ぼくの手に、ぬるりと、生温かい液体が絡みついた。
 ぼくが握りしめていたのは、母さんの腹から突き出ていたナイフの柄だった。母さんは、ソファのそばに倒れていて、カーペットには血の染みがじわじわと広がっていった。
『何をぼんやりしているんだい?』
 隣で声がした。振りむくと、隣には、ぼくと同じ顔を持つ銀髪の少年が座っていた。彼の手は、ナイフを持つぼくの手と一緒に重ねられている。ぼくは、歯をがちがちと鳴らしながら震えていた。
『さ、早く』
 彼は言った。
 ぼくは力をふりしぼり、母さんの体からナイフをゆっくりとぬきとった。どぷっ、と血が溢れた。


「ジェフ、聞いてるか?」
 声をかけられて初めて気が付いた。ぼくは、真っ暗なルミネホールの真ん中にいつの間にか立ちつくしていたのだった。目の前にはプーの顔があった。他の二人の姿は、近くには見えなかった。
「何をぼんやりしているんだ?」
「う、うわっ!」ぼくは慌てる。「ごめん、何?」
「ネスが、新しい道を見つけたんだ」
 プーはそう言って、手に持っていたこぶし大の石をぼくに手渡した。受け取って見ると、それは音の石だった。おぼろげな光が表面に七つ灯っている。緑、黄、白、青、橙、桃――そして、新しい紫色の光。
「向こうの奥に穴があったんだ」プーが指をさす。「きっと例の“地底大陸”へ続いている穴だろう」
「あぁ、そ、そっか」ぼくは、手渡された音の石に目をやりながら言った。「じゃ、行こうよ」
「……」
 プーはなぜか、ぼくの顔を覗き込むようにして見つめていた。思わず戸惑って、
「ど、どうしたんだよ。なんかぼくの顔についてる?」
「ジェフ」プーは神妙な顔つきでぼくに話しかける。「さっきここで確か、子どもの姿を見たと言ってたな」
「えっ? ……いや、言ったけど、どうかしたの」
 それを聞くと、プーはしばらく黙り込んだ。またしてもぼくは戸惑ってしまう。しばらくすると、プーは左右にかぶりを振り、こっちだ、と言って身をひるがえして、ぼくをルミネホールの奥へと案内していった。
「――ジェフ」
 歩いている途中で、プーが顔の向きを変えないままつぶやいた。
「俺が今までお前に言ってきたこと、覚えてるか」
「え?」
「冷静になれ、考え続けろ。影を恐れるな。……自分の力を信頼しろ」
「……」
「確かに、その言葉だけを暗唱してるのでは意味がないだろう。でも、今のお前なら、その本当の意味も理解することができるはずだ」プーは言う。彼が今どんな顔をしているのかまでは見えない。彼は一体どこを見つめているのだろう?「初めから、いきなりそうするというのも難しいのかもしれない。だからそういう時は、自分より少しだけ前を見ることだ。――ジェフ、憧れる人間はいるか?」
 そりゃあ、いる。それはプーであったり、ネスだったり、ポーラだったりする時もある。みんなの輝くような、色々な面を見て、それを自分を比べてしまう。
「そうしたものに憧れ、そこに向かってつねに志向し、試行錯誤するなら……それだけで人というのは自然と強くなっていくものらしい。かつて俺の師から教わった言葉だ。……まぁ、前しか見ないというのも考えものだがな。一つの方法でうまくいかなくなったなら、また別の方法を探すべきだろうし」
「プー、どうしたんだよ、いきなり改まって」
「いや」
 プーは言葉を濁す。
「その姿を見たということは――」プーはこちらを見ずに続けた。「終わりが近づいている気がしてな」
 そう言ったきり、プーはすっかり黙り込んでしまう。ぼくらは歩き続けた。
 ネスとポーラはルミネホールの端っこに二人で座り込んで、何かを覗き込んでいるようだった。ぼくらが声をかけると、二人も顔をあげてこちらを振り返った。
「穴だよ、ジェフ」と、声を張り上げてネスが言った。
 ふたりが間を開けてくれたので、ぼくはその場に座り込んで、目の前にぽっかりと空いている大きな穴を覗き込むことができた。底がまったく見えない穴だ。暗すぎて、何も見えなかった。一度吸い込まれたらどこまでも落ちていきそうなくらいだ。風が、通っていた。その鳴るような音が、いっそうぼくの背筋を寒くさせた。
 とりあえず、ぼくはリュックを降ろすと、中から懐中電灯を取り出して、穴の中を照らしてみた。中は自然の洞窟がまるでウォータースライダーのように斜面をもって奥まで続いていて、すべって中に入っていけそうだった。
 ぼくらは覚悟を決め、その穴の中へ滑り込むことにした。もはやこの先にしか道はない。初めにネスが滑り出し、それから少し怖がりながらポーラが、そしてぼく、最後にプーと続いた。


 そして事件は起きた。
 普通のものよりもはるかに急な、その先の見えないジェットコースターのようなすべり台を、ぼくは猛スピードで滑り降りていた。地面は想像していたものよりもかなりなめらかで、スピードが収まる気配がない。前を見ようにも真っ暗すぎて、もはや何もすることができない。……と、そのとき、空気が変わった。風の流れる音が変わったというのか、すぐ先に何かあるような気配がする。
 前方から誰かの声がした。
「気をつけて! 左よ!」
 えっ? とぼくは一瞬、何を言われたのか判別が利かなかった。が、次の瞬間、ぼくは言われた意味にはっと気がついた。通路が二手に分かれていたのだ。ぼくは反射的に左を向こうとして、そして身体がぐるんと回転した。驚いたのもつかの間、ぼくは右へ続くトンネルの中にまっさかさまに転げ落ちていった。
「ジェフ、だめだ!」
 その声にぼくは振り向いた。プーが、ギリギリのところまで手を伸ばしていたのが見えた。が、ぼくが伸ばす前に、彼の姿はもう一方の路線の方へ、あっという間に流れて、すぐ見えなくなってしまった。
「プー!!」ぼくは思わず叫んだ。「みんなぁー!!!」
 今起こったことが信じられなかった。滑り台はどんどん急になって、今や、ほとんど垂直になろうとしている。その坂を滑り落ちながら、ぼくははるか上方に向かって、未だに信じながら手を伸ばして、喉を枯らしながら絶叫した。どういうことだ、これは一体どういうことだ。こんなことはありえない、こんなことはまるで予期していない。ぼくが思う限りで、こんな事はなかった。……こんな事? なかった? ぼくは何を言っているんだ?
 ぼくの頭の中が、気持ち悪いくらいに暗くなり、冷え切っていく。絶望だ。
 ふわっと、今まで必死でしがみついていたものから、突然体が離れた。一瞬だけ無重力状態になり、それからは自然の法則にしたがって、一気にワッと落ちていく。
「うわあああぁぁぁぁー!!!」
 今自分のまわりや足の下に広がっているのは、どこにも掴まりようも、触れようもない、何もない暗闇だった。それが無限に広がっているだけだ。
 あぁ、これはもしかして、ぼくはこうやって、理不尽に突然死んでしまうんだな、とぼくは恐怖でいっぱいの心の片隅でふと思った。以前にもそう考えた気がする。あの時はプーが助けに来てくれたが、今回ばかりは、手を差し伸べてくれる仲間すら周りにいないのだ。そしてその瞬間、ふっと眠りが訪れ、ぼくの意識は途絶えた。実に安らかな眠りだった。

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