初夏の、よく晴れた日だった。町の北にあるミソシレ墓場を抜けると、そこは見晴らしのよいゆるやかな崖になっていて、そこからは山の向こうまで広がるテリの森と、見上げれば見上げるほどその色を濃くしていく突き抜けるような青空が見渡せた。日差しがまぶしかった。優しげな風が頬をとおりすぎていくたびに、木々がざわざわとさざめいていた。暑くもなく寒くもない、ちょうどよい日和だった。
 ぼくの目の前には、ひとつの墓があった。崖のいちばん見晴らしのいい場所に立てられ、そばには今朝とりかえられたばかりの真新しい花束がそえられていた。
「今朝も、おめえさんの親父さんがお参りに来てただぁよ」
 ぼくの目線の先にあるものに気がついたのか、付き添いに来ていた墓守のニッポリートさんが、呟くようにぼくに言った。
「お父さんが?」
「あぁー。三年前のあの日から、はぁ、いつっども欠がすたことはねぇ。まめなお人だぁ。町のもんも普通は、ここにぁたまーにしか訪れねぇのに、ほんっとうに妻思いのいい人だぁ。ヒナワさんも、雲の上で喜んでるに違いねぇだよ」
 ぼくは黙り込み、それからしゃがんで、墓の表面に刻まれているその文字を眺めた。

 フリントの妻 双子のクラウスとリュカの母親 アレックの娘
 永遠に美しきヒナワ ここに眠る


「リュカぁ」ニッポリートさんがぼくに言った。「ヒナワさんが死んだばっかりのときは、おめえさんはひでぇ泣き虫で、墓の前さ来るたんびに、めそめそめそめそ泣いでだなぁ。でも今じゃ、こーんな男前んなっで、めったに泣がねえようになった。身の回りのことも、ひつじの世話も、はぁ、ぜーんぶひととおり自分で出来るようになっだ。おめさんの親父さんも言っでだぁ、あいつもずいぶん立派なったって、ここだけの話だけんどなぁ」
 ぼくは、ニッポリートさんの話に耳を傾けている。彼は続けた。
「あれから、フリントさんも変わっちまった。ドラゴ台地に行っては、おめえさんの兄弟のことを探すてる。あそこと、この墓を往復するような毎日だぁ。それだけしか、見えなくなっちまったんだ、まるで何かにとりつかれてるみでぇに。正直、ふびんでなぁ、いたたまれなくって。きっとフリントさんは、幻影さ追いかけてんだ。そうしないと安心できねんだぁ。おらも気持ちはよぉぐ分る」
「……ニッポリートさんは、」
 ぼくは口を開く。ニッポリートさんのおだやかな顔が、こっちを向く。
「クラウス、のこと、憶えてます?」
「クラウス?」彼は眉をひそめた。「なんでだ?」
「いや、どんなやつだったかなって思って」
「……そりゃ、おめえさんが一番よく分ってることでねえか」
「そうなんですけど」ぼくはいったん言葉を切る。「でも、その、周りから見て、どんな奴だったのかなって」
 ニッポリートさんは、きょとんとして、ぼくの顔を見つめた。ぼくはうつむいて、ただじっと足元の草を見つめていた。
「んだなぁ……」ニッポリートさんは、ひとつひとつ丁寧に言葉を選ぶように、話をはじめた。「おめえさんとは違って、いっつもそこかすこを走り回ってるような、やんちゃなわらすだったども、はぁ、よぉく憶えてねぇなぁ……、あぁ、だども、」
「だけども?」
「……ここだけの話だども、話だども……」と言って、ニッポリートさんは一度小さくため息をついた。「この墓ができてすぐの時だぁ。みんなで集まって、葬式さやるずっと前、朝から、クラウスがおめえさん連れてやってきたときのこと。今でもよっぐ憶えてる。おめえさんはずっと声をからして泣いてたが、クラウスのほうは、口を硬ぁく真一文字にむすんで、まるで、なにかに耐えるようにして、墓石の文字をじっとにらんでたぁ。おら、あんまりにかわいそうだと思って、それで、しばらくそっとしてやろうと、ひとりで小屋の方さ戻っていったんだ。 それで、何か食べさせてやろうと思って、地下の貯蔵庫に降りでっで、何かないか色々さがしてたんだども、ふと気づくと、後ろにいつの間にか、クラウスが立ってたんだ。おらぁびっくりして、どうしたんだと聞いたら、クラウス、
『おじさん。ぼく、どうしたら強くなれるかな……』
 って、か細い声で言ったんだぁ。まだ小っこくてめんこいわらすがだぞ。おら、どう答えたらいいから分らなくって、それで、なーにもしないでいんだよ、と、言っでやった」
「何も?」
「んだ。いっぱい食べて、いっぱい寝で、いっぱい遊んで、いっぱい笑っで、いっぱい泣いで……。そすたら、しぜーんと子供はでっかくなるって。背だって伸びるし、体も重ぉくなる。いつか親父さんを越えてすまう日だって来るって。んだども、あいつぁ首さ振って、
『でも、いつかじゃ困るんだ!』
 って。なんだか切羽詰ってる様子だった。
『あのとき、あのとき、』クラウスは声さ詰まらせてた。『……もう少し、ぼくに力があれば、お母さんを助けられたかもしれないんだ。お母さんはあの“怖いドラゴ”に殺されずにすんだかもしれないんだ。あのとき、ぼく、なにもできなかった。ただ怖くて、震えながら、見ていることしかできなかった。リュカは、お母さんがいなくなってからずっとあんな調子で、たよりにならないし、だから、ぼくが強くならなきゃ、もしお父さんがいなくなった時でも、家族を守れるように、ぼくが、ぼくが強くならなきゃ……』
 自分を責めることはねぇだよ、とおらは言ってやった。クラウスは、何か思いつめたような顔で黙ってた。んだども、ふっと、隣に積んであったカゴにどっさり入ってた、りんごの山に目をやって、そのうちひとつを手に取ると、
『これ、ひとつもらいます』
 って言って、そのまま上の階に跳ねるようにすて戻ってった。おらが見たのは、それっきりだ。町のもんもそれから見てねえと言ってた」
「……」
 ぼくは何も言わずに、まだ足下のほうを向いていた。ふと風が吹いた。やわらかな風だった。ニッポリートさんは空を見上げて、ただ呟くように、「はぁ、今日は、いーい天気だ」と言った。
 ぼくは、立ち上がった。
「すみません。ぼく、もう行きます」
「おぉ、そうか」ニッポリートさんはうなづいた。「また、来たらいいだよ」
 ぼくは彼に礼を言い、それからくるりときびすを返して、歩き出した。ニッポリートさんはまだ墓の前に残っているみたいだった。
 そして、しばらく歩いて、ミソシレ墓場まで戻ってきたところで、ふとポケットの中の携帯電話が震えた。ぼくは、後ろに彼の姿が見えなくなっているのを確認して、電話を取り出し、通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『もしもし、クラウス』男の声がした。テクノだ。『そろそろ時間だよ、戻らないと。早くしないとヨクバに見つかってしまう。ただでさえ今日は――、』
「ああ、分かってるよ。ありがとうテクノ」
『……』
 ぼくは電話を切り、それからそれを元のポケットに戻すと、歩きながら、ため息をついた。やがて前方に墓場のゲートが見えてきた。あそこを抜ければ、すぐにクロスロードの駅が見えてくるはずだった。しぜんと足の進みが遅くなった。この町から、去って行きたくなかった。

 ぼくはクラウス、ぼくは、クラウスと言うのだ。ぼくの名前、ぼくの本当の名前は。

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