「クラウスちゃんのこと?」
「うん」
「……そうねぇ」
 タツマイリにただ一つだけあるホテル・YADOで働いている女性、テッシーは、少し考え込むようにしてから、ぼくに言った。
「そういえばクラウスちゃん、あの日の朝、だれよりも早くヒナワさんのお墓に行っていたみたいなの。わたしお墓に行く途中で、帰るクラウスちゃんとすれ違って、それで、声をかけたら、ちょっとだけ微笑んで……、そして、急に駆け出して……」



 『クラウス』が行方不明になったのは、彼が、死んだ母の墓の前でお参りをした後、すぐのことだったという。村の人間にもはっきりクラウスがどこへ向かったのかは特定できず、ただ、村のはずれに住んでいる『マジプシー』が、クラウスを家に立ち寄らせた、という情報があったきりだった。
 マジプシーというのは、このタツマイリ村を大昔から守ってきた魔法使い、であるらしかった。彼ら(彼女ら?)は『PSI』という人知をこえた不思議な力を操ることで有名で、そして、母の仇を討つためドラゴの住む台地へと向かおうとしていたクラウスに、マジプシーたちはその力を授けたというのだ。
 そしてクラウスは、家から持ち出していた手作りナイフを片手に、一人でドラゴ台地へと向かった。ドラゴ台地はオリシモ山から続く、草木も生えない荒涼とした岩だらけの高地だ。黄土色をした大きな岩石が、通り道のあちらこちらに転がっており、また急な崖なども多いため、一歩足を踏み間違えれば大人でも大きな怪我をしかねず、誰もめったに足を踏み入れようとはしない。周りを囲む山から吹き付ける風が岩場に流れて、その音が反響して、まるで竜が鳴いているように聞こえたりするという。



 そして、その後、クラウスの行方を知るものは誰もいなかった。履いていた靴だけがドラゴ台地に残っていて、その死体どころか、髪の毛一本さえ見つからなかった。実は彼が失踪したとき、その父のフリントが、ヒナワの父であるアレックを連れてすぐに捜索に出ていたのだが、彼らがドラゴ台地に着いて見つけたのは、「改造手術」を受けてサイボーグ化し理性を失った、変わり果てたドラゴの姿だった。クラウスの靴もその辺りで発見されたという。
 改造を受けて暴走した野生動物たちや、今まで見たこともない「キマイラ」の姿は、それ以前、クラウス(とリュカ)の母親であるヒナワが死んだ夜などにも、テリの森にて目撃されていた。その日、テリの森は原因不明の大火事が発生しており、そこには、謎の「ブタの仮面の男たち」も一緒に目撃されている。



 ブタの仮面の男たちとは、きっとヨクバの軍隊の連中だ。
 ぼくが、研究所でまだPSIの実験を受け続けていた頃、ミハエルがぼくを研究所の外の狭い庭に連れていってくれた。ぼくは今までずっと、庭はおろか窓の外にすら出ることを許されていなかったため、外の空気を吸うのは初めてのことだった。
 地面には芝が生い茂っていて、数頭のキマイラたちが放し飼いにされているほか、今日に限っては、なにやら研究所の前にスカイ・ウォーカーが二台ほど停められていた。人の出入りも激しく、ミハエルはぼくとテクノを引き連れながら、兵士の一人に声をかけた。その兵士がブタマスクだった。(その一人だけではない、おそらく、その庭で動き回っていたほとんど全員がそうだった。)
「おい、そこの」
 ミハエルが声をかけて言うと、ブタマスクは敬礼をした。
「はっ、何でありましょう!」
「今日はどうしたんだ。何かあるのか?」
「は、はい。えー、いや何でも、以前から研究されていた『究極キマイラ』の開発に成功したということで、これから地下の飼育室に搬入するため、我々が駆り出されているのであります。指揮官殿」
「……? たかが搬入で、これだけの数が必要になるのか?」ミハエルは眉をひそめた。「まぁいいか、引き止めて悪かったな。任務に戻ってくれ」
「はっ。それでは、失礼します」
 ブタマスクは戻っていった。
「ミハエルは手伝わなくていいの?」とぼくは聞いた。
「これくらいは、俺が指揮するまでもないんだろう」ミハエルは答えた。「それに、上の判断では、そんなことよりもお前の『精神の育成』のほうに重きをおくべき、ということになってんじゃないのか」
「……しかし、」テクノが尋ねた。「明らかに普通のキマイラたちとは扱いが違いませんか?」
「そうだな。……俺も一度だけ、サンプルの映像を見たことがあるが……、なんというか、あれは、恐ろしかった。開発途中で犠牲者も何人か出たらしい」
「ぎ、犠牲者って……」テクノが呟くように言った。
 ぼくらは、しばらくその辺りを適当にぶらぶらと散歩した。空はどんよりと曇っていた。途中、道端に小さな白い花が咲いているのを見つけ、ぼくはアンナにあげようと大事にそれを手でそれを摘んだ。時おり、首すじの裏がずきんと痛んだ。
「すまんな」ミハエルが後ろで言った。「初めて外に出たっていうのに、こんなに何も無いところで」
「ううん」ぼくは首を振った。「とっても楽しいよ。すごく。時々空気が流れてきて、それが気持ちいいんだ」
「それは風というんだよ。覚えておくといい」
 ぼくはうなずいた。



 そしてその日も、ぼくはアンナの所へ行った。
「アンナ!」ぼくは受付のデスクに飛びつくと、顔を上げて言った。「こんにちは!」
「こんにちは」
「アンナ、今日ぼく、外に出られたんだよ」そう言って、ぼくはアンナにさっき摘んでおいた白い花を差し出した。アンナはおどろきながらも、それを受け取ってくれた。「ミハエルが、許可をもらってきてくれたんだ。それ、今日摘んだ花」
「そうなの? どうもありがとう」
「ねえアンナ」ぼくは尋ねた。「アンナは結婚してる?」
「結婚? してないわよ」
「でもさ、アンナはこの前、もし子供が生まれたらジョニーって名前をつけるって言ったよね」
「そうね」
 アンナは微笑んで答えた。
「ねえ、本当に結婚してないの?」
「してないわよ」
「じゃあ、アンナは今好きな人いる?」
「いないわ」
「本当に?」
「本当よ」アンナは笑った。「どうしたの? 今日は。何かあったの?」
「ううん、何でもないんだ」
「どうしたのよ」アンナは、ぼくの不自然さがおかしかったのか、また小さく笑う。「じゃあ、あなたは? あなたは今好きな人いる?」
「いるよ。アンナが好きだ」
「あら、嬉しいわ」
 アンナは微笑んだ。
「信じてないの?」
「信じてるわよ。私もあなたのこと好きよ」
「そういう好きじゃなくて。ぼく、本気なんだ」
「ありがとう。……でも、私を口説くにはまだちょっと早すぎるわ。気持ちだけ受け取っておくから」
 そう言って、アンナはぼくの頭を優しくなでた。ぼくは一瞬だけ彼女の顔を見、それからぱっとその手を払ってしまうと、その場から走り去った。
 顔が熱かった。ただ、頭に残った手のぬくもりだけが、そのままずっと残っていた。

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