ、と僕は心の中で叫ぶ。ついにその答えを口に出してしまったと思う。

「……そっか」
 隣のカッちゃんは静かに言う。それから誰に言うでもなく、「そうだな、帰るか」と呟く。僕は我慢できなくなる。
「嫌だ」
 気が付くと口に出していた。由希ちゃんは顔を上げ、カッちゃんは無表情にこっちを見る。
「何で、何でこんなところで終わらないといけないんだよ。僕は、僕は嫌だ。帰りたくない。海に行きたい。三人で海が見たい。ほらカッちゃんだって言ってたじゃないか、海に言って叫ぶんだろ、やってみたいって言ってたじゃないか」
「でも、無理だろ」とカッちゃんは冷めた口調で言う。「金だってもうなくなったし、雨が止む頃には、きっともう日付だって変わってる。これからどっちにいくかだって分かんなくなってるのに、こんな暗闇の雨の中で走れるわけねぇだろ」
「でも、でも僕はこんなところで終わりたくないんだ、僕はこんなところで終わりたくないんだ」
「……じゃあ、誰のせいでこんなことになったと思ってんだよ!」
 突然カッちゃんが僕に怒鳴る。僕はビクッとして何も言えなくなる。
「俺だって海行きてぇよ、ずっと続けてぇよ、俺だってこんなところで終わるのなんて嫌に決まってんだろ! だけど、そんなのしたくてもできねぇから言ってんだよ。元々、お前があのとき財布なんて失くすからいけねえんだろ、お前のせいでこんなことになってんのにいちいちワガママ言ってんじゃねぇよ、このバカ! ふざけんのもいい加減にしろ、お前はただここじゃねぇどっかに逃げ出したいだけなんだ、別に俺たちと一緒に海なんかこれっぽっちも行きたくないんだ! ただ俺たちを利用しただけなんだ! そんなくだらねぇ理由で俺たちを危険に巻き込むんじゃねぇよ!」
 カッちゃんがそう言った瞬間、僕の胸がまるで刃物でごっそりと抉られてしまったような衝撃が襲う。僕は言葉を続けられなくなる。言葉が喉の奥まで出かかって止まり、声の代わりに体の奥から何か熱いものが凄い勢いであふれ出てきそうになる。涙と嗚咽が出てきそうになって、僕はそれを必死で押し止めようとするけれど、それは止まらない。僕は叫ぶ。思いっきり叫ぶ。涙が出るのをごまかすために必死で叫び声を上げる。声がかすれて消えてしまいそうになり、やがて僕は思わずカッちゃんに殴りかかる。僕とカッちゃんは取っ組み合いになって、僕らはもみくちゃになり、やがて僕のみぞおちにするどい一撃が入る。僕は胃の中のものを吐きそうになってその場にうずくまり、そこにカッちゃんの勢いの付いた蹴りが二、三発入って僕は思わず泣き出してしまう。横隔膜がひくついて苦しくて、僕は声を出せずに泣く。カッちゃんが肩を震わせて息をしているのが分かる。向こうの方で由希ちゃんが本格的に泣き始めている。
「立てよ」とカッちゃんが言う。きっとまた殴られる。だから僕は首を振ってそれを拒否する。しかしなおもカッちゃんは「立てよ!」と声を張り上げる。僕は仕方なしに立ち上がると、カッちゃんの攻撃が来る前に、泣きながら走って待合室の外に飛び出していく。飛び出したとたんに僕の体に滝のような雨が勢いよく降り注ぐ。雨の降る闇の中を僕は駆けぬける。少し走ったところで雨で水浸しのコンクリートの道路に靴が滑って、僕はその場に盛大にずっこけてしまう。腰を打ってとても痛くて僕は立ち上がれない。顔はもう雨と涙と鼻水でグシャグシャになっている。地面に手をついて何とか立ち上がろうとして、すっかりみっともなくなってしまった顔を右手でぬぐおうと鼻をすすって息を吐き出したときに僕はうっかり喉から声を漏らす。「かはっ」と情けなく咳き込むようにして、それから息を吸って、僕は「ううっ」とまた声が出て、それで僕は止まらなくなって、その場で惨めに泣き出してしまう。喉から嗚咽が漏れる。息が出来ない。顔が歪んで視界が涙で霞んでいく。道路に降る雨の音だけが僕の耳の中に入ってくる。
 不意に向こうから光が差して、僕は顔を上げる。向こうから二対のライトがこっちに向かってやってくるのが見え、僕は立ち上がろうとするけれど、膝がジンジンと痺れてうまく立ち上がれない。やがて道を走る車は、こっちの様子に気付いたのか、走りながら速度を落とし、僕の前でブレーキ音を立てて止まった。薄汚れた小さめのホワイトのワゴン。運転席の窓がシュルシュルと開いて、中から六十歳くらいのおじさんが顔を出した。
「おいボウズ、どうしたこんな道路の真ん中で。大丈夫か」
 おじさんは僕に向かって呼びかける。僕は声を出そうとして咳き込み、それから「あい」と情けなく声を出して立ち上がる。おじさんはトラックから出てきて「あーあー、オメェこんなずいぶん濡れちまって」と小さな傘の中に僕を入れて、「おいどっから来た。一人か?」と優しげな声で尋ねた。僕は泣きながら首を振り、それから背後を振り向いて、田んぼの中の雨の道路にぽつんとある待合室を指差すと、おじさんは「そうかそうか、じゃあとりあえずオメェは車ん中入ってろ」と慰めるような声で言い、僕は黙って頷いて、大人しくワゴンの中に入った。ワゴンの中は車特有のムッとした匂いで充満していて静かで暖かくて、僕はカッちゃんと由希ちゃんが入ってくるまでそこで一人で泣いた。

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