そう、確かに、あの日はちょうど雨だった。ぼくはずっと自分の部屋で、コントローラを握りながらTVゲームをしていたのだ。
 ゲームのオープニング画面を、ずっと流しているのが好きだった。
 ぼくがその当時やっていたゲームは、オルゴールのような電子三和音が静かに鳴るおごそかなオープニングが印象的なRPGで、ぼくは初めてそのゲームをプレイしたときからそのメロディに心奪われ、事あるごとに電源をつけては、そのオープニングテーマをずっと聞いていたのだ。
 目が覚めて、体を起こすと、部屋の中はすっかり暗かった。誰かが掛けてくれていた毛布にくるまったまま、ぼくはカーペットの敷かれている床からのっそり起きあがった。いつのまにか、寝てしまったんだろうか。窓の外はすっかり暗くなっていて、どうやら昼ごろから遊んでいるうちに眠ってしまって、知らないうちに夜になったのかもしれない、とぼくは思った。
 部屋の電気のスイッチをつけ、それから、ひとり部屋を出る。電気のついていない廊下を経て、下への階段を降りていく。
「おかあさーん……?」
 一段一段、足下に気をつけながら、下の階に呼びかけるけれども、返事はない。ぼくは一階に降りると、リビングへ向かいながら再び、「おかあさーん……」と、呼びかけていた。
 リビングへのドアのノブに背伸びをして手をかけ、開けると、いつものように中に入っていく。しかしぼくが入ってすぐその違和感に気づいたのは、入った目線のすぐ先、長いソファのすぐ下に、何かが転がっていたからだった。
 人だ。
 誰かが身動き一つせず、そこに死んだように倒れているのだった。お母さんじゃないか、と感づいたのは、それからすぐだった。
「おかあさん……?」
 返事はなかった。
 ぼくの声に反応して起き上ろうともしない。
「おかあさん? ……おかあさん!!」
 ぼくは、目の前でなにが起こっているか、理解するのが怖ろしかった。ぼくはそこから跳ぶようにお母さんのそばに駆け寄っていき、それから、その場で体が凍りついた。
 お母さんは横向けに倒れていて、そのお腹からは包丁の柄が突き出ていた。
 ぼくはその場でくらりと倒れそうになった。
「お、おかあさぁん、おかぁさぁん……!」
 ぼくは、声を震わせながら、小さな手でお母さんの体を揺さぶった。なかなか目を覚ましてくれない。ぼくは、おかあさんが死んだらどうしよう、おかあさんが死んだら、おかあさんが死んだらいったいどうしよう……と、ずっとそれだけを頭の中で思い続けていた。
 包丁をぬかなきゃ、と思った。
 けれど、包丁の柄を握りしめて、いくら引き抜こうとしてみても、なかなかすぐには抜けず、それどころか、力いっぱい引き抜くと同時にどぷっと血だまりが流れ出てくるので、ぼくは、完全に途方にくれてしまった。自分の手は血で真っ赤に濡れており、どうしよう、どうしようどうしよう、と、その言葉だけが頭の中をぐるぐる駆け巡っていた。
 やがて、小さな呻き声とともに、お母さんが咳きこんだ。顔からはすっかり血の気が引いている。
「おかあさん!!」
 ぼくは、お母さんを深い眠りから呼び覚ますように叫んだ。
 お母さんは、しばらくして、目をあけた。まぶたを開き、静かに息をすると、まどろんだ目でぼくの姿を見、ぼくの顔を見た。そして、片手を伸ばし、その手のひらをぼくの頬にそえた。
「……」その声はすっかり幽かだった。「ジェフ……」
「おかあさぁん、おかあさぁん……」
 ぼくは、泣きそうな声を出しながら、頬にあてられた手を離すまいとそれを押さえていた。
「ジェフ……」
 お母さんは、何か、しゃべろうとしていた。
 そして、
「ごめんね……」
 と、それだけ続けた。ぼくは、口をぎゅっと結んでいた。
「……ごめんね、ジェフ、お母さんね、」
「やだ、おかあさん、どうして? 死なないで……」
「……お母さんね、もう、生きるのがつらくて……」
 ゆっくりと、今にも止まりそうなした口調で、お母さんは言う。ぼくは、お母さんが死ぬのがいやで、お母さんの言葉をさえぎろうとせず、握っていた手もずっと離さないでいた。
「でも、……お母さん、ジェフと一緒に、死のうとしたの。だけど……」
 一緒に死のうとした、という言葉に、ぼくは思わず怯える。けれど、それでもそのままでいた。
「だけど、だけど……、あなたの、あなたの寝顔見たら……どうしても、手が、出せなくって……」
 起きた時にかけてあった毛布は、お母さんが掛けてくれた物だったのだ。お母さんは、ぼくを殺そうとしたかったのだろうか、それとも、優しく守りたかったのだろうか?
