10

 町を出て、クロスロード駅から西へ続く道を歩いていくと、それはだんだんとゆるやかな上り坂の山道になってゆき、さらにしばらく行くと、森の“入り口のしるし”とも言える、石造りの小ぢんまりとした建物が山の斜面沿いに建っているのが見えてくる。祈り場だ。ぼくがそこをも通り過ぎると、まわりには急に木々が増えていく。
 舗装もされていない、腐葉土の積もった山道を道なりに進んでいくと、やがて、ぼくがスカイ・ウォーカーを停めていたあたりに、多くのブタマスクたちがうろついているのに気が付いた。ぼくはぎくりとして足を止めた。その拍子に足元で葉のこすれる音がし、ブタマスクたちが一斉にこっちを向いて、鼻を鳴らしながらあわてて銃をぼくに向けた。ぼくは動けなくなった。
「ヌッヘヘヘヘヘ!」
 ぼくが乗っていたものの他にも停まっていた、数台の別のスカイ・ウォーカーのうちの一つから、変な笑い声を立てて、ヨクバが降りてきた。奴は食べていたバナナの皮をポイッと足元に捨てると、ぼくを見て、ニヤニヤと笑っていた。
「うまく研究所のスカイ・ウォーカーを奪い取って、脱走したつもりだったのだろうが……、この俺からは逃げられん! まさに飛んで火にいる夏の虫とはお前のことだ!」
「……」
「捕らえろ! この死にぞこないのサンプルめ、覚悟しておくんだな!」
「違う、ぼくはもう『死にぞこない』じゃない。ぼくの名前はクラウスだ」
 ぼくの周りを、ブタマスクの兵士たちが取り囲んだ。



 初めてミハエルとテクノにあった日のことを、ぼくは思い出していた。
 コンコン、とドアをノックして、それから彼らは部屋に入ってきた。ぼくはベッドで横になっていた。二人のうち、軍服を着た長身のほうの男が、やがてぼくのベッドの横にあった丸椅子を引き寄せて腰かけ、それからぼくに言った。
「はじめまして。歩けるようになったんだってな。おめでとう」
「……」
「俺の名前は、ミハエル。お前の教育係をすることになった。後ろのはテクノ、俺の助手だ。……お前の名前はなんていうんだ?」
「……」
「どうした。口がきけないわけじゃないだろう。……そんな目で、睨むなよ。怖いじゃないか」
「おじさんたちも、ぼくに変なことするの?」
「変なことかどうかは分からんが、」彼は肩をすくめた。「少なくとも、話はするさ。こうやってな。それに、俺の名前はおじさんじゃない、ミハエルだよ」
「ミハエル」
「そう。で、君の名前は?」
「……」
「なんだ、言えないのか。じゃあ俺が勝手に名前をつけちまうぞ。俺が飼ってるペットの犬の名前さ。『イチ』っていう名前で、……何でそんな名前なのか分かるか?」
「知らない」
「一番最初に飼った犬だったからだよ。まぁ、まだ二匹目も三匹目もいないんだけどさ」
「指揮官殿、そんな由来だったのですか……」
「うるさいな、そう言われると思ったから言わなかったんだよ」後ろのテクノにそう言ってから、ミハエルは、またぼくをふり返って、「ほら、そんなの嫌だろ、俺が飼ってる犬の名前なんて。さっさと言っちまえよ。名前を言うだけでいいんだ、ほら」
「分かんない」ぼくは言った。「ヨクバたちには、死にぞこないって言われてる」
「それは……、ひどいな。じゃあ分かった、それは、今度までに思い出すか、考えておくかしておけ。宿題だ」
「宿題?」
「そう。今度までの宿題。分かるか?」
「……おじさんたち、何しに来たの?」
「ミハエルだ」念を押すように彼が言った。「ミハエル」
「ミハエルは、何しにここに来たの?」
「だから教育係って言ったろう。俺たちはな、お前を『人間』にするために来たんだよ。キングP様にそう命じられてきた。でも、人間になるにはまず名前が必要だろう。だから、お前は、まず初めに自分の名前を見つけなきゃいけない」
「そんなのいいよ。ミハエルが勝手につけちゃえばいいだろ」
「そういう訳にはいかないから言ってるんだ。お前がそういう投げやりな気持ちでいる限り、俺は、お前に自分の名前を考えさせ続けるよ。いいか、まずは三日考えてみろ。そのときにまた来るよ」



