二階から一階のロビーに降りると、そこでまた守衛さんの二人組みと談笑しているジョージの姿を確認することが出来た。
「……トニー、ちょっと先行っててくれないかな」僕は言った。「僕ちょっとジョージの話を聞いてくるよ」
 トニーは一瞬戸惑ったような表情を浮かべた。
「えっ、いいけど、どうしたの、ジェフ。さっきからなんか変だよ」
「気のせいだよ」と僕は答えた。「それに、早くウィルのところに行ってあげたほうがいい。僕もすぐ行くから」
「……うんわかった」
 しぶしぶとトニーは頷くと、ロビーを小走りに通り抜けていった。
 トニーの姿が見えなくなってしまうと、僕は思わずため息をついた。思わず近くの壁にもたれかかった。
 僕は、ボビーの言葉を思い出していた。
『ウィルはお前にあこがれてるんだよ、トニー』
 勉強もできて、優しくて、僕なんて及びもつかないくらいの優等生で。
 この僕が勝ってるところなんてひとつもない気もするし。
 もしかしたら本当はトニーは、僕なんかじゃなくてウィルと友達になるべきだったのではないかと僕は思った。なぜかは分からないが、僕はそう思った。だってお互い相思相愛、ちょうどいいじゃないか。僕は頷いた。
 僕はトニーとウィルが一緒の部屋で話をしているところを想像した。トニーの言葉にウィルが楽しそうに笑っているところを想像した。ウィルがあのグレンとギャリーの双子の兄弟にいじめられているときにトニーが体を張ってウィルを守っているところを想像した。
 僕の胸の奥でなにかがミシリと音を立てた。肉体的な刺すような痛みではなく、何かが僕の胸を締め付けるような深く大きなうねりのような痛みだった。僕は壁に肘をつきながら必死でその痛みに耐えた。しかし誰も僕の痛みを救うことはできないのだ。ちょうど僕が家族からも誰からも愛されなかったように。そして僕が誰も愛さなかったように。


「……ジェフ君、顔色が悪いよ。なにか嫌なことでもあったかい?」
 ソファに座っていたジョージは僕に会うなりそう言った。
 そんなに顔色が悪いのだろうか、と僕は思った。『嫌なこと』に心当たりがないわけでもなかったが、僕は「なんでもないよ」と首を振った。
「それで、何か僕に聞きたいことが?」とジョージは言った。
「もちろん」僕は答えた。「事件のあった日のことなんだけど」
 ジョージは虚空を見つめ、しずかに足を組んだ。
「……一応、先生の部屋で全部言ったと思ったんだけどね」
「もっと詳しく話してほしいんだ」
「そのときは、守衛さんの二人組と話し込んでたんだ。世間話をね。そしたら八時三〇分過ぎくらいにグレンがロビーを通ったのを見た。その後にウィルが通ったのも見た。それだけだよ」
「本当にウィルだった?」
「さぁね、確かにウィルだったと思うよ。同級生を見まちがう訳はないし」
「……何か不審な点はなかった? 何かを持ってたとか、挙動不審だったとか」
「さぁ? 普通にトイレに行って、そのまま帰ってきたみたいな感じだったけど」
 僕は思わずうなった。少なくともこれ以上はなにも聞き出せないようだった。
「ありがとう、また何か聞きたいことがあったらまた来るよ」
 黙ってジョージは頷いた。僕も頷いた。
「あ、ジェフ」
去り際にジョージが僕に呼びかけた。
「なに?」
「なにか悩み事があったら、僕のところに来なよ。相談に乗ってあげるから」
 ズシリ。
 その言葉が胸に強くのしかかった。
「……うん、ありがとう」
 僕は振り向いてそう言おうと思ったが、結局僕は振り向かずにロビーをあとにした。ジョージのほうを振り返ってしまうと、僕の中でずっとうずまいていたうねりが一気に飛び出してしまいそうだったからだ。僕はこぶしを強く握ってそのうねりに耐えた。


