「ジェフ、本当なの? また行っちゃうって、本当にどうにもならないの?」
 トニーが、か細い声でぼくにそう言った。
「……うん」
「ジェフ、言ったじゃないか。もうどこにも行かないって。それを信じてたんだ」トニーは、声を沈ませていった。「なのに……。僕、裏切られてばっかりだ。それとも、僕がいけなかったのかな。勝手に勘違いして、勝手に期待しちゃってただけなのかな……」
 ぼくは何も言えない。
 トニーは、全く悪くないのだ。しかしまさかこんな事態になるとは、誰だって予想なんてできるわけがない。一体どうすれば良かったんだろうか。今となってはもうよく分からない。
「トニー、あのさ」
「ぼくもういやだ」トニーがさえぎるように言う。「もう約束を破られるのはいやなんだ。わがままでもいい。ジェフ、どこにも行かないで。もう、離ればなれになるのはいやだ」
 そう言ってトニーは、かじかんで赤くなった、冷たいぼくの手を取る。ぼくは言う。
「トニー。いつかまたさ、必ず帰ってくるよ。そしたら、」
「嘘つき! なんの保証もないくせに……」
 ふたたび言葉に詰まる。
 トニーも黙りこんでしまい、その場に、嫌な沈黙が流れた。ポーチに吹きすさんでくる冷たい風が、コートを着ている体を縮めて震わせていても、なお肌寒かった。早いところどこかの建物の中に避難したいものではあったのだが、少なくともそんなことが言える雰囲気では全くなかった。
「……トニー、ぼくさ」
 やがて、ぼくは、おずおずと口を開いた。
「ぼくもさ、本当はぼくも、ここから喜んで離れて行きたいなんて思ってる訳じゃないんだ。ぼくが、この寄宿舎に帰ってきたとき、笑顔で歓迎してくれたみんなの顔がさ、まだ、目の裏に焼き付いて離れないんだよ。とても嬉しかったんだ。……こんな、どうしようもないぼくの事を、気に留めてくれる友人なんて、そうそういるもんじゃないんだ。あんなに楽しくて弾けた思いをしたのは、本当に、本当に久しぶりだったし、進んで失いたくなんて決してないんだよ。……ここは、ぼくの家だ。ぼくは、ここから離れていきたくない。でも、でもさ、トニー。この旅には、何かぼくにとって特別な意味が含まれているような気がするんだ。ぼく自身の、失われた記憶にも少なからず関係している何かが。もう少しで、それが見えてきそうなんだよ。本当にもう少しで見えてきそうなんだ」
「嫌だ!」
 トニーがぼくの手を両手でぎゅっと握る。温かかくて痛い。
「僕、いやなんだ……。ずっと、ずっと言いたかった」トニーが言う。声が震えている。「僕、ずっとジェフに傍にいてほしいんだ。ずっと、ジェフの近くにいたい。ずっと、ずっと、初めてジェフと出会った時から、ジェフのこと好きだった。僕、ずっとジェフのことが好きだったんだ」


 トニーの目から、ぽろぽろと、涙がこぼれていた。
「……ずっと言えなかったんだ。ずっと、前から気付いてて、それでも、どうしても、面と向かって言えなかったんだ。電話越しでも、どんなチャンスが来ても、ずっと嘘をついてたんだ……」
 トニーは、泣いていた。ぼくはトニーの言葉に、静かに耳を傾けていた。
「こんな時にしか、こんな時でしか言えないなんて……、こんな、捨て台詞みたいなタイミングにしか言えないなんて、絶対に、いやだったんだ。だけど、だけど、ジェフが、離れていくなんて、もういやだ、もういやなんだ」
「……」
「本当は、もっとちゃんとした形で、ちゃんとした所で、言いたかったのに……、でも、もし言ったら、言ったら、関係が壊れちゃうんじゃないかって、もう、きちんと顔も見れなくなって、向こうから失望されちゃうんじゃないかって、まわりにも、迷惑かけちゃうんじゃないかって、ずっと、そればっかり考えてて……。言えなかったんだ。本当に、本当に辛くて、苦しかったんだ……、でも、好きだ、好きだ、好きなんだよ……」
 トニーは、喉からの嗚咽を必死に殺しながら、泣いていた。
 ぼくはポケットからティッシュを取り出して、トニーに差し出した。トニーは寒いなか、それで鼻をかみ、涙をぬぐった。
「トニー」
 ぼくは、いま自分の目の前にいる人の名前を呼ぶ。
「……。ごめん」
 そう言って、謝った。
 トニーは、顔をあげてぼくの目を見た。しかし、やがてその表情は、みるみるうちに落胆へと変わっていった。
 ぼくはともかく謝るしかなかった。
「その、なんて言ったらいいのか……。ぼくは、君のことをずっと、親友だと思ってはきたけど、その、そういった恋愛感情みたいなのは……、今まで君に抱いたことがなかったし、きっとこれからもずっとそうだと思う。だから、ぼくは君に、その、ただすまないと言うしかなくて……」
「……」
 トニーは白い息を吐く。それは霧となって立ち上りながら、すぐに消えていく。
「……僕じゃダメなのかなぁ」
 そうトニーが、震えた声で言う。
「そういうわけじゃないよ。ないけど、たぶん、ぼくはそういう性質の人間じゃないから。好きになるのはいつも女の子だったし」
「ジェフにも、好きな子とかいたの?」
「まあ、そりゃ。いたけど」
 トニーは、それを聞いて、
「そっかぁ……」