 ぼくが、うっすらと目を開けると、ぼくの寝ているベッドの脇に誰かがいるのが分かった。
 アンナだった。
 アンナが丸椅子に腰掛けて、ぼくの顔をじっと見つめているのだった。
「クラウス、起きたの?」
「……どうしてここに……」
「指揮官のミハエルさんという方が、教えてくださったのよ。あなたがここで寝ているって」
 アンナは答えて、それから、ぼくの顔や身体を、やりきれないような表情をして眺め、
「――それにしても、ひどい怪我だわ。どうしたの。何があったの」
「大したことないよ。PSIが使えれば、すぐに、治せるんだけど……」ぼくは起き上がろうとしたが、体を起こすことさえできなかった。「……これから、手術があるんだ。もう、人間みたいな思考はできなくなるって。もともと、人間のキマイラを作るのが目的だったらしいから、それと一緒に感情の機能もつけたらしいんだけど、……でも、もうそんなのいらないって、扱いにくくなるだけだって。そんなのつけたのが、そもそも間違いだったんだって」
「そんな……」
 アンナは首を振った。
「そんなことないわ。クラウスはとても、とてもいい子だった」
 ぼくは、微笑もうとした。うまくはいかなかった。
「ねぇ、アンナ」ぼくは言った。「もうこれ以上、この研究所に留まってないほうがいいよ。ぼくは、誰にも迷惑をかけないつもりだったけど、でも、ミハエルもテクノも、一緒に罰を受けたって、あいつらが言ってた。アンナもこれから何をされるかわかんないよ。ぼくと仲良くしたから。きっと変な男たちが、アンナを連れ去ってしまうよ。ぼくそんなの嫌だよ」
「いいえ、違うわ、クラウス。あの人たちが罰を受けたのは、彼らが自分で申し出たからなの。自分たちに責任があるって」
「……」
 ぼくはいっしゅん言葉を失ったが、やがてまた続けた。
「アンナ、ぼくは、きっと手術を受けたらアンナのこと忘れてしまうよ。そしたら、ぼくアンナに酷いこと言うかもしれない、酷い事するかもしれない。ぼくそんなの嫌なんだよ。本当は、そんなぼくをアンナに見せたくないだけなんだ」
 アンナはふたたび首を振って、ぼくの弱々しい手を取った。暖かかった。恐ろしくはなかった。
「クラウス、あなたが、」アンナはぼくの手を強く握って言った。「あなたが、私の本当の子供だったら、どんなに良かったことか……!」
 ぼくもうなずいた。
「うん。ぼくもお母さんがアンナみたいな人だったらいいと思ってた」
 時間だ、と外から兵士の声がした。アンナは一瞬そちらを振り返って、それから、あらためてぼくに視線を戻すと、やがて、立ち上がった。手が離れた。別れ際にアンナが言った。
「クラウス、あなたのこと忘れない! ずっとよ、ずっと!」
 ドアが閉ざされた。そして、ぼくはゆっくり目を閉じた。



 やがてぼくは目を開けることすらできなくなる。まったくの暗闇。いや、暗い、暗くないといった感覚すら奪われてしまっていた。視覚という機能が完全に遮断されたのだ。それどころか、他の五感の働きさえも失われてしまいつつあった。ただ、意識だけがずっと続いていた。無だ、完璧な。あぁ、ぼくはまた死ぬのか、と思った。一度死んで、生き返って、それからまたもう一度死んでいく。
 ぼくは本当にあの「クラウス」だったのだろうか、とふと思った。
 初めて生き返った日よりも前のことを、ぼくは未だに何ひとつ思い出せないでいた。いちばん最初の記憶は、あの病室のあの蛍光灯の光だけで、それより前のことは全く思い出せなかった。なぜだったのだろう。ぼくは本当に、あの時のぼくのままだったのだろうか?
 ぼくは、本当にあの、タツマイリ村で生まれ育った「クラウス」だったのだろうか?
 分からない。そんなこと確かめようがないからだ。
 みんなは、ぼくの事をクラウス、クラウスと呼んでいたけれど、やはりぼくは何も思い出せない。もしかしたらぼくは、生き返った瞬間からもう、あの時の「ぼく」とは違う、別の「ぼく」になってしまっていたのではないか。そう思うと、ぼくは急に、怖くなった。……怖くって、悲しかった。ぼくはもう永久に、あの頃の「ぼく」を取り戻すことはできないのだ。ぼくはもう、幸せな家族とともに平和な日々をすごすことは許されないのだ。……。
『聞こえるか?』
 ヨクバの声だった。あの、方向の分からない残響のような声だ。
『今から、お前の意識は完全に封印される。残念ながら、削除まではされない。そうするとお前の今まで得た戦闘技術や知識、経験まで失われてしまうからな。だからあくまで、お前の意識の抑制、強度の洗脳に留まる。何か言いたいことはあるか?』
 ……殺して。
『始めろ』
 やがて、電気のスイッチが切られるような音がした。パチン。そして、ブラックアウト。



 リュカ。
 ぼくは、お前のことが、少しうらやましい。
 だって、お前にはまだ、かろうじてまだ帰れる場所がある。あの風の心地いい丘や、木々のすき間からもれてくる日の光や、笑顔でお前のことを迎えてくれる、優しい街の人々が、まだお前には残されている。満足にものを食べ、安らかに眠り、楽しげに歌うことができる。何より、お前は、家族の思い出を『まだ持っている』。
 ぼくは、そうしたものをすべて失ってしまったから。自分のせいで。
 だからぼくは、お前のことがうらやましい。人生のなかで、どんなにつらい事や悲しい事があっても、すでに死んで、全てを失くしてしまったぼくから見れば、『それ』は、どんなに、どんなに手を伸ばしてもつかめないものだ。


 リュカ。

 お前には、最後まで会うことができなかった。


 それが少し、悲しい。


 リュカ。







 お母さん。




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