「おかあさん、しなないで」
「……ごめんねジェフ、強く……」母さんの手から、少しずつ、温かさが引いていく。「強く生きて、あなたは、あなたはなにも悪くないの、ごめんね、お母さんが、お母さんが弱かったばっかりに……、ジェフ、あなたは、お母さんのようにじゃなく、強く、強く生きて……」
「おかあさん、おかあさん! 死なないで!」
「あなたは生きていていいの、ジェフ……」
 膝立ちになっていたぼくの膝に、ぬるい液体が触れた。母さんから、流れ出している血だった。ぼくは、祈った。どうか――誰か、お母さんを助けてくださいと、お母さんの命を救ってくださいと。誰に願うわけでもなく、どこかにいる何者かに向けて、祈った。


 気がつくと、また周囲の場所が変わっていた。
 さっきまでぼくは、リビングに座りこむ少年時代のぼくを見つめていたはずだったのだが、今は周りの景色は白一色の何もない世界に様変わりしていた。ともすれば近くも遠くも分からなくなってしまいそうな、真っ白な空間だった。
 そしてぼくの正面に、少し距離を置くようにして、銀髪と黒服の少年が立っていた。
 彼は、ポケットに手を突っ込んで、一人でぼくのことを憎々しそうに見下ろしていた。ぼくは立ち上がりながら、アイザックに尋ねる。
「母さんは、自殺だったのか?」
 彼は眉一つ動かさなかったが、そのかわりに何も答えなかった。
「母さんは他殺じゃなく……ましてや、6歳のぼくが母さんを殺したのでもなく、自分で自分の腹を突き刺して死んだんだ」ぼくは続けた。「母さんはあの夜、ぼくを殺して、それから自分も死のうと考えていた。父さんがいない間に心中を図るつもりだったんだ。……周到に用意された話のはずだった。けど、そのときになって思わぬ不都合が起きた。母さんは、ぼくを殺せなかった。だから母さんは、あんな所で急きょ突発的に自殺を図った。……そういうことなのか?」
「違う!」
 アイザックは、ぼくへの憎悪をむき出しにしながら言う。
「お前が殺したんだ。お前が、母さんの腹に包丁を突き刺したんだよ。……ハッ、だいいち、そんなことできるわけがない。人間というのは自分じゃ自分を殺せない。無意識のうちに自制心が働くからね。自分の腹を包丁で貫くなんて、そんな真似できっこない」
「そうでもないんだ」
 ぼくはアイザックの言葉に冷静に答える。
「その事についてはずっと考えてはいた。でも、現場を見せつけられて、なんとなく分かったような気がするんだ。……母さんはまず、ソファの上に立って、自分のお腹の位置に包丁を突き立てると、そのまま、前のめりに床に倒れたんだ。自分の力じゃ無理でも、そうやって、力ずくで自殺を図ったんだ」
「違う、違う、違う! そうじゃない! 僕が言いたいのはそういうことじゃない!」
 アイザックはぼくの言葉をさえぎるように、怒気をはらむ口ぶりで叫んだ。
「……あの時、お前は、刺さった包丁を抜こうとしたり、母さんの体を動かそうとしたりするべきじゃなかった。そんなことをしなかったら、母さんは今ごろもずっと生きていたかもしれないんだ。お前が、お前が、母さんを殺したんだよ」
「ぼくは、いや君は、あの時まだ6歳の子供だったんだぞ? まだそういうことに関する知識も、こうしたらこうなるという因果関係も、よく分かってなかった。しょうがなかったんだよ。幼い子どもの目の前で親が今にも死のうとしていたら、そういうことをしても不思議じゃない」
「いいや! お前が殺したんだ!!」アイザックは責めるような口調になっていた。「お前が、もっと正常な判断ができていれば、お前がもっと幼くなかったら、こんなことにはならなかったんだ! それに、母さんをあんな状態にまで追い込んだのも、他ならぬお前じゃないか! お前が、殺したんだよ! この人殺し! 人殺し!」
「……アイザック?」
 彼は、この事件を体験した時にぼくが生み出した、もう一人のぼくだ。
 だとしたら、彼は何のために生み出されたのか。
「君は、ぼくの罪悪感なのか?」
「……」
 彼は答えない。
「ぼくがこの出来事に遭遇したときに抱いた、母さんを救うことができなかったという無力感や、殺してしまったかもしれないという罪悪感が、君というもう一人のぼくを生み出したのか? そして、すべての負の感情を君に背負わせることで、ぼくは自分の記憶を、心の底に閉じ込めた? そういうことなのか?」
「……だったらどうする」
 アイザックは、ぼくのことを鼻であしらい、やれやれと首を振った。
「ふ、まったく……音の石なんて厄介な道具を持ち出して、こんな茶番劇を繰り広げたところで、無駄だっていうのがどうして分からないのかな? 理解に苦しむよ。こんなことしたって、ギーグを倒すための直接の道具が手に入るわけじゃないんだ。君は勝手に自分の記憶を覗きこんで、勝手に過去をあばいただけ。……たしかに音の石は、メロディを8つそろえた時に持ち主のマジカントを勝手に出現させる。でもそれ以上の効果も、それ以下の効果もない。それに、この『強制マジカント』に一旦入ったが最後、そう簡単に外には出られない。マニマニの効果なら黄金像を壊してしまえばよかったけど、音の石じゃあそうもいかないしね」
「な……」
 そう言われて、ぼくはズボンのポケットを探った。そしてはっとする。『ファイアスプリング』を訪れた時までは持っていたはずなのに、たしかに音の石は今は忽然とどこかへ消えてしまっていた。じゃあ、ぼくはもう一生ここから出られないのか? ぼくは無駄なことをしていたのだろうか?
