目が覚めると、ぼくは自室のベッドの上に寝ころがっていた。
 部屋の中は暗く、頭全体がなんだか重い。身体を起こすと独特のだるさと吐き気があった。寝る前に何があったのか、うまく思い出せず、ぼくは手で顔の汗をぬぐいながら、暗がりの中で記憶の奥をまさぐっていた。……何か、とても大切なことを忘れているような気がする。決して忘れてはいけないようなことがあるような、そんな疑念が頭の片隅に引っ掛かっていて離れない。
 なんだろう、なんだったっけ、……いや、こういう時は冷静に、覚えていることから順に時系列を整理していけばいいのだ。確かぼくは、まず昨日もこんな感じでこのベッドの上で目覚めたような覚えがある。そう、確かその時も、その前後の記憶が曖昧だったのだ。そして、それよりも前には、彼らと……ネスや、ポーラや、プーたちと協力して、トニーや、ぼくの知り合った人々の捕まっていた敵のアジトへ、助けに……あれ?
 そうだ。
 ぼくは、ぼくは重要なことを失念していた。ぼくは、いやぼくらは、まだ旅を終えていないのだ。……このときぼくが感じたのは、つかえていたものが取れた解放感とか、安堵とかそういったものではなく、もっと驚愕とか衝撃とかそういったものに近かった。どうしてこんな重要なことが、今まで頭の中からすっぽり抜け落ちて、さっぱりと消え去っていたんだ?
 フォーサイドで判明して、未だなお全貌が見えてこないぼくの過去についてなら、まだ分かりそうなものだ。しかしある一部の、しかも、ごく最近の記憶がそこだけ狙ったように消えているというのは、果たしてありうることなのだろうか? これはもう健忘症とか、そういった類のレベルで済まされる話ではない。むしろ……。
 改ざん?
 そうだ、こんな状況だ、むしろ外部から記憶を操作されたとか、そういった説明のほうが納得がいくというものだ。しかし、誰が。ぼくの記憶をこんな風に改編したところで、いったい誰の都合がよくなるっていうんだ? ギーグだろうか。ぼくが世界を救う子供だから?……いや、それにしたってもっと他にいい方法があるだろう。じゃあもっと別の理由が? それ以前に、その何物かは、どうやってぼくの頭の中をいじくったのだろうか。一体どのタイミングで。
 分からない。すべては推測だ。けれど、確信だけは心のどこかにあった。ぼく以外の何者かが、あちらの都合のいいようにぼくの記憶を書き変えている……という言葉が頭に浮かんだ瞬間、その表現がひどくしっくりした気がしたのだ。
 とりあえず今するべきことは何だろう、とぼくは考える。まずはネスや、ポーラやプーの消息を知ることだろう。でも、どうやって? ぼくは慌てて部屋の中を見渡す。ここには電話どころか、他の人の姿すら見当たらない。……そういえば、トニーはどうしたんだろう? まあ、おそらくは下のガウス先輩の部屋あたりにいるに違いない。
 しかし、彼らは今いったい何処に居るんだろう? 電話を借りるにしても、ネスたちが今どこにいるか分からない状況で、どこに電話を掛けていいかすらわからない。例の受信電話は……まだぼくが持っているんだった。どうすればいいんだろう。
 ぼくは壁のハンガーにかかっていた、ぶ厚いダークグリーンのコートを羽織る。まずは電話で湖向こうのアンドーナッツ博士のところに連絡を取って……そうだ。博士も、トニーやらと一緒に、あの基地に捕らえられていたのだから、もしかしたらぼくの記憶の抜けている部分を埋めてくれるかもしれない。それでもダメだったら最悪、外へ出ていく必要もありそうだ。


 旅の荷物の入ったリュックサックは、あの時のまま纏められてぼくのベッドのそばに置いてあった。それを背負うとぼくは部屋を出る。廊下を小走りに過ぎて、階段を下りていくと、1階のガウス先輩の部屋の前へとやってきた。
 扉をそっと開けると、部屋の中は明かりがこうこうと点いたままだったが、ほとんどの人間は脱落して、言わば死屍累々といったところだった。ぼくが中を覗き込んだのに気が付いたのか、テレビの前で一人でさびしくゲームをしていた、太っちょのヘンリーが振り返ってぼくの方を見た。
「あ、ジェフ、おはよう。起きたの?」
「まあね」苦笑いして頷くぼく。「あのさ、ここに電話あるかな?」
「電話? えーっと、それならたしかそっちの方に……」
 ヘンリーが指さした方を軽く物色すると、いつぞやの時にガウス先輩が使っていた時代遅れの黒電話が見つかった。その電話線を、ガラクタの山を崩しながら引っ張り寄せつつ、ジコジコとダイヤルを回す。アンドーナッツ博士の研究所だ。しばらくして、不意に電話がつながった。
『――もしもし?』
 出た声は、博士ではなかった。
「あ、あの、アンドーナッツ博士の研究所ですか?」
『そうだ。が、わがはいは違う』その声の主が言う。『わがはいはネズミである。名前はまだない』
「……。あぁ! もしかして、あのアップルキッドの飼っていたネズミ?」
『その通りだ。主人のご友人』ネズミは答える。『アンドーナッツ博士なら居ないぞ。主人と一緒に、どせいさんたちの住むサターンバレーとやらに引っ越していってしまったんだ。わがはいは、あんた方がまた来ると思って留守番をしとった』
「サターンバレー? 急だな、どうしてそんな所に……」
『博士とアップルキッドが研究を進めている“スペーストンネル”の開発に、どせいさんたちの技術力がどうしても必要らしいのだ』
 スペーストンネル。……ああ、確かに、そう言われれば遥か昔にそんな単語を耳にした記憶もあった気がする。博士が周りを寄せ付けないような場所に研究所を作ったそもそものきっかけが、そのスペーストンネルとやらの研究に没頭するためだったような気がするし、ぼくが何度も使ってすっかりダメにしてしまった、あの飛行機械のスカイウォーカーも、そのスペーストンネルの前身として作られたものだったのだ。
『それで?』電話の向こうのネズミが尋ねる。『こんな夜更けに一体どうしたのだ』
「あぁ。実はその、以前うかがった時に一緒だった、ぼくの仲間のことを探しているんですけど。何か知りませんか?」
『む、残念ながら、よく分からないな』ネズミは語気を落とす。『……いや、しかしあんた方のことだ。きっとわざわざ探し求めなくとも、自然にひかれ合うように再会できるだろう。案外、もうすぐ近くに迎えに来ていたりしてな』
「え?」
 ぼくはそっと窓の外に目をやる。夜闇の中に降る雪は、いつの間にか止んでいた。
 受話器の向こうのネズミは、『ま、話は伝えたからもういいか……わがはいはマウスなりの独自の方法で、サターンバレーに行くとしよう』とだけ呟くと、ありがたいありがたい、と意味不明な挨拶と共に、勝手に電話を切ってしまった。ぼくは驚き、それから呆然と、ただ受話器を見つめるしかなかった。
「ジェフ、外に出かけるの?」
 向こうのヘンリーがぼくに呼びかけた。ぼくは電話を置いてしまうと、うーん、と考え込んだ。
「外に出かけるんなら、ぼくがガウス先輩に言っておくけど」ヘンリーは相変わらず、のほほんとした口調で言う。「そういえばトニーは? 一緒じゃないの?」
「あ、そうだ、実はぼくもトニーを探してたんだ。……けど、ここにはいないみたいだね」
「そうだね。ま、早めに帰ってきてよ」
 そう言うと、ヘンリーは再びTVゲームに集中し始める。ぼくは彼の邪魔をしないように、そっと部屋を出た。


 トニーは、外にいた。玄関のポーチに立って、冷たい風の吹きつける真っ暗な前庭を見つめていた。空には小さな月と変則的に散らばった星々が、はるかに澄んだ空気の中で浮かんでいる。トニーはこちらを振り返った。外の寒さで、頬がすっかり真っ赤に染まっていた。ぼくも、顔が寒さでちりちりと痛んだ。
「じぇ、ジェフ? どうしたの?」
 トニーが驚いた様子で言った。
「それはこっちの台詞だよ。風邪ひくぜ」
「う、うん……」と、トニーは何かに口ごもるように言葉を濁す。「なんだか不安になっちゃって」
「何が?」
「なんとなく。でも何だかザワザワして、それで、じっとしてらんなくて……」
 ぼくは、トニーがさっきまで見ていた、闇の中に浮かび上がる真っ白い前庭に目をやる。そして、目を細めていたぼくは、そこにあまりにも意外な3人の人影を見つけたのだ。トニーも今になってハッと気が付いたようだった
