『家族で クラウスとリュカの誕生日に』


 その文字を見つめながら、このメモはいったい誰が書いたものなのだろう、と思った。もしかしたらお母さんかもしれない。少なくとも、表の張り紙の文字とは明らかに雰囲気が違っていた。その、すらりと美しく、それでいて柔らかな文字に、ぼくはお母さんの面影を見出していた。写真でしかその顔も知らないぼくのお母さんが、その写真の裏にさらさらと、しかし一文字一文字にさまざまな思いを込めながら、メモを記していく。その様子を思い浮かべ、ぼくは、そこから目を離すことができなかった。ぼくはその写真をもう一度ひっくり返すと、それからそれを、ひしと胸に抱いた。
 永久に会えないと言われた家族に、ぼくのお母さんに、ぼくは、ようやく出会うことができたのだ、ようやくめぐり合うことができたのだと、そう思った。



 もう夕暮れ時だった。研究所のロビーにも、西に傾き始めた夕方の日の光が差し込んでいた。そこには、受付のデスクに座っているアンナ以外には誰もいなかった。ぼくは、声をかけた。
「アンナ」
「……ジョニー?」アンナは、ぼくの顔を見て、かすかに喜びの表情を浮かべた。「心配してたのよ。ここのところめっきり姿を見せなかったから。何かあったの?」
「うん。ちょっと。考えごとをしてたんだ」ぼくは言った。「ねぇ、それよりさ、ぼくの本当の名前が分かったんだよ」
「本当?」
「うん。クラウスって言うんだって。その、まだ、実感はわいてないんだけど……」
「そう」
 アンナはそう言って、ぼくに向かって幸せそうな笑みを作ってみせた。ぼくも、それを見て幸せだった。
「……クラウス」
 アンナが、ぼくの名前を不意に呼んだ。
「えっ?」
「クラウス」
「なに」
「呼んでみたのよ、試しに。いい名前だわ」
「……ありがと」ぼくは礼を言った。
 やがて、話すことがなくなり、ぼくとアンナの間にわずかな沈黙が流れた。ぼくは大事なことを言おうか言うまいか、悩んでいたが、ふと顔を上げると、やがて、
「じゃあ、さよなら」
「えっ? ――ええ、さよなら」
「さよなら!」
 ぼくはそう言うと、やがてパッと駆け出した。廊下に戻る途中で、もう一度くるりと振り返り、再びアンナに「さよなら!」と呼びかけた。アンナは笑っていた。ぼくも笑った。それからは、もう二度と振り返らなかった。



 ぼくは、持っていたその写真を、そっとポケットの中にしまいこんだ。
 それからもう一度家の中をぐるりと見回し、息を吸い込んだ。この家のにおいがした。



 目の前のスクリーンには、初めて見る広大な世界が広がっていた。眼下には一面に森が開けており、その中を縦断するように線路が通っていて、ぼくの乗るスカイ・ウォーカーはそれに沿って飛行を続けていた。操縦は自動になっているので気にする必要はなかった。ふと、コックピットに備え付けられていた携帯電話が鳴り、ぼくは、それを取った。
「もしもし」
『クラウス!』テクノの声だった。『どうしてだ、どうしてこんな事をした! お前、自分のしたことの意味を分かってるのか!』
「うん。ひとりで勝手に決めてごめんなさい。でも、よく考えて決めたことなんだ。もともと、ちょっと本気を出せば、実験室の扉を壊して、無理やり脱出できそうだっていうのは、わかってたし」
『そうじゃない、僕が言ってるのは!』
「言わないで、テクノ」
 ぼくは言った。テクノは押し黙った。
「……ごめんなさい」ぼくは謝った。「でも、でもね。ぼく、やっぱり、どうしても行かなきゃいけないって思ったんだ。なんでだか分かんないけど、でも、ぼくは、……もう、たとえ死んじゃってもいいから、家族に会いたい。そして、一目だけでもその姿を見たい。お父さんや、お母さんや、ぼくのきょうだいや、まだ見たことのないぼくの家族の、その姿を、一目だけでいいから、たった一目だけでもいいから、この目で見てみたい」
『……』
 受話器の奥は、無言だった。
『クラウス、』やがて、テクノが呟くように言った。『僕は、君のこと、まるで、本当の弟みたいに思ってたのに……。指揮官殿だってそうだ、君のこと、本当に、本当に家族のように心配して』
「ごめんなさい」ぼくは、ふたたび謝った。「……でも、テクノもミハエルも、心配しなくていいんだ。これは、ぼくが勝手に思いついて、ぼくが勝手にやったことだから。だから、二人には、何の迷惑もかからなくて済むと思うし」
『! お、お前!』テクノは怒鳴った。『お前、そんな……、僕たちに気を使ったのか!! ……そんな、そんな真似、君はまだしなくていいんだよ!! バカ、この……、もっと君は、子供らしくできないのかよ、そんなに、無理しないで、一人で抱え込もうとしないで……。一言、せめて一言だけでも、ぼくや指揮官殿に相談してくれれば良かったのに……』
「ごめんなさい」
 ぼくはまた謝った。
「テクノ、ぼく、電話してきてくれたのがテクノで、本当によかった」
『……』
「ミハエルやほかの誰かだったら、ぼく、何もいえなかったと思うし。ミハエルによろしくって伝えておいて。テクノとだから安心して話せたんだ、ぼく。最後にあなたと話せてよかった。ありがとう」
『ばか、なんだよそれ、フォローになってないって……』
 テクノは言った。その声は震え、泣いているようだった。
『……もういちど電話するよ』やがて、テクノが言った。『これから、君ができることはひとつだ。ヨクバの追っ手から目の届かないところまで逃げ続けること。きっと君のPSIも、遠隔操作でもう封じられてるだろう。だからきっと見つかったらすぐに捕まってしまう。いいか、タツマイリ村に着いたら、そんなに長居はするんじゃない。奴らが君を追ってくる頃合になったら、また電話するから』
「いいよ、そんな事、そうしたらテクノまで巻き込んじゃうよ」
『いいから、させてくれ!』テクノがまた怒鳴った。『……お願いだよ、そんな、悲しいこと言うな……。君はひとりじゃないんだよ、頼ってくれよ、どんなささいな事でもさ。お願いだよ……』
 ぼくは、何も言えなかった。



 テリの森の、街に程近いあたりの茂みの中にスカイ・ウォーカーを隠し、山道を下りていった。まわりの木々が風で揺れて、静かに波のような音を立てた。大木をくりぬいたトンネルのような道を抜け、森の出口にさしかかった時、向こうの方から、ひとりの男が歩いてくるのが見えた。
 歳は四十歳くらい、カウボーイ風のハットとベストを身に着けており、頬はこけ、あごには無精ひげを生やして、あまり生気の感じられない男だった。彼はぼくの姿を見つけると、立ち止まり、ぼくの顔をじっと見た。ぼくは思わず息が止まった。足が止まり、目をそらすことができなかった。
 しばらくして、男は目をぐっと指で押さえ、それから首を振った。
「……リュカ、か。なんだ、驚かすな」
「……」
「そうだよな、まったく、どうかしてた。実の息子を見間違えるなんて……」
 男は自嘲気味に、静かに笑った。
 ぼくは、
 ぼくは、何と言っていいのか分からなかった。
「久しぶりに、母さんに挨拶していけ」
 男が言った。
「母さん?」
「あぁ。今日はいい天気だし」
 男はそう言うと、じゃあな、と告げて、ぼくに優しく微笑みかけ、それからぼくの脇を通り過ぎていった。森の奥へと入っていくその男に、ぼくは、ただ何も言えず、その場に立ちすくんで、後ろ姿を見送っていた。

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