どろり、としたものが足元に流れてくるのを感じて、下に目をやると、異様なショッキングピンクの液体がぼくらの周り一面をいつの間にか取り囲まんでいることに気が付いた。身動きをとろうとしたが、足がその液体でがっしりと固定されていて動けない。「なっ、なんだこれ!」とネスが叫び、隣のポーラが下手に体制を整えようとして、背中から勢いよくその液体の中に落ちた。起き上がろうとしていたが、その液体がすでにポーラの体を取り込もうとしていて、もはや太刀打ちできるすべがなくなってしまっている。ポーラはパニック状態になって思わず悲鳴を上げた。
「グゲゲゲゲゲゲ……!」
 と、どこからか、泥から沸きあがる泡の音のような笑い声がした。
「グッグッグッグッグッ……、ようやく見つけたぜ。お前ら、俺のことを憶えてるか?」
 足元の赤い水位が、ひざの上の辺りまでどんどん上昇してくる。なんとか立ち上がっているぼくとネスの間を、とつぜん赤い津波が通りすぎていき、前方のヘリコプターがその直撃を受けた。粘性のある液体に包まれ、やがてそれは大きく膨れあがると、ぼくらの前に立ちはだかった。その赤い塊に、目と口が現れて、それがニタリと笑った。
「昔、お前と戦ったことがある。お前らは忘れたかもしれないが……グゲグゲ……おれは、帰ってきたゲップーだ」
 そう言ってゲップーは、ぼくの顔に向けて生暖かいゲップを吐きかけた。ぼくの髪が風で乱れ、鼻がもげそうなほどの胃液の酸のにおいがぼくにかけられる。
「この臭いでも思いださないか? あのゲップー様が修行をつんで、もっと強くなって復活したのさ、ゲローップ!」
「ゲップー!?」ぼくは言葉を失う。「どうしてお前がここに……」
「名前もかえたんだ、帰ってきたゲップー様ってな」ゲップーが笑う。「ゲッゲッゲッ……! ザマないな、こんなに簡単に捕らえられるなんて……、所詮、このパワーアップした帰ってきたゲップー様には敵う相手ではなかったか……」
 下から飛び出してきたしぶきで、ぼくの両腕がからめとられ、ぼくは完全に身動きができなくなる。ネスがさっきのポーラと同じように体を転ばされ、液体の中に頭から突っ込んで、声もあげられないまま底なし沼のごときゲップーの中に引きずりこまれていく。向こうのポーラは、もはや腕を一本残したまま完全に飲み込まれようとしている。
 服の中に臭い、生あたたかな液体が入ってくる。くそっ、どうしてだ、どうして二人ともPSIが使えないんだ!?
「不意打ちっていうのは、一気にたたみかけるのがコツなのさ」
 そう言うゲップーのいびつな顔が、ぼくの眼前にまで近づいてくる。
「相手に、思考させる隙を与えない。おれはそうやって、かつてのスリークを占拠した、お前らに邪魔されるまではな……、そう、お前に脳髄をロケットで木っ端みじんにされるまで。憶えてるぞ、目の裏に今でも焼きついている、あの一瞬の火花――そして、あの思わず意識も吹っ飛ぶほどの痛み……、いや、事実ふっ飛んだんだよ、お前のとどめのせいで。
 そう、だからお前だけは、特別に最後までこうやってじわじわと殺してやることにしようと、ずっと決めてたんだ。お前にはあの変な超能力もないし、こうしてゆっくりといたぶることもできる……。あれは、痛かった。今までで受けた苦しみの中で一番、屈辱的な思いをした、死ぬ瞬間というのは……。だから、今からお前にも味わせてやるんだ、あの苦しみを。ゲロの中で、そう、窒息死だ。俺は執念深いんだ、服に一度染みついたら取れない、あのゲロの臭いみたいにな……!」
 ゲップーの巨大な口が開かれる。糸を引いている並んだキバの向こう、大ナメクジのような舌の横たわる口腔じゅうの一面に、気味の悪いカエルの卵のような目が何十個もぎょろぎょろと動いているのが見える。そしてそれらが、とつぜん一斉にこっちを向く。
「ゲロゲロゲロゲロゲロゲロゲロ! ゲロにまみれて死ね! 男っぽいセリフだろ!?」
 ゲップーの口が、ぼくを頭からひと飲みにする。



 暗い。何も見えない。
 人間は、死ぬときはなんてあっけないんだろうとぼくは思った。本人が思いもよらないようなときに、まるで悪いくじでも引いてしまったかのように突然に死が舞い込んでくる。母さんもこうやって、こんな気持ちで死んでいってしまったのだろうか。ぼくが包丁で一突きにしたせいで。胸から血を流して。そして死んでいった。
 ……いや、待てよ、胸? いま胸といったのか、ぼくは? 違う、ぼくが刺したのは、母さんの胸じゃなくて、母さんの喉元だったはずだ。母さんが寝ている間に、キッチンからナイフを持ち出して、ベッドで寝ている母さんの首にそのまま突き刺したんだって、アイザックがそう言っていた。そしてぼくは血まみれになって、母さんは、血で真っ赤にぬれた腕でぼくを静かに抱きしめて。そして、ぼくに向かって何か言ったのだ、何か。一体なんと言ったんだっけ……、いや、もうそんなこと、どうだってよくなってきた。喉だって胸だって、結局ぼくは母さんを刺したのだ。ぼくの大好きな母さん。ぼくの大好きだった母さん……。
 いや、違う。もし喉を刺したんだったら、「死ぬ前に何か言う」なんて、そんなことできたはずがない。そうだ、確かに母さんは「胸に包丁を突き刺されて」、そして死んだのだ。今そのことだけを急に思い出した。……ということは、どういうことだ? ぼくの記憶の中に思い違いがあったということ? つまり、あのときスリークに戻ってきたときにアイザックの言っていたことは、本当は間違っていたのか?
 そうだ、確かにぼくは、その時その現場であった、実際の記憶そのものは未だに思い出せずにいるのだ。しかし、なぜ今更になってまで、ぼくはこんな些細なことに気になって仕方がなくなっているんだ? ……いや、些細なことなんかじゃない。これは手がかりだ。これは、ぼくが大事な何かを思い出すための確かなきっかけなのだ。
 ああ、どうしてこんなときにこんな大事なことを思い出すんだ! せめて死ぬ前に、誰かに何か言っておきたかった。ネスやポーラとも中途半端な別れ方になってしまったし、それにプーとも。それから、今まで出会ってきたさまざまな人たち、ブリック・ロードさん(せっかく送り出してもらったのに何と言えばいいんだ)や、サマーズで会った船長さん(船酔いの癖は治っただろうか)、博物館の学芸員さん(彼の名前はなんと言ったっけ?)、それからフォーサイドのモノモッチ・モノトリーや、埋蔵金を発掘していたジョージさん・チュージさん、トンズラブラザーズ、アップルキッド、トンチキさん、……それから、トニー。そうだ、トニー、結局電話に出てやれなかった。まったく、最後の最後までぼくは、こんなにもくだらなくてどうしようもない奴だった。こんなぼくを笑ってくれ、トニー。最後に何か一言、君にお別れを言いたかった。


『――ねえジェフ、フレミングの法則って何?』


 一瞬だけ、あの懐かしい声が、まるで閃光のようにぼくの頭の片隅をよぎった気がした。
 馬鹿だな。今さら後悔したってもう遅いのに。
『あぁっ、待ってってば待ってってば! ねぇどうして? ジェフ!』
『気にするさ! 僕には、なんでもなくないことだけは分かる』
 ……トニー。
『君がどこへ行くのか、何をしに行くのかしらないけど、ぼくら、ずっと親友だぜ』
『そういう問題じゃないだろっ! そんなこと言ったら、いっつも起こしてる僕は何なんだよ!』
『そんなの決まってるじゃないか。心配してたんだよ、ジェフのこと……』
『あっ。また降ってきた!』
 ……。
『ジェフ! 今日のクリスマス会、絶対楽しくしよう!』
 思い出す。昔の事を。
 赤い帽子の少年や金髪の少女に出会う、もっともっと昔の話。
『お菓子食べて、いっぱい騒いで、たくさん遊んで、朝まで夜更かししよっ、ね! 僕たちが寄宿舎で一緒の部屋になって、初めてのクリスマス会なんだから! ほら!』
 トニーが笑っている。買い物帰りのビニール袋を両手に下げて、分厚いダッフルコートを着、ほほを真っ赤に染めながら。そして、トニーはぼくの隣から急に駆け出すと、そのまま二、三歩前へ出て、その場で両手を広げながら、踊るように一回転する。空から降ってくる雪が、まるで綿毛のようにふわりと揺れる。流れている時間が、ぼくとトニーの周りだけ止まっているように見える。
『――僕が、代わりにジェフの思い出、作ってあげるんだから!』


 トニー。
 ぼくは、謝らなきゃいけない。ぼくは、怖かったんだ、何かを失うのが。ぼくはもしかしたら君の友情すら失ってしまうんじゃないか、そう思ったから、だから、ぼくは何もすることができなかった。そうだ、ぼくは、ぼくはこんな所で死んじゃいけない。ぼくはこんな所で倒れるわけにはいかない。


『――強く、強く生きるのよ、ジェフ』


 母さんの声がする。
 そうだ! ぼくは強く生きていかなくてはいけない。たった今も、そしてこれからも! ぼくにはまだやり残したことが沢山あるのだ。やらなければならないこと、やりたいことが沢山あるのだ。それを今までぼくは忘れていた。今ぼくはそのことを思い出したのだ!
PK・スターストーム!
 誰かの声がした。ふと闇の中に光が差す。そしてぼくの頭上から、きらめく星が降りそそいできた。

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