 ネスと、ポーラと、そしてプーだった。
 みんな厚着をし、白い息を吐いてこちらを見つめている。ネスはいつもの服の上に赤いジャンパーとスカーフを身につけていて、ポーラは、ファーのついた短めのピンクのコートを着ている。プーは以前にも着ていた、金の刺繍の付いた木綿のマント姿だ。
 ぼくは目を疑った。それから次に自分の頭を疑い、やがて今度は、その全てが確信に変わった。
「みんな!」
「よおー。ナイスタイミングだなー」
 ネスが、頭の後ろに手を組み、大きな声で言った。
 ぼくはみんなの元へ駆け寄っていこうとしたが、「ジェフ!」と隣のトニーに呼び止められた。彼は、なにか訴えかけるような視線でぼくのことを見ていた。
「あ、あの人たちって……」とトニーが言い、彼らに視線を移す。
「そうだよ。ぼくと一緒にずっと旅をしてきた人たちさ」
「それって、ジェフ、……まさか、また旅に出るってこと?」
 ぼくは口ごもった。昼間に約束したばかりだったからだ。もうどこにも行ったりしないと。まさかこんな形で裏切ることになるとは、思いもしていなかったのだ。
「まぁ、迎えに来たのは確かだけどさー」怪訝な様子で、向こうのネスが言う。「でもジェフが言ったんじゃねーか。ここにまた少し残りたいって。だからしばらくして来てみたらさ、ちょうどよくここにジェフが」
「ぼくが? ぼくがここに残りたいって、そう言ったのか?」
「そうだよ。覚えてないの?」
 全く覚えていない。
 なんて事をここで言おうものなら、どんなことになるか分かったものではなかった。
「……ジェフ、そ、それ本当? じゃあジェフは最初から、ここにずっと残る気はなかったってこと?」
「ちょ、ちょっと待ってくれトニー。まずはぼくの話を聞いてくれ!」
「ジェフ、どうしたの? まさかここの人たちに、何も話してなかったの?」
 ポーラが言う。違う、そうじゃない。どうやって説明すればいいんだ……。ぼくは躊躇する。正直に、覚えていなかったと話すか? いやそんなことを言ったら、それこそ誤解されてしまうだけだ。なら記憶が改ざんされたと言うか? しかしそれも確証がないし、そもそもどこまで信じてくれるか分かりやしない。ぼくだって半信半疑なのだ。……心の中に、これは間違いないという実感があるだけで。
「ジェフ。もしかして、また記憶が飛んでるのか」
 そこで、プーが口を挟む。助け船を出されたような気分だった。
「プー?」とポーラが訊き返す。
「ジェフは……これは誰にも話していなかったが、昔から記憶が不安定になりやすい体質らしいんだ。以前おれに話してくれたことがある。――ジェフ、すまん、口外してしまって」
「いや、いいんだ」
 ぼくは言う。むしろその発言が出てくれて助かった。プーが言ってくれたおかげで、ネスとポーラは今ひとつ腑に落ちないような顔をしながらも、頷いてくれた。
「ジェフ、記憶が、なんだって……?」
 隣のトニーが尋ねる。
「ああ。ごめん、でも、本当なんだよ。それも、ごく最近自覚できたことで、言えてなかった」
「……ううん。前にもさ、古い記憶が、思い出せないって言ってただろ。だから、その、信じるよ。ジェフの言うことなら、信じられる」
 そう口では言うトニーだったが、表情は沈んでいた。
 ぼくは、何と言葉をかけてやってよいものか測りかねた。どう慰めの言葉を言ったところで、結果は同じになってしまうような気がする。けれども、かと言って何も話し合わないわけにもいかない。
「みんな、ちょっと待っててくれないかな」ぼくは3人に言う。「二人で話がしたいんだ」
「別にいいけど」とネスが答える。
「あ、じゃあ、私たち門の前で待ってるから」とポーラが言い、両側のネスとプーを促したので、ネスは、「いいけど、寒いんだよな……」と言いながら、ポケットに手を突っ込むと、さっさと駆け出していき、ポーラもその後を追う。プーは、こちらをチラリと一瞥したが、すぐにまた二人と一緒に行ってしまった。

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