走り始めてから二時間ほどするとお腹が空いてきたので、僕らは一旦走るのをやめて昼食をとることにする。しばらく走ると道の向こうに商店がちらほらと見え始め、適当な蕎麦屋の前に自転車を停めて中に入ると、ガンガンに冷房の効いた涼しい店内がまるでオアシスのようだった。僕らははじっこの四人がけ席に腰を下ろすと、適当にそれぞれ好きなものを注文する。
「今どれくらいまで来たの?」と由希ちゃんが言うので、僕はカバンから持ってきていた周辺の地図をテーブルの上に広げ、それからみんなで地図を上から覗き込む形になる。
「えーっと、たぶん今ここらへんだと思うから……」と僕は地図を指差して言う。「うん、まぁ進度的には四分の一強ってとこかな」
「なぁーんだ、じゃあまだまだだねー」
「そりゃそうだよ」僕は苦笑する。「別にまだそんな何時間も走ったわけじゃないし、でももう少しだね。ペース的にはこんなもんだと思うけど」
「大体さー、だから連れて来たくなかったんだよ」
 カッちゃんはまだ横でブツブツ言っている。
「走ってるときは弱音ばっかり吐いてさぁ。何十回聞いたと思ってんだよ」
「康太だって弱音吐いてたでしょ、それにそんなに言ってないもん」
「言ったよバーカ」
「言ってないもん!」
「だーから落ち着けってばぁ」
 そうこう話している間に注文していた食べ物がやってきたので、僕らは話すのをやめて食べるのに集中し始める。今まで喋っていた分よけいにお腹が減っていたので、自然にお互い無言になりながら食事を続ける。
「でも海かぁー、楽しみだなー」
 ふと、由希ちゃんがまるでこれから遠足にでも出発するみたいにワクワクしながら言う。
「ねぇねぇ海着いたらどうする? 何かする?」
「叫ぶ」
 カッちゃんが言う。僕は思わず苦笑した。
「叫ぶ? いや、まぁカッちゃんらしいと思うけどさ」
「一回やってみたかったんだよ、海で叫ぶの」カッちゃんはまじめな顔をして言う。「バカヤロー! ってさ。すっごい気持ちよさそう」
「バカ康太……」
「何・か・言・っ・た・か・こ・の・野・郎・!」
「きゃー、助けてー!」
 由希ちゃんが楽しそうに声を上げてはしゃいで、カッちゃんと由希ちゃんは取っ組み合いになる。そこでしびれをきらした店の従業員の人に「店内は静かにお願いしますね」と厳しい口調で言われて、二人はしょんぼりしながらじゃれ合いをやめる。僕たちはまた食事に戻り、というか何で僕まで怒られなきゃいけないんだとちょっとだけ思いながらも、僕らはテーブルの上に残っていたものを全部たいらげてしまう。するとなんだか今までの疲れがどっと押し寄せてきて、テーブルの席で少し食休みしたあとで、ようやく僕たちは席を立つ。出入り口の前のレジでお勘定を支払うと、僕は全財産の入った財布を大事にズボンのポケットに入れて、先に出ていったカッちゃんと由希ちゃんの後を追った。