 とため息をつくように呟き、それからまた改めて、
「……そっかぁ……」
 と、しみじみと言った。
 それからはまた、ふたりとも、お互いにしばらく無言になった。昼間とはうって変わって気温がぐっと下がり、体もすっかり凍えてしまいそうだった。
「ごめんね」と、トニーが言った。
「いや、いいよ」とぼくは答える。
「あんまり驚かないんだね、ジェフ」
「そうかなあ」
 そうだよ、とトニーが、静かに呟く。自分に向かって、そう言っているようにも見えた。それを聞いて、ぼくもそっと口を開いた。
「……ぼくもさ。何となくだけど、ちょっと気付いてたんだ」
 それを聞いてトニーは目を丸くした。
「え、えぇっ?」
「ごめん」
「えぇっ、い、いつから? どうやって?」
「どうやってって言うか……」ぼくは頭の後ろをかく。「何となくだよ。いや、何年間きみと同室だったと思ってるんだ。それに周りのみんなも薄々、感づいてたみたいだしさ。半分は冗談みたいな感じだったけど」
「……」
 トニーは、すっかりぼうっとして、口を閉ざしてしまった。
「ごめんな」
 今度謝るのは、再びぼくの方だった。
「気付いてたけど、そのまま触れないようにしてたんだ。面と向かって聞くなんて出来なかったし、聞いたら聞いたで、ぼくにそんな気がないことがわかったら、君が傷つくんじゃないかって思って。……でも、今考えれば、言っても言わなくても、どちらにしろ、トニーを傷つけてたのか……」
「……」
 そして、ぼくとトニーはまたお互いに黙りこんでしまう。こういう時、ぼくは彼になんと言ってやるべきなのか、何と励ましたらいいものなのか、そういったことがさっぱり分からなかったのだ。トニーは、未だに瞳にうっすらと涙を浮かべたまま、小さく俯いているだけだった。
 ふと気になって、ちらりと、校門の方を見やった。そこでは三人の小さな影が、寒空の下でぼくのことを待っていた。しかし仕方もないので、ぼくは視線をトニーに戻す。
「本当に、行くの?」
 ぼくの様子に気づいたのか、顔をあげて、おずおずとトニーが訊く。
「ああ」
「……そう」
 トニーは事もなげにそう言った。それから、ため息をつくと、
「行ってきなよ」
 と言った。
「本当は、どうしてもここで引きとめたかったんだ」トニーは感情を表に出さずにそう言う。「……けど、ここでぼくがこれ以上何を言っても、君の気持ちは、揺るぐことはないみたいだったから。だからもう止めないことにする。最初にジェフがここを抜け出した時もそうだったよ、君ってば、いっつもそうなんだ。君に誰が何と言ったところで、どうせ君の答えは、最初から胸の中で決まってるんだ。……それに、それが本当にジェフの望んでいることなんだったら、そうするのが一番いいと思う」
 トニーは、目も合わせてくれず、沈んだ声をしていた。だが、迷っているようにも見えなかった。
「誰にも喋ったりしないよ」トニーは続け、足もとの砂利をほんの少しだけ蹴った。「ぼくの気が変わらないうちにさ、行けばいいと思う。……あーあ、でもこんなことになるんなら、あんなこと言うんじゃなかった。言うんじゃなかったよ。分かってたのにな……」
 ぼくはその、トニーの悔しがるような呟きを聞いていた。ふいに、ぼくは不安になった。ぼくは、トニーの告白を拒まざるを得なかったが、もしぼくが仮に、誰かに自分の隠れた身上を思い切って告白したとしても、その人も、ぼくと同じような都合で、ぼくの言葉を拒むいうこともありうるのだ。ぼくが口にしたのと同じ理由で。……その時、ぼくは何と言えばいいのだろう。その隔絶した溝が、果てしない深淵だということはぼく自身が十分わかっているのに。その時いったい、ぼくはどうするべきなんだろうか?
「……じゃあ、行くよ」
「うん」
 トニーは、こともなげにうなずき返すだけだった。
 ぼくは、トニーにくるりと背を向けて、みんなの方に向かって歩き出そうとした。そのとき、寸前になって急にトニーが後ろからぼくを呼びとどめた。
「ジェフ!」
 ぼくは、振り返った。「な、なに?」
「僕のこと、嫌いになった?」
 トニーは言った。不安げな表情で、ぼくの顔を見つめていた。その表情を、ついさっきどこかで見たような気がした。――そう、宵闇の中に白く浮かび上がるグランドの、その暗くて見通せない向こう側を、彼がポーチに立って見つめていた時と同じ――深い闇の中を、不安げに覗きこんでいるような顔だった。
「そんなわけないよ」
 ぼくは言った。それどころか、とぼくは思ったが、その先に、いったい何と続けたら良いのか分からなかった。まだぼくの心の中には、整理のついていない問題が山ほど残されているのだ。
「トニー、ぼくさ」
「うん」
「ぼく、君にまだ話していない、……いや、まだ誰にも、話したことのないことがあるんだ」
「……」
 トニーは呆然としてぼくのことを見ている。夜の闇を背にしたぼくの姿は、彼の目にはどう見えているのだろうか。
「もし、ぼくがまたここに戻ってきたら、それを君に言うよ」
 ぼくは言った。トニーは、頷くことも首を横に振ることもせず、ただ複雑な表情でぼくを見つめていた。

BACK MENU NEXT