目の前の椅子に座って、ここまでのぼくの日記を呼んでいたミハエルは、ため息をつくと、ノートを閉じてぼくと再び向かい合った。彼はあきれるようにして、
「……ここまで正直に書いてもらえると、こちらとしても嬉しいんだがね」
「そっか」ぼくはうなずいた。「でも、目の前で読まれると、少し照れるんだ」
「すまんな。でも、これも仕事上しかたないんだよ」
 ミハエルは背の高い男だった。ぼくは、彼の顔を見ようとするたびに、自分の首を最大限に曲げて彼を見上げないといけなかった。グレーの短い髪に、同じくグレーのきりりとした目をしていて、白衣は着ておらず、黒とオレンジの軍服をいつも身にまとっていた。彼は、ぼくの教育係ということになっているらしく、訓練が終わるたびにぼくの部屋までわざわざやって来てくれていた。
「一応、お前のやっていることは、すべて俺が監視していないといけないんだよ」ミハエルは再びため息をつくように言った。「こういう役はあまり向いてないんだけどな。……その、首筋にあるもの、何だか知りたいか?」
 ミハエルはじっとぼくの目を見た。ぼくはうなずいた。
「制御装置だよ。こうやって俺と話をしている間は、超能力が使えないだろ? つまりはそこでオン・オフの切り換えが行われてるのさ。今はオフ。実験のときなんかにはオンにされる」
「なんだか、気持ち悪いな」
「俺もそう思うよ」ミハエルは静かにうなずいた。「俺たちの他に、誰か知り合いはいるか? この研究所内で」
「いるよ。受付の女の人だ。アンナって名前の」
 アンナは、ぼくがドクターに連れられて受付を通るたびに、いつも微笑み返してくれる優しげな女のひとだった。栗色の髪を長く伸ばしていて、歳のころはよく分からなかったが、ぼくに悪い印象は持っていないように思えた。少なくとも、ぼくを死にぞこないと呼ぶ彼らよりは、だ。



 ぼくはある時、トイレに行くふりをして部屋を出て、受付にやってくると、背を伸ばしてデスクの向こうの彼女に声をかけた。
「こんにちは!」
「こんにちは」彼女は穏やかに答えた。
「あの、あなたの名前はなんて言うんですか?」
「アンナよ」彼女は静かにほほえんだ。「あなたは?」
「ぼくは、……あの、ドクターたちにはサンプルって呼ばれてるよ」
「そう」アンナはうなずいた。「じゃあ、なんて呼べばいいのかしら?」
「分からないけど、でも、アンナの呼びやすいように呼んで。何か別の名前でもいいよ。飼ってる犬の名前でも」
 ぼくがそう言うと、アンナはそれが可笑しかったのか、少しだけ笑った。笑顔もきれいだとぼくは思った。
「そうね、じゃあ、あなたのことジョニーって呼んでもいい?」
「ジョニー? それは誰?」
「私が、男の子を産んだときにつけようと思ってる名前」



「ふぅん、なるほどね」ミハエルは組んでいた足を元に戻し、それから後ろでノートパソコンにカタカタと何事か打ち込んでいる若い男に向かって、呼びかけた。「テクノ、ちゃんと書いてるか?」
「はい、書いてます。指揮官殿」
 テクノはミハエルがいつも連れている部下で、小柄だが少し太った男だった。前髪をいつも気にしていて、黒ぶちの細いメガネをかけていた。テクノはミハエルのことをよく「指揮官殿」と呼んで慕っていた。
「ふむ」と、ミハエルはまたぼくの方に向き直り、それからまた続けた。「あと、所内では嫌がらせみたいなのは受けてないか?」
「え?」
「お前がいやだと感じたことでいいんだが。何かないか?」
「特にないよ」
「そうか」ミハエルはうなずくと、持っていたノートをぼくに返した。「日記は、これからも続けるといい。何かを残そうとするのはいいことだよ。名前のほうは思い出せたか?」
「ううん。まだ」
「そうか。俺も調べておくよ」ミハエルはそう言って、椅子からゆっくり立ち上がる。「じゃ、またな」
「今度はいつ来るの?」
「また三日後だよ。それまで、せいぜい楽しみにしとくんだな」
「うん。わかった」
 ぼくがうなずくと、ミハエルは苦笑した。それから、テクノを引き連れて、手でさよならをしながら静かに帰っていった。ぼくは部屋にひとり残されたまま、ミハエルから尋ねられた質問のことを思い出していた。

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