 ……いや、落ち着いて考えろ。音の石のメロディー集めがギーグを倒す唯一の方法である以上、ぼくの記憶を探ることが、ギーグを倒す手がかりになっているということはさっき結論を出したじゃないか。これが完全に無駄なんてことはない。
 それに、『マニマニの悪魔』の場合は外に出られるのに、音の石の場合は無理、なんて普通に考えてありえるはずがないんだ。出来かたはどうあれ、モノは同じ『マジカント』なんだから。やはりなにか脱出する方法があるに違いないのだ。そしてそのヒントはきっと、ぼくが今まで歩いてきた道のりのどこかに含まれていたはずだ。なぜならこのマジカントそのものこそが、音の石の示した『ギーグを倒す方法』だから。つまりそれを見つけるほかない。
 しかし、そんなもの果たしてあっただろうか? それがぼくに分かるのか?
「……いや」
 ぼくは独り言をつぶやいた。アイザックが表情をピクリと動かす。
「なんとなく、分かる気がするよ。ギーグを倒す方法も、そしてここから脱出する方法も」
 アイザックは、その表情を変えないまま、ぼくのほうを改めて見た。
「大きく出たね」
「ハッタリじゃない。本当のことだ」
 正直にいえばハッタリだった。半分は。……だけど、ぼくがここから力ずくでも何とかしなければ、この状況を打開するチャンスはないと考えるべきだ。もう後には引けない。喋りながらでもいい、懸命に考えるんだ。
「――整理しよう。地底大陸の『しゃべる岩』は、音の石によって『自分の世界』を見ることが、すなわちギーグを倒す手段になると言っていた。……つまり、ギーグを倒す方法とは、ぼくがさっきまで見ていたこの『マジカント』の光景すべて、すなわち、この空間で今まで見ていたぼくの過去の中にそのヒントがあった。だからそう考えれば、もう答えは出ているはずなんだ」
「へぇ」アイザックは無感情に相槌を打つ。「じゃあそれは何だい? それと、ここから脱出する方法も君にはわかってるんだろうね?」
「まあ待てよ。それも、今までぼくが見てきたこと全てにヒントはあるはずなんだ」
 そう。
 今まで体験してきたたくさんの出来事が、急速にひとつに纏まってきている。そのはずなのだ。だから、今まで見てきたものに何一つ無関係なものなどなかったはずなのだ。全てのものに意味がある。全てのものに意味があるのだ。
「結論からいえば、このマジカントから脱出する方法は、すなわちギーグを倒す方法とつながっている。……というより、ギーグを倒す方法を見つけることが、同時にマジカントを脱出することにつながるんだ。つまり、元々その二つはいっしょだった。ぼくがここでギーグを倒す方法を見つければ、すなわちその瞬間、自動的にぼくは元の世界に帰れるはずなんだ」
「ハハハッ」笑うアイザック。「馬鹿げてる。そう断言できる根拠はなんなんだよ?」
「それは、今から証明する。つまり、今からぼくがここで『ギーグを倒す方法』を実際に突き止めることによって、ぼくが元の世界に戻れることを直接証明する」
 ぼくがそう断言すると、アイザックは黙った。……いや、別に今のが根拠の説明には全然なっていなかった。が、しかし逆に考えるとすれば、そこでアイザックが黙ってしまうということが、すなわちそれが幾らかは合っていたということにはならないだろうか?
 ぼくは話を続ける。
「そして、問題の『ギーグを倒す方法』だけど、これを考えるにはまず、そもそもギーグとは何者か、ギーグの正体とは何か、ということから考える必要がある」
「ずいぶん哲学的だね」
「いや、ただ文字通りの意味だよ。……これも結論から言うけど、ギーグの正体を知ることが、すなわちギーグを倒す方法なんだ」
 アイザックは、ふうん、とも、へえ、とも言わない。
「ぼくらが旅をしてきた中で、いくら突き止めようとしても、ギーグの正体はまったくもって不明のままだった。というより、突き止めようにもそれを知っている人間が誰もいなかったし、ギーグの手下たちも口を割らずに死んでいったからだ。でも、……いや、だからこそ、ギーグの正体をつかむことが、ギーグを倒すための大きなアドバンテージになることは間違いない。そして、それこそがギーグを倒すための鍵、ギーグを倒す方法だったんだ」
「……なるほど?」アイザックの声に表情はなかった。「じゃあ、そのギーグの正体とはなにか?」
ギーグとは、ぼくだ。そしてぼくが生きているこの世界は、ぼくが心の中に作り出したゆがんだ夢の世界だったんだ」

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