「うわぁっ、川だーっ」
 橋の上から下を見下ろして、不意にカッちゃんが叫ぶ。十何メートルも幅のある川がさわやかな音を立てて流れていて、水がキラキラと太陽の光を反射して妙にまぶしい。側の河原はこぶし大くらいの大きさの石がごろごろとしている。どこかでたくさんの蝉が一斉に鳴きはじめている。
「おい、下降りてみようぜ」
「えっ、急ぐんじゃないの?」
「いいじゃんかよ少しぐらいさー」
「えっ、なになに?」と由希ちゃんが言う。カッちゃんが「下降りてみたくねぇか」と言うと、由希ちゃんは思ったとおりに「行く行く!」と大賛成し、カッちゃんは「な、松本もいいだろ?」と僕に呼びかける。僕は顔をしかめながら時計を見る。二時半。そろそろペースを上げないとまずいかもしれないと思う。でも実際のところ僕自身もそんなことを言われるとちょっと行ってみたいのもあって、結局僕はダメだと言えずにOKしてしまう。疲れてたのもあったし、多分カッちゃんも同じように疲れていたんだろう。
「遅れても知らないよ……」
「へへへ、大丈夫だって。早いとこ行こうぜ」
 カッちゃんはそう言って笑い、それから道を引き返して橋の下への道を軽快に走っていく。由希ちゃんと僕もその後に続く。坂道を下って行ったところにある河原への階段の前で自転車を停めて、カッちゃんはウキウキしながら河原に下りて川の方へ走っていく。僕たちは靴と靴下を脱いで冷たい川の中へと入り込んだ。
「きゃーっ、冷たい!」
 由希ちゃんが大きな声を出してはしゃぐ。浅い川なので水位は僕たちの足首くらいまでしかなかったけれど、でもそれが逆に川の水をより冷たく感じさせた。カッちゃんは川の真ん中らへんまでザブザブ歩いていって、「そう、ここだよここ、ここら辺で魚が泳いでたの上から見たんだ」と声を張り上げている。そうか、それを見て川に入る気になったんだな、と僕はやれやれと息をつきながら、川で楽しそうにしている二人から離れて、川岸の石の上によっこらしょと腰掛ける。
 ふと空を見上げる。はるか上の青空の色はだんだんと薄くなり、さっきよりも雲が出てきたように感じられる。夕暮れが近づいているのだ。ぐるりと周りを見渡すと、そこはまったく知らない景色ばっかりで、何だかずいぶん遠くまで来てしまったなあと今更のように思う。もう後戻りはできないのだ。このまま海まで走っていくしかない。そうしたら、果たして母さんは僕の事を思ってくれるだろうか。僕の事を心配してくれるのだろうかと思う。それは分からない。でも出来るだけそうあってほしいと切実に思う。
「どらっ」
「うわっ!」
 バシャッと目の前で水しぶきが上がって、僕は川の水を思いっきりかぶってしまう。びっくりして視線を前に戻すと、カッちゃんが僕のすぐ前に立ってニヤニヤ笑っていた。
「へっへー、なにボーっとしてんだよ。遊ぼうぜ」
「こっ、この野郎!」
 僕の水しぶき攻撃をカッちゃんは「あたらねーよー」と言いながらヒラリとかわす。すると、川底の石か何かに滑ったのか、カッちゃんはその場で盛大にズッこけて、体ごとバッシャンと川の中に突っ込んでしまう。川の水の中で手を突いて、思わず呆然としているカッちゃんを、僕と由希ちゃんは思い切り笑った。
「……てめっ、このやろー!」
「こけたのは自分だろーっ」
「キャーッ、やだー、こっちかけないでよー」
 それからは三人で水の掛け合いになる。もう服が濡れたとかそういうのは関係なくなって、カッちゃんが両手で勢いよく大きな飛沫を僕たちに向かって放ち、直後に僕と由希ちゃんから大きな反撃を食らう。カッちゃんが叫び、由希ちゃんが悲鳴を上げ、僕が笑う。三人で笑う。まわりには僕たちのほかには誰もいない。川の水の反射するキラキラした光に思わず目を細める。思い切り笑うのは、何だか久しぶりのような気がした。
「――ん?」
 不意に違和感に気付く。腰の辺り。何かが足りないような気がする。何だ?と思って僕はズボンをちょっとだけまさぐる。その合間にも由希ちゃんが僕に水をかけてきたので、「ちょっ、ちょっと待って待って」と思わず由希ちゃんを制止する。由希ちゃんはきょとんとした顔になる。
「どうしたの?」
「え、いや、別に」
「松本ー?」
 遠くに避難していたカッちゃんが僕たちに気付いて近づいてくる。
「おい、どうした? 何かあったか」
「………」
 そんなハズはないと思う。最後に使ったとき、そう、最後に使ったのは蕎麦屋だ。確かにあの時はちゃんとリュックに、いや違う、僕はポケットに入れたのだ。リュックに入れるのがつい億劫で。それで腰ポケットに入れて、そのまま自転車に乗り込んで。その後は覚えていない。心当たりがさっぱりない。
「おい、どうした」
 自分の背筋がしだいにサーッと冷えていく。気分が悪くなる。
「――財布が」
 なかった。
「……えっ、えぇーっ! ちょっ、ちょっとどうするの?」
 由希ちゃんは驚きのあまり声を上げる。僕は思わずすがるようにしてカッちゃんの方を見る。カッちゃんは意外に冷静だった。
「……蕎麦屋のときはちゃんと支払ってたよな。心当たりあるのか?」
 カッちゃんの問いに僕はぶるぶると首を振る。冷や汗で体中に鳥肌が立っているのが分かる。びしょ濡れになった体がだんだんと冷えてきている。ふと見上げると空もだんだんと曇り始めており、さっきよりもどんよりとした雲が上空を覆いかけていた。
「……とりあえず、まだこのあたりに落ちてるかも知れないから、まずはそこらへんを探してみよう」カッちゃんは、静かに提案する。「それでちょっと探してなかったら、ほら、来る途中に交番あっただろ。そっちの方にも行ってみよう。蕎麦屋の方まで行くとさすがに時間かかっちゃうけど、そっちはどうする」
「行こうよ」
 由希ちゃんが不安げな声で言う。カッちゃんは頷き、やがて三人で黙々と無言のまま川の周辺を探し始める。自分の顔が焦りでこわばっている。もし見つからなかったらどうしようと心臓が高鳴る。ダメだ、そんなことになってはいけない。ここで引き返すわけにはいかない。僕は必死になりながら川の周辺をあてもなく捜索する。しかし、なかなか財布は見つからない。僕はだんだん泣きそうになってくる。河原の石をどけて草の根を掻き分けて、時には川の中に入り込んで探す。川の向こうにふと目をやりながら、下流の方に流されてしまったんじゃないか、という嫌な思いが頭をよぎる。もしそんなことになっていたら、もはや探しようもない。僕の心は寒々とした気持ちでいっぱいになる。僕は半ば死に物狂いで辺りを探し回る。



 でも結局、河原では財布は見つからない。仕方なく道を少し戻ったところにある交番を当たったりしてみても収穫はなく、がんばって例の蕎麦屋のところまで戻って来たときには、もう空はどんよりと暗くなり、気のせいか気温も下がってきているようだった。大体、蕎麦屋の方まで戻ってしまうことで時間を大量に浪費してしまうなんてことは最初から分かりきっていたのだ。僕たちはそこで引き返さずに、例の交番のあたりで元の道に戻って、行けるところまで行ってしまうべきだったのだ。そうすれば、もう少し希望も見えてきていたに違いない。
 やがて、絶望しきった僕らの頭上に、しとしとと雨が降り始める。

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