カーテンの閉まった窓の外では激しい雨が降り続けていた。時刻は夜なのか、部屋の中は明かりがついておらず真っ暗だ。ぼくは、その場で周囲を見回す。部屋には、小さなベッドに、本棚と勉強机、それから部屋の隅にこじんまりとしたブラウン管のテレビが、砂嵐を鳴らしていて、そこにファミコンがつながっている。ゲーム機の近くには赤いパッケージの、ゲームソフトの外箱も転がっていた。
 赤い? 赤いパッケージってなんだ?
 いや、そんなことはどうでもいい。それよりも、ここは間違いなく、かつてぼくが暮らしていた家のぼくの部屋だということだ。以前ここにはムーンサイドに迷い込んだときにも訪れたが、まさにあの時とほぼ同じシチュエーションだ。なぜ、いつの間にぼくはこんな所に? ……待て、待て待て、落ち着くんだ。まずは冷静になれ。ぼくはプーの言葉を必死に思い出す。冷静になって、考えろ。自分を信じるんだ。ぼくにならきっとできる。
 テレビの砂嵐が窓の外の雨音と混じる。それは部屋の静寂のすき間を縫うように、ぼくの心をひんやりとさせていく。
 ぼくはさっきまで最後の『自分の場所』ファイアスプリングで、8つ目のメロディーを集めていたはずだ。しかし、ぼくが音の石を掲げた瞬間、石は予想外の暴走を始めて、気がつくとぼくはこんな場所にいたのだ。……とするなら、これが音の石の効果だったのだろうか? それとも、ネスではなくぼくが石にメロディを記録しようとしてしまったから、思わぬ誤作動を起こしてしまったとか? ……いや、しかし、グミ族の地下集落にいた最後の『しゃべる岩』によれば、他でもないぼく自身がカギであると言っていたし、もしその言葉を信じるとするなら、ぼくがこんな場所に辿りついてしまったのも『音の石』なせる業だと考えるほうが妥当だ。まぁ、ただその説も、あの『しゃべる岩』の語ったことがもし本当だったら、と仮定した上での話だけど……。そんなこと急に言われたからといって、そうやすやすと信じられるはずはない。やつこそゲップーやマニマニの悪魔と同じく、ギーグから使わされた悪の手先だという可能性は?
 ……いや、待て待て。そんな風に疑い始めたらキリがない。大体、ギーグというやつの正体も、力の規模もいまだに判明していないというのに、なんでもひとまずギーグのせいにしてしまうというのはいくらなんでも不毛すぎるのだ。
 今回は、あの『しゃべる岩』の予言がすべて本当だと仮定して話を進めるべきだ。そうだ、そういえば彼は、すべてのメロディをそろえれば、『自分の世界』が見えてくる、と確か言っていたはずだ。ということは、やっぱり音の石の持っていた力は、『マニマニの悪魔』とほぼ同等のもので、従ってここは音の石の見せているぼくの『マジカント』なのだ。
 では翻って、この力がどうやってギーグに対抗するための手段になるって言うんだ? こんな幻影を見せられて、ぼくは一体どうすればいい?
 ぼくは足元をにらんでいた顔を上げて、正面を見据えた。目線の先にある部屋のドアは、わずかに開いていて、かすかな音を立てながら揺れていた。すき間から見える外のようすは、暗闇だ。
 ぼくはどうすればいい?
 ここから脱出すべきだろうか? ……しかし、あの扉の向こうは、果たして、どこにつながっているのだろうか? この前みたいに、部屋から一歩外に出た瞬間に病院に瞬間移動する、なんてことにならなければいいのだが。ぼくはおそるおそるといった足並みで、ドアまで近づいていくと、ドアノブに手をのばした。そして、音のしないように、静かに扉を引く。
 部屋の外には、廊下が続いていた。ムーンサイドの時とは違う。このカーペットの敷かれた廊下にかすかに見覚えがあるような気がするのは、やはり間違いなく、ここがぼくの昔住んでいた家だからだ。この廊下の先は一方が別の部屋へつながり、もう一方は、1階へ降りる階段が続いているはずだった。
 そして不意に、階下から、誰かの声がした。
 ぼくはびくりとする。それから息を殺して聞き耳を立てるが、そのときには、もう声はしなくなっていた。かすかでやや聞き取れなかったが、どうやら子供の声だった気がする。おかあさん、と、母親を呼ぶ声だった。
 外では雨の音がする。
 そうだ。
 ぼくは、ふと思い当たる。あれは、ぼくの声だ。ぼくが幼い頃、母さんを呼んだときの声なのだ。そして思い出す。ぼくはこれを、たぶん昔に体験したことがある。
 デジャヴというやつだ。唐突に感じる既視感。
 昔おこった出来事を、今、ぼくは追体験しているのだ。『マジカント』は人の心の中を再現するばかりか、人の記憶さえも再現し、追体験させることができるのだろうか。
 ということは、この世界は、ぼくの記憶の中の世界なのか?
 ここは、ぼくの昔の記憶の世界――それも、ぼくが未だに思い出せないでいる失われた記憶の再現世界なんじゃないか? あの時、ぼくが母さんを刺したとき――そのときの記憶を、未だにぼくははっきりと思い出せずにいる。そしてそれが、今またここに再現されようとしているのだ。
 もしかしてこの先に進めば、ぼくは、『あの時本当はなにが起こったのか』、知ることができるのではないか?


