パソコンの電源を入れる。ガガッというハードディスクの読み込み音と共に、ディスプレイに灯がともり、やがて暗かった画面にウィンドウズのロゴマークがぽっかりと浮かび上がる。しばらくパソコンのディスプレイの前で待っていると、いつもの起動音と共に画面にデスクトップの壁紙が表示される。長いブロード・ソードを両手で握り締めた少年戦士と、ローブを着て呪文を詠唱している魔法使いらしき少女が、骸骨剣士のモンスターと対峙しているファンタジー風味のイラストだ。画面の右端にはこじんまりと『El-dorado Online』のロゴが描かれている。
 俺の椅子の隣でディスプレイを覗き込んでいた下平は、「うわー、壁紙からして病んでるな……」と俺を笑ったが、とりあえず今は無視して、右側に並んだアイコンの中から「エルドラド・オンライン」のアイコンを選んでダブルクリックする。起動と同時に最初にパッチ画面が現れ、適当に更新作業が済むといよいよエルドラド・オンラインのログイン画面が目の前に姿を現す。
「おぉー、これがEOですか……」
 下平が言う。俺は「そうだな」とだけ答えつつ、パスを入力してログイン画面に入ってキャラクターを選択し、ゲームをスタートさせる。しばらくすると画面の中に石畳の街が現れ、真ん中にキャラクターがひとりぽつんと佇んでいる。まわりにもぱらぱらと同じようなグラフィックのキャラがいる。「おぉー」と、下平が感嘆の声を上げる。
「下平、動かす?」と俺は聞く。
「いいの?」
「別に減るもんじゃないしな」と俺は答える。「あ、変なことすんなよ。金を使うな、人に話しかけるな、人を攻撃するな。あとなんか話しかけられたら俺に言え。以上」
「どうやって歩くん?」
「マウスでクリックした地点に移動。そのまま画面が動くから、そのままにしてればその方向に移動する」
 下平は俺と席を替わり、マウスをクリックして適当にキャラクターを移動させていく。下平はまたもや「うぉー、動いた!」といちいち大騒ぎしている。
「……ん? ちょっと待て」
 画面を見ていた下平が、急に俺に言う。
「なんだ下平」
「今気づいたんけど、お前のキャラのグラフィックって、これってさぁ」
「女だよ。女性アカウント」
 下平は「うっわ」と言ったあと、そのまま無言で自分の体を俺からススス、と遠ざけた。俺は何を今更という感じで下平を見る。
「変態がいる……」と下平が呟く。
「失礼な」
「ていうかさ、こういうのって犯罪だったりしないの?」下平が強い口調で言う。「性別偽ってるんだろ? 詐欺罪とかになんないんですか」
「いや、まぁバレなきゃいいんじゃん?」と俺は答える。「プレイヤーが性別を偽っているなんてザラにいるよ。それに、ネカマだって気付いた人でも案外こっちのことスルーしてたりするし」
「……大人の世界だ……」
「褒め言葉として受け取っておこう」
 適当に街の外に出る。さっきまでの活気のあるBGMから一転、のどかな曲に変わり、まっさらな草原が遠くまで広がっている。街の入り口には人がまだちらほらといたものの、草原を進んでいくともうそこには人の姿は全くと言っていいほどいなくなる。
「あ、なんかいる。スライムっぽいの」
「殴っていいぞ」
「どうやって殴んの?」
「カーソルを合わせてクリック」
 下平がクリックすると、操っていたキャラがモンスターの方までずんずんと歩いていって、手にしたワンドで思いっきりモンスターを殴りつける。殴られた方は「ブチャッ」といういい音がして、まるで四散したゼリーみたいに砕け散って、やがてフェイドアウトして消えていった。
「あ、そうだ。あれしようぜ。プレイヤーキル」下平が、ふと思いついたように言う。「街とか行ってさ。できるんだろ普通に」
「するかよ、アホが」
「でもできるんだろ? 街とかで」
「出来るけどしない。そういうもんなの」
 プレイヤーキルは、文字通り他人のキャラを攻撃して殺してしまうという行為のことを指す。一般的には『Pv』とか『PK』なんかの略称で呼んだりする。このEOと言うゲームは、そこらへんのPK行為が実は全面的に認められていて、言ってしまえばそこら辺に歩いている見ず知らずの人間をいきなり殴って殺したりすることも可能だ、という超アメリカナイズなクソゲーなのだ。
 ありえない、もしそんなことが出来たとしたらリアリティは確かに増すかもしれないが、間違いなくプレイヤーのやる気は落ちるし、ゲームそのものが破綻してしまう、と俺は少なくとも思っていた。
「……ん、なんかきた」
 下平が言う。画面に視線を戻すと、会話ウィンドウのところにいつの間にか緑色の文字が表示されている。

 +唯葉+ > あれ、いたんだ。おはー

「ん、ギルチャだ」
「ギルチャ?」
「ギルドチャット。俺のキャラが『ギルド』ってのに入ってて……まぁ組合っつか同盟みたいなもんだ。友達の集まりみたいな。ほら、俺のキャラの名前の下に『Thor's Righty』って書いてあるだろ。これがギルド名」
「あ、そのギルドの友達か、これ」
 俺は頷き、席を変わってキーボードを叩く。

 Lena > あ、こんにちはー
 +唯葉+ > あれ、今日早くない? 何かあったの?
 Lena > そうなんですよー。学校休みだったんです
 +唯葉+ > あぁ、そういえばレナっち高校生だったかー。いやぁ若いもんはいいなぁ……
 Lena > 何ですかそれ?w
 +唯葉+ > よいよい。皆まで言うなw


「このダブリューは何?」下平がまた尋ねる。
「あぁ、(笑)ってやつの略」
「妙な……」と下平は呟く。「ていうかこの人って社会人なの?」
「さぁ、仕事してるとは言ってたけどな」

 ケヴィン > うぉ、こんちわ。
 +唯葉+ > やっほー
 Lena > あ、こんにちはですー
 ケヴィン > みんな、どこにいる?
 +唯葉+ > 露天中でーす、暇人でーすw
 Lena > 適当に首都南当たりに……
 +唯葉+ > あれま。LenaちんPK大丈夫だった?
 Lena > あ、はい。今のところは大丈夫みたいです
 +唯葉+ > 気を付けなよー。そろそろ人型モンスターが増えてくる時間帯だからねー
 Lena > 人型モンスター……w


 事実、プレイヤーが起こす行動は二つに分かれた。ひとつは、高レベルキャラを作ったあとでシステムを利用して周りのプレイヤーを殺しまくること。そしてもうひとつは、前者のようなPKプレイヤーの手の届かない場所でひっそりと暮らすことだ。
 初期のころは、前者のPKプレイヤーの方がプレイヤー総数の割合として圧倒的に多いわけで、後者の保守派プレイヤーは誰もいない一点に留まり、そこでひっそりと暮らしていくわけだが、後者の割合がだんだんと増えだすにつれて、保守派の彼らは周りの人々と『俺はお前のこと殺さないからお前も俺を殺すな』という暗黙の了解を作り、密集して『集落』を作り出す。そうやって、やがてそこが『街』の代わりとなり、今度はそこを最後の拠り所として同じような保守派プレイヤー達が集まりだす。そして次第に、保守派たちの側にもPKプレイヤーの人間に対抗できる人員と戦力が集まってくる。
 そして、最終的に世界は2つに分断される。希薄な約束ごとによって繋がりあい、いつ死ぬかも分からない恐怖におびえながら暮らす人々の歪んだ世界と、PKプレイヤーたちによって無法地帯と化した荒れ果てた世界だ。

 ケヴィン > ん、首都か、近いな。レベル上げ行かない?
 Lena > ……あー、でも、今日はちょっと事情があってまたすぐ落ちちゃうんですけど……
 ケヴィン > そっか、それは仕方がない。
 Lena > あ、でも夜にまた接続すると思うので、その時にでもよろしくお願いします
 ケヴィン > おぅ、待ってるよ。


「……ケヴィンさんいつも唐突だな……」
 俺は思わず呟いて苦笑する。
「この人がどうかしたの?」
「いや、なんかこの人、俺に気があるっていう話らしくて」
 聞いて、下平は「はぁっ?」と叫んで目を丸くする。理解の範疇を超えていたようだった。そして、もうもはや何も言うまいと悟ったのか、下平は半ば呆れたような目をして俺を見た。
「いや、まぁなんだかんだでいい人だよ?」と俺はとりあえずケヴィンさんを弁護してみる。「この人実はレベルカンストふたり作ってるし、結構レベル上げの役には立ってんだけどね」
「カンスト?」
「カウンターストップ。99レベルってこと」
「……こういう人って、いったい何を生きがいにして生きてんだろうね……」
「EOじゃん?」と俺は笑う。

 多分そうなのだ。多分このエルドラド・オンライン、EOに暮らす人々の何人かはきっと、このEOこそが全ての生きがいだったりするのだ。現実世界に飽き、ただの平凡な自分がレベルアップして強くなることのできるこの仮想世界でのみ生きる事を選択したのだ。
 じゃあ、そういう人がもし、自分の全てを費やしていたそのEOというものに『飽きてしまったとしたら』、いったいどうなるんだろうか。そのときはきっと、もっと他の別の楽しみとなるものをなんとかして見つけ出し、そこにまた自らを投じるのだ。そしてそれが中心となった生活に浸りながら自分自身を満足させる。そしてまたその楽しみにやがて飽きてしまうと、また別の楽しみに手を出す。キリのない堂々巡り、当てのないシーソーゲーム。
 そして、そういうことをやっている人が、もしいつかそんな自分自身にすら飽き飽きしてしまったとしたら、そのときはどうなるのだろう。この「リアル」という名の現実世界からログアウトしてしまうんだろうか。そして、「もっと自分を満足させるものはないのか」と、別の世界を求めて旅立っていってしまうのだろうか。
 そして、俺はそんな奴らをただじっと見下ろしている。ネットの匿名性で性別を偽り、そういう奴らに目をつけて近寄って貢がせたり騙したりしている。そいつらの元に近づき、そいつらのために動いてやり、、笑ってやり、ときには泣いてやり、自分というものを「Lena」という仮面をかぶって演じている。まだ『この世界』に飽きていない奴らに。まだ『この世界』にいることに何の疑問を持っていない奴らに。そういう奴らに向かって。

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