 僕が先生の部屋の前に着くと、トニーがドアの前で呆けたようにして立っていた。
 トニーは僕を見つけると、「ジェフ!」と言って僕のほうに飛び掛ってきた。
「どうしたの、遅かったじゃん」
「そうかな?」
「……充分おそいよぉ。また考え事でもしてたの?」
「まぁそんなところだよ」と僕は言った。本当にそんな感じだ。「ウィルは?」
「まだ先生と話してるよ……あっ、出てきた」
 振り返ると、ちょうどウィルが先生に見送られて部屋から出てきたところだった。
 ウィルは僕たちを見つけると目を丸くした。
「ど、どうしたの二人とも?」
「トニーが、ウィルのこと迎えに行きたいって言うからさ」と僕は言って、トニーの方を親指で差した。
「……え、本当?」
「うん、本当だよ」とトニー。
 ウィルはしばらく唖然としていたが、やがて表情が明るくなっていった。
「……ありがとう、トニー、ジェフ。なんだか心が安らぐみたいだ」
「だって、友達じゃない」とトニーはニコリと笑って言った。
 ウィルは、いままで背負っていた荷をようやく降ろしたかのような表情を浮かべた。
「……本当に、本当にありがとうトニー」
 ふたたび僕の心をさっきのうねりのような深い悲しみが支配した。僕はまたそのうねりを必死で耐え抜こうとしたが、僕の思いに反してうねりはどんどん強くなっていくようだった。
「んでさぁ、早速なんだけど」僕は早めに話題を切り出すことにした。そうしなければ間が持たないような気がしたのだ。「事件があった夜のことについて教えて欲しいんだ」
「え、事件の?」とウィルは不安げに言った。
「あ、いやそういうことじゃなくて、事件の会った日のことを話して欲しいだけだよ。ただそれだけ」
「……あんまり覚えてないよ」とウィルは言った。「ただトイレに行ってそのまま帰ってきただけだし、小実験室のほうなんて覗いたりもしなかったよ。ロビーには守衛さんたちと話してるジョージぐらいしかいなかったし……」
 確かに、普通そんな夜おそくに小実験室に遊びにいくような馬鹿はいない。そもそも、そんな時間にはもう小実験室なんて戸じまりが済んでいるのだ。
「何時ごろの話?」
「……たしか、八時半くらいだったと思うよ。うん、間違いない」
 僕は、グレンが見つけたという『八時半に小実験室で待つ』というカードの事を思い出した。
 都合のいい話だと僕は思った。そう、なんとも都合のいい話なのだ。話が出来すぎている。まるで何十年も放置された部屋の掃除をしているみたいだった。箒で掃けば掃くほど、どんどんほこりが出てくるのだ。
 しかし、かならずどこかが間違っているはずなのだ。
「じゃあ次は現場に行ってみよう」と僕は言った。「トニーもウィルもついてきて。三人寄ればなんとやらって言うだろ」
「……それってたとえが最悪だよ、ジェフ」とトニーが言った。「そうしたらジェフもウィルもバカみたいじゃないか」
「僕は君が言うほど頭なんかよくないさ。仮にもまだジュニア・ハイスクールに通ってる身だからね」
「でもさっきからジェフはずっと推理とか考え事ばっかりしてるし……、僕よりかは頭は多く回ってるとおもうよ?」
「あれはねトニー、ずっと今日の夕飯のことについて考えてたんだよ。推理も嘘」と僕は言った。
「……冗談でしょ?」とトニーは僕に恐る恐る聞いた。
「冗談だよ」と僕は言った。
 トニーは、突然後ろからハリセンで思い切りぶん殴られたような顔をした。
「……うわ、酷いやジェフっ!」とトニーはその場で僕に叫んだ。「なにさなにさ、昨日からいじわるばっかり! 僕が言った何したって言うんだよぉ!」
「別に何もしてないと思うよ」
「じゃあなんで?」
「気が付いていないのかい? 僕はさっきからずっと、君の後ろに立っているそこの女の人に話しかけてたんだよ」
 僕が低い声でそう言った。
 その瞬間、トニーの顔からだんだん血の気が引いていく音が聞こえた。
 トニーはぶるぶると震えながら、恐る恐る後ろを振り向いた。しかしそこには誰もいなかった。
「冗談だよ」と僕は言った。
「……ひどっ!」とトニーは叫んだ。さっきから表情がころころと変わるのが手に取るように分かった。
「さぁ、早く行こう。またおいてっちゃうぞ」
 僕はウィルの手を引いてトコトコとすでに歩き出していた。
「あぁっ、待ってってば待ってってば! ねぇどうして? ジェフ!」
 自分でもそれはよく分からなかった。ちょっと考えてみたが、これは小学校中学年ぐらいの女子と男子がケンカするのとおなじくらいのノリなのだと結論づけた。なんだ、僕は精神年齢がまわりよりも低いのか? というかどっちが男子でどっちが女子なんだ? と僕は続けて思考を重ねてみたが、やはりよく分からなかった。そういう気持ちは誰にも理解しえないことなのだろう、と僕は推測した。
「ねぇ、ジェフってば!」
 トニーの言葉に、僕は二つ返事を返した。

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