 それにしても、ぼくにこんな光景を追体験させて、それがギーグと対抗するのに対して何の役に立つと言うんだろう。
 『しゃべる岩』は、ぼくこそがカギだ、と言っていた。なら、この記憶を解き明かすことが、ギーグの息の根を止めることに繋がるということなのだろか?
 ギーグを倒す方法と、ぼくの過去には、何か関係がある?
 そういうことなのだろうか?
 つまり、ぼくの過去を解き明かすことは、すなわちギーグを倒すことに繋がるということなのだろうか?
 理解はできるが、納得はできない。
 しかし、今まで体験してきたたくさんの出来事が、急速にひとつに纏まってきたような感じがする。だとしたら、とぼくは考える。だとしたらぼくがこれからすべきことは、この未知のダンジョンから一刻もはやく脱出することなんかじゃない。ぼくは、あの7年前のあの日、ぼくと母さんの身にいったいなにが起こったのか、それを探り出すべきなのだ。
 今ここから逃げてしまえば、きっとこの事件を思い出すチャンスはもう二度と来ない。
 ぼくは、明かりのない真っ暗な廊下へ一歩足を踏み出して、手すりから、吹き抜けになっている1階の廊下を覗きこんだ。そう、ぼくは数年前のあの時、母さんから食事をろくに与えられていなくて、目を覚ますとベッドから抜け出して、目をこすりながら、1階のリビングまで降りていったのだ。
 偶然、近くにあった電気のスイッチを見つけたので、点けてみたが、明かりは復活しない。ぼくの心の世界だから、できることにも限界があるのかもしれない。仕方なくぼくは廊下を引き返して、今度は1階へ下りる階段を選ぶ。こわごわ階段を下っていくと、足を踏み込むたびにぎしっ、ぎしっ、と、音を立てて段がきしんだ。この暗い階段の先に何があるのだろう。
 1階の廊下へ下りてくる。
 廊下は一方は玄関へと続き、もう一方はリビングへと繋がっているはずだった。
 リビング。
 ぼくは、止めていた息をそのままごくりと飲み込むと、深呼吸する。この先に、おそらく事件の現場が広がっている。母さんが死んだ場所だ。母さんが、血まみれになって倒れていた場所。……やっぱり、母さんは、ぼくの手によって殺されたのだろうか。今際の際に母さんがぼくに伝えようとしていたことの意味は何だったんだろう? 真実を知るのが怖い。
 でも、きっとこれは知らなければならない。
 ぼくはリビングの扉に向かうと、そのドアノブへ手を伸ばす。カギなんてかかっていない。ぼくはもう一度深呼吸し、それから、そっと扉を開けた。扉は、音もなく開いた。


 リビングはまた暗い部屋だった。正面の窓には雨が打ちつけ、そのすぐ下にあるソファとカーペットに、外からのぼんやりとした光が写り込んで、つたう水滴の軌跡を描いている。
 そして、その床に座りこんでいる誰かがいた。
 幼い子供が、横になった女性のそばに、寄りそうように座っている。時折しゃくり上げるように、体を震わせていた。
 ぼくはそちらへ一歩一歩、近づいていく。少年の背中はまだ小さく、頼りなさげだ。まるで何かにおびえるように、小さく縮こまっている。そして、その足下には黒っぽい液体が、ぬらぬらと光を反射させて溜まりを作っていた。ぼくが、その子供の真後ろに立つと、彼は振り返った。
 それは間違いなく、幼い頃のぼくだった。
 まだ眼鏡もかけていない、背も小さいころのぼく。
 そして、その目には、さんざん泣きはらした跡があった。

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