Chapter 11  たどりつく場所

 締め切られたカーテンを音を立てて開けると、窓の外には色の濃い、鮮やかな冬の青空があった。そのまま窓を外に向かって開け放ち、穏やかな風を受けながら、外のひんやりとした空気を吸った。点けっぱなしのストーブで半ば暑苦しかった部屋の中は、外からの空気できりりと冷やされていくようで、火照っていた頬がしだいに冷たくなっていくのを、ぼくは楽しんでいた。
 太陽はずっと高いところにあって、窓の下へちらりと目を落とすと、白銀のヴェールにすっかり包まれたグラウンドの上を下級生たちが幾人も走り回っているのが見えた。寒さにも負けない高い歓声が、二階にあるこのぼくの部屋にまで響いて聞こえるのだ。ぼくは、雪の反射する強い光に目を細めながら、少年たちの跳ねまわったり取っ組み合ったりする様子をぼうっと眺めていた。
 ――ぼくはどうしていたんだっけ。
 ふと、そのことを思い出した。
 今までぼくは何をしていたんだっけ。どうしてぼくは、寄宿舎の自分の部屋の窓から中庭のようすを眺めていたんだっけ?
 その時、後ろで、静かにドアの開く音がした。
「あっ、ジェフ、起きた?」
 入口から顔を覗かせたのはトニーだった。トニーは、まだパジャマ姿で窓の外を眺めているぼくを見、それからその窓が開いているのに気が付いて、
「……うわ、寒っ! ジェフ、どうして窓開けてるの? 寒くないの!?」
「え? いやぁ、」ぼくは苦笑し、それから窓の外に身を乗り出すのをやめて、窓を閉めた。「……やっぱり、暑いより、少しくらい寒いほうがいいからさ」
 ぼくは、スリッパごしにふかふかとしたブラウンの絨毯の感触を確かめながら、部屋の中をぐるりと見渡す。目に入るのは、落ち着いた濃いクリーム色の壁と、その壁に取り付けてあるガラス傘のついた電灯。窓から眩しい光が差し込んでいるので、部屋の電気は点けていなかった。天井には年代物のシーリング・ファンが、至極のんびりと回転している。
「いま起きたところ?」とトニーが訊いた。
「ああ。これから降りていこうとしてたとこだよ」
「そっか、もう昼すぎだもんね」トニーは肯く。「寝すぎだよーもう。早く下りてきてよね。談話室で待ってるから。じゃ!」
 そう言ってトニーはドアの向こうに引っ込んでしまった。それを見送ると、ぼくは自分のベッドの上にどすんと腰をおろして、それから意味もなく天井を見上げ、そこでゆったりと動いているファンを再び眺める。
 ――静かだ。
 外から聞こえてくる下級生たちの遠い声が聞こえる他は、しんと静まり返っている。床に落ちる午前の日の光が妙にあたたかかった。そうだ、ぼくは、小さな頃からいつもこうして、誰もいない休日の昼休みなんかをぼーっと過ごしていたりしていたのだ。そんなことをふと急に思い出した。どうして忘れていたんだろう。
 と、そんなことを考えていると、また急に勢いよく部屋のドアが開けられた。ぼくはびっくりして思わず起き上がった。ドアからトニーが顔を出し、
「早くしてね! ほら、またボーっとしてたでしょ!」
「わ、分かったよ。すぐ行くから。ごめん」
「ううん、いいんだけどさ。じゃね!」
 パタン!とドアが閉じられる。
 そしてまた思いだそうとする。ぼくは、さっきまで何をしようとしていたんだっけ? なにか長い夢を見ていて、それで目覚めたような気もするのだが、起きているうちに忘れてしまった。一体どんな夢を見ていたんだっけ? なにかとても大事な、そんな感じの夢だったような気がする。ぼくは一体何の夢を見ていたんだっけ?


 制服に着替えると、部屋を出る。寄宿舎のせまい廊下には誰の姿もない。きっともう、みんな学校で授業を受けている頃だろう。何の物音もせず、廊下にある窓からは、淡い冬の日光が差しこんできている。いつもとは趣の違う、寄宿舎の静けさにぼくは戸惑いながらも、何となくほんの少しだけ得した気分だった。なんだか不思議と心が落ち着いていくような気がするのだ。ぼくは部屋のドアの鍵をかけてしまうと、いくつかの扉の前を通り過ぎ、談話室へと続く階段を下りていく。
 階段の途中にある窓から、外が見えた。展望台のある裏山や、学校へと続く裏道のようすが覗ける。積もった雪は両脇にのけられ、何人もの子供たちの足跡がついていた。それも見慣れた、しかしどこかいとおしい風景だった。
 何故こんなにも、目に映る風景ひとつひとつが懐かしく感じられるのだろう。
 なにか長い夢を見ていた気がする。
 ずっと遠くの土地で、気の遠くなるような長い旅をしていたような心地が、どこかでする。でもそれがどこなのか、いったいいつの出来事なのか、思い出せないでいるのだ。本当にそんなことがあったのか疑わしいが、実際のところ自分でもまだよく分からない。
 やがて、談話室に下りていくと、ソファの方にはトニーともう一人、見知った人影が座っていた。
 ガウス先輩だ。
「おっ、ジェフおはよ」
 ガウス先輩が言う。その言葉に、ぼくも「おはようございます」と答えると、先輩は、隣のソファへ座るようぼくに勧めた。トニーも座っているそのソファに、ぼくは腰を落ちつけた。
「気分はもういいのか? ジェフ」
「はい。……なんだか、すごく長い間眠っていたみたいな気がします」
「そっか。まあ長く寝てたのは本当だけどな」
 先輩は小さく笑った。
「そういえば先輩、あの、今日って授業を……」
「ああ、いいんだいいんだ」先輩は慌てて手を振る。「お前らに関しては特例。だから今日はお休みだ。その代わり、明日からはちゃんと出て来いと言ってたぞ」
「……特例?」
 そうなのか。そうだったのか、と思う。
 それと同時に、思い出す。ぼくは長い旅をしていたのだ。やっぱりぼくは、遠くの街で見知らぬ誰かと果てしない旅に出ていて、そしてそれが全てうまく片付いたので、こっちへ戻ってきたのだ。そして同じく行方不明だったトニーも、戻ってきたのだ。
 なんだか、肩の荷が下りて、ふっと楽になったような気分だった。
「俺は一応、お前らについているように言われたんだよ。また何かあるといけないからって。授業が終わったら、他の連中も帰ってくると思うけど……」
 ソファにもたれかかって、大きく息をついたぼくは、そうですか、とだけ答えた。なんだか、この部屋の空気も穏やかに流れているような気がする。先輩は「ま、そんなとこだ」と言って立ち上がると、しばらく部屋にいるから何かあったら呼ぶように、とだけ言い残して、談話室を出ていった。
 やがてトニーが、ソファに座ったままぼくの方へすり寄った。
「ねえジェフ、これからどうする?」
「そうだな……」
 散歩したいな、とぼくは言った。


 寄宿舎の玄関から、雪に包まれた広い前庭に出た。ぼくらは雪の上に足跡を作りながら、その周辺をぶらぶらと歩くことにした。高い格子の塀のそばに立つ大きな杉の木を通り過ぎると、寄宿舎裏の森の茂みに面した小さな庭がある。赤レンガで出来た壁のそば、園芸用の花壇は、すっかり純白の幕でおおわれていて、そこから正反対にある塀の格子の間からは、雪の積もった木々の枝がいくつかひょっこりと顔を出していた。
「あ、この辺りだよ。ずっと前に、野性の子ギツネがいたの」
 ふと思いついたようにトニーが言った。ぼくは、ああ、そういえばそんなことも言ってたね、とだけ答えた。
「あれからキツネは見たのかい?」
「ううん、全然」トニーは首を振る。「やっぱりあれは、一生に一度くらいしかない幸運だったんだ。でも、いいんだ。ぼく、今はジェフが戻ってきたことのほうが、よっぽど嬉しいんだもの」
 トニーは振り向くと、ぼくのことをじっと見た。
「ねえ、ジェフ。久しぶりじゃない? こうして二人で並んで歩いて、話したりするのって」
「ああ……そうかもね」
「そうかもね、じゃないよ。そうだよ。本当にさ、久しぶりだよ。ほんとにさ」
 風はずっと高いところで、そよそよと木々のてっぺんの葉をなびかせているだけで、日差しも、いつもよりかずっとおだやかな日和だった。やがて、ぼくらはまた別の場所へ向かうために、中央棟へと続く屋根つきの屋外通路を歩いていった。日陰になっているこちらからは、まぶしい光に包まれたグラウンドの上の、はしゃぎ回っている下級生たちの元気のありあまった姿が見え、それがぼくを、まるで遠い世界の出来事をかいま見ているような気分にさせていた。
 不意に、ぼくのコートの袖が急に誰かに捕まえられた。ぼくが振り返ると、トニーがぼくよりわずかに後ろで、ぼくの袖を静かにぎゅっと掴みんでいるのだった。
「……トニー、どうしたんだよ」
「ううん」トニーは、か細い、気をつけないとすぐに聞き取れなくなりそうな声で言った。「別に、なんでもないけど。なんでもないけど……。でも、その、こうしていないと、またすぐにジェフがどこかへ離れて行ってしまうような気がして……」
 トニーは少しうつむきながら、たどたどしく言った。ぼくは、トニーを見つめたまま、何も言わなかった。
「僕、嬉しいんだ。ジェフにこうしてまた会えたことが。本当の本当に。だけど、だけど、だからこそさ、こんな幸せが、いつかまた消えてなくなっちゃうんじゃないかって、そんな風に思えてしまう時があるんだよ、だから、僕怖くてたまらないんだ。怖いんだよ、とっても」
「そんなことあるもんか。大丈夫だよ」
「うん、分かってるんだ、分かってるんだけど……」
 トニーの表情は日陰でよく見えなかった。ぼくが何も言わないでいると、トニーはそのまま、いつまでも長いことずっとそうしていた。グラウンドからの高い歓声が、遠い声になって、ぼんやりとこちらにまで聞こえてきていた。

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