手足の感覚がだいぶ戻ってきはじめたころ、いつも診察に来る若い男のドクターが、今日は足を診せてくれとぼくに言った。ぼくはうなずいて、向こうから見えやすいように体勢をととのえた。ぼくは簡単な下着しか着ていなかったので、ドクターが毛布をとると、そこにぼくの何もまとっていない足が見えた。ドクターは足の平あたりから、ぼくを触診していった。
「ここを触っているのは分かる?」
「……分からないです」ぼくは言った。
「じゃあ、ここは?」
「分かりません」
「この辺りは?」
 ドクターはぼくのひざの上の辺りを触っていた。
「……すこし、感じます」
「じゃあここは」
「はい」
「ここは?」
「……はい」
「ここは」
 ぼくは、ドクターの手の動きがちょっとおかしいのに気付いた。さっきから、ぼくの太ももの肉づきのいい部分の辺りしか触っていないのだ。
「先生、あの」
「なんだい?」
「……あの、もう、いいです」
「あぁ、じゃあ、ちょっと待ってね」
 ドクターは優しそうにうなずき、しかしそれでもぎりぎりまで粘るようにして、やっとおそるおそる手を離した。そして顔を上げると、
「じゃあいつも通り、今度は体のほうの触診しようか」
 ぼくは、躊躇した。確かにいつもなら体の診察もドクターにやってもらっているが、今回は少し様子が違うような気がした。ぼくは、はじめて、怖いと思った。悪い予感に胸騒ぎがして、
「あの、」
「何だい?」
「……いえ、その」
「なにもないなら続けるけど、いい?」
 ドクターの声に少し重みが増していた。ぼくは何も言えず、黙っていた。ドクターは、ぼくが何も言えないのを見て、動かないぼくの腕の代わりにぼくの服をまくり上げると、脂肪のついた腹のあたりを手で探りはじめた。ぼくは、怖くて、声が出せなかった。
「ここは?」
「……」
「ここは?」
「……」
「ここは」
「……あの、先生、」
「じゃあここは」
「先生、やめてください!!」
 ぼくとドクターの二人しかいない病室に、ぼくの声が響いた。奥歯がかたかたと震えていた。ドクターは手を引っこめ、それから立ち上がると、
「順調に回復しているようだね。続きはまた今度診るから」
 と言って、何食わぬ顔をして、部屋を出て行った。ぼくは、体の震えが止まらなくて、そのまましばらく何もできなかった。



 二日後、ドクターがまたぼくの部屋にやってきた。ぼくはドクターの顔を見た。ドクターは無表情だった。たぶんぼくはおびえるような目をしていたんだと思う。ドクターは、ぼくのベッドの横の丸椅子に腰かけ、ぼくに優しく語りかけた。
「じゃあ、診察しようか」
「……いやだ」ぼくは首を振った。
「でも、これは決まりなんだよ。診察はちゃんとしないと」
「じゃあ、別の人に代えてください」
「そんな訳にはいかないよ」
「なんでですか」
「いいから、少し、黙って」
 ドクターの手が、毛布の中のぼくの足に伸びてきた。ぼくは、息が止まったかと思った。ドクターの手はぼくの太ももをさすりながらだんだんと上ってくる。ぼくは顔を思いきり振り、体をよじって抵抗した。ドクターは手を離して、ぼくの体をがっしりと捕まえて動かないようにした。
「嫌だ、やめて!」
「抵抗しないで。ね」ドクターが言った。息が荒くなっている。それからドクターは、そっとぼくの動かない片手をとって、ゆっくりと自分のほうへと引き寄せていった。
 ぼくの手の先が、ドクターの股間にふれた。そこには何かごつごつした固いものが入っていた。ぼくは背筋が凍りついた。恐ろしかった。ぼくは泣きそうになりながら、それを懸命に拒んでいた。
「ほら、分かるでしょ」ドクターは恐ろしい顔つきでそう言い、それからもう一方の手をぼくの頬にのばして、数本の指でそっと撫でた。「君は可愛いね」
 やめろ! 誰か助けて!!
 その時、ぼくの体のまわりから、突然風が生まれた。衝撃波だった。ドクターの体が、ぶおんと浮き上がったかと思うと、そのまま吹き飛ばされ、向こうの白い壁に勢いよくたたきつけられた。そのあとに沈黙だけが残った。
 ぼくは、一瞬なにが起こったのか分からなかったが、あわててベッドから這い出すと、床に立ち上がり(そう、立てたのだ!)、そのまま走って部屋を出て、廊下を一目散に駆け抜けた。途中ですれ違う他のドクターたちが、驚いてぼくの方をふり返っていた。ぼくは脇目もふらずに突き当たりのトイレに入ると、目についた個室の中のひとつに逃げ込んで、いそいで内側から鍵をかけた。
 扉にもたれて、深く息をついた。まだ息が苦しい。心臓が、さっきの恐怖でばくばくと高鳴っていた。ぼくはそのまま動けなかった。
 そして、次の日から、ぼくの担当のドクターが変わった。前の男には、それから二度と会うことはなかった。

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