本当なら、定時にスカイウォーカーを停めてあるテリの森に戻らなければならなかったのだが、ぼくの足は森へは向かわずに、町のほうへ向かって歩き出していた。町は、中央の広場を中心にして、家並みを抜けるように東西南北へ道路が続いていた。中央の広場には芝生が広がっており、ガーベラの花の咲きみだれる花壇に囲われ、ベンチなどが数台設けてあるきりだった。その傍で女性たちが三人立ち話をしていた。ぼくは声をかけた。
「すみません、」
「あら。リュカじゃない」女性たちのうちの一人、金髪の女性がぼくに答えた。「チチブーには行けたの?」
「あ、はい、おかげさまで」
 ぼくは嘘をついた。
「あらそう、良かったわ」その女性が言った。「でも、急にどういう風の吹き回し? コーバに行きたがるなんて。あなたの家はシアワセのハコだってなかなかもらおうとしなかったでしょう」
「いえ、まぁ、色々あったので」
 あはは、と、となりの派手なメガネをかけた女性が、とりあえずといった調子で笑い、
「いろいろねぇ。まぁ、なんだか知らないけどがんばって。……それより、そのさっきから変にかしこまった言葉づかいなのも、それと関係あるの?」
「え?」
「そうよぉ、とつぜん敬語になんかなっちゃって」三人目の、太った化粧の濃い女性が割り込んで言った。「水臭いったらないわよ。何か変なものでも食べた? ホホホ」
「……や、その」内心、しまったと思っていた。「……なんていうか、確かに、その、変、だったよね。うん。ははは」
「リュカ、やっぱり何か変よ?」最初の金髪の女性が、心配そうに言った。「娯楽がないせいよ、きっと。それで心に余裕がなくなってるんだわ。シアワセのハコのひとつでも買ってみればいいのよ。そうすれば人生、変わるかもしれないわよ?」
「いや、」ぼくは答える。「違うんだ。その、実は……地図が、そう、この町の地図がほしくて。この前なくしちゃったんだ、それで、買いに来たんだけど……その、どこに売ってるかなって」
 三人は、ぼくの言葉に、一瞬ぽかんとしていた。また変なことを言ってしまったかと思った。
「……あぁ、地図なら、マップソンさんにもらえばいいんじゃない?」派手なメガネの女性がまた言った。「あの人、地図ならたくさん持ってるだろうから、言えばすぐにくれると思うし。買ったりするまでもないわよ。でも地図なんてどうするの、今さらこの町のどこに迷うこともないでしょ」
「うん、そうなんだけど。でもどうしても必要なんだ、今は」
「……」三人は、再び怪訝そうな顔をして、互いに顔を見合わせた。「なら、いいんだけど」
「うん。じゃ、さよなら」
 そういってぼくはその場を去る。後ろで、三人がひそひそと話し合っている声が聞こえた。「……やぁだ、どうしたのかしら」「リュカったら、前から思ってたけど、やっぱりちょっとどこかおかしいんじゃないの」……。



 そのマップソンという男は、町の北にあるゲートのそばでぼんやりたたずんでいた。黒いハットにサングラスをかけた大柄な男で、暑いのか、しめていた赤いネクタイをゆるめて、シャツの中にパタパタと風を送り込んでいた。
「おっ? やぁ、リュカ」彼はぼくのことに気が付いて声をかけた。「地図好き、地図持ちのマップソンにご用といえば、地図のことだね?」
「あ、はい。地図をもらえると聞いたもので」
「……」
「どうしたんですか?」
「……い、いや。まともに人からそう頼まれたのも久しぶりだったから……」マップソンはそう言って、頭のうしろをボリボリとかいた。「ちょっと待ってろ。……、うん、これがいいな。たぶんこれが、持っている地図の中で一番見やすいもんだ。分かるかい? ここが、今リュカとおれたちのいる場所で、北に行けばクロスロード駅があるし、西へ向かえばオオウロコ海岸がある。東は、老人ホームと訓練所だし、南はあんたの家。印もつけてあげようか?」
「はい。じゃあお願いします」
「……」彼は、やはり一瞬とまどっていたようだったが、やがてふところからペンを取り出すと、地図にひとつひとつ丸をつけていった。しかし、何だか今ひとつ納得できていないような顔つきだった。
「……ふぅ。いやぁ、何ヶ月ぶりだろう」彼は半ば感動しているように言った。「こんなに自由に地図の話ができるなんて。鉄道がこの村にできて、たくさんの人がこの辺りにやってくるようになってから、おれの仕事もしばらくは続けていけてたんだけど、最近は、もうめっきり誰にも声をかけてもらえなくなってね。まぁ、地図の話しかできないからしょうがないんだけど……。それで、近ごろは地図以外の話もしてみようと頑張っていたんだけどね、いやぁ、でもうれしいなぁ。やっぱり、おれは地図が好きなんだと改めて実感したよ。どうもありがとう」
「いえ、とんでもないです」ぼくは苦笑して言った。「それじゃ」
「……え? あっ、ちょ、ちょっと待ってくれ」
 地図を見ながら歩き始めようとしたぼくを、彼がふと引きとめた。
「何ですか?」
「いや、」
 マップソンさんは何かまだ釈然としないような顔をして、続けた。
「……リュカ、お前、もしかして、本当は別のことを聞きたかったんじゃないのか? それで、おれなんかに改めて話しかけてきたりしたんじゃないのか? 本当は、地図の話をしにおれなんかの所へ来たんじゃあ無いんじゃないか? どうなんだ?」
 ぼくは、言葉に詰まってしまった。
「リュカ」
「……マップソンさん、」ぼくは、心の中にある言葉にならないものを、ひとつひとつ丁寧に形にしていくように、言葉を連ねていった。「マップソンさんは、クラウスのこと、憶えてますか」
「クラウス?」
「はい」
「……分からないな、三年も昔のことだし」マップソンさんは首を振って言った。「おれは、地図のことしか話す能がなかったから、クラウスと話すにも、地図に印をつけてやるときくらいしかなかったし。それがどうかしたのか、リュカ」
「――ぼくは、」
 彼に本当のことを打ち明けてしまおうか、とぼくは思った。そうすれば彼は、ぼくのことを思い出してすっかり歓迎してくれるかもしれない。でも、それはぼくにはできなかった。ぼくはぼく一人だけで生きているわけじゃないのだ。
「その、ぼくは、『クラウス』のこと、何も思い出せないんです。何も憶えていないんです。何も、分からないんです。……本当に。ぼくの記憶の中から、完全に、すっぽりと抜け落ちてしまっているんです。だからぼく、それが怖くて。だから、いろんな人に聞いて回っているんです。聞いて回りたいんです。この村にいた頃のクラウスのこと、この村で、クラウスがどんな奴だったか、この村でクラウスは何を話し、何を思い、何を感じていたのか……、それを、ぼくは取り戻したくて、それで、ぼくは、ぼくは……」
「リュカ」マップソンさんは、ぼくを優しくなぐさめるように言った。「そうだったのか。無理ないよ、あんなことがあった後だものな。あの三年前のあの日から、ずいぶんいろんなことが起こりすぎた。この村もいつの間にかずいぶん変わってしまったし。……いろんな人に、いろんな事を聞くといい。そうすれば気も晴れるだろう」
「はい」ぼくは頷いた。



 ぼくの家は、地図に記されていた通り、南の岬のさきにあった。家は火事でもあったのか、全体のおよそ半分が焼け落ち、黒こげになっていて、その辺りに羊が二、三頭放し飼いにされていた。おそらく飼育小屋か何かでもあったのだろう。住居のほうは無事で、その家の前には小さな犬小屋があったが、中を覗いてみても何もいなかった。
 木造のこの家は、全体的にずいぶんと年季の入ったもののようだったが、ドアの、ノブの部分だけがなぜか新調されていた。ドアの前には、張り紙があった。
『2,3日のあいだ留守にします。ご用の方はそれからどうぞ。  リュカ』
 おそらく本人の文字なのだろう。
 扉を開けて中に入ると、ふわりと、人の家のにおいがした。中は薄暗かったが、その匂いを嗅いだとたん、ぼくは、何故だか急に胸がしめつけられるような物悲しさを覚え、しばらく、その入り口の前で立ちつくしていた。

 ようやくぼくは、自分の家に帰ってきたのだ。なのに、このよそよそしさはどうだ?

 中に入ってすぐには食卓用のテーブルがあり、その奥には、タンスや棚、壁にかかった鏡、それから大きなベッドが二つ見えた。その隣には、羊の毛の糸巻き機のようなものもある。ぼくはようやく立ち直って、家の中に足を踏み入れていった。部屋中をきょろきょろと、ゆっくり、噛みしめるように見て回りながら、ふと、タンスの前に歩み寄ってみた。上に写真立てが置かれており、それを手にとって見てみると、そこには、いつか家族で撮ったらしい記念写真が入っていた。
 年月のせいか、それはセピア色に変色していた。まずカウボーイ風らしき男、そして髪を長くした優しそうな女性が立っており、その前には、顔も背たけもそっくりな二人の少年が並んで、ふさふさとした毛並みの一匹の犬を抱きかかえながら笑っていた。たぶん、この双子のような少年たちが『リュカ』と『クラウス』なのだろう。これだけ似ているなら、確かに村の人々がそろってぼくのことを見間違えるのも当然だと思うほどだった。ぼくは、それを写真立てから抜き取って、さらに眺めてみた。裏返してみると、そこには柔らかな文字で、
『家族で クラウスとリュカの誕生日に』
 と記されていた。
 ぼくは、その場にたたずんで、いつまでも、その文字を眺めていることしかできなかった。

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