ぼくは、暗闇の中で目を覚ましている。さっきからずっと眠れずに、同じようなことばかり考えている。あれからどれくらい経ったのか分からない。ぼくはやがて決心し、病院のベッドから起き上がる。隣のベッドのポーラが「どうしたの?」とぼくに尋ねるが、ぼくは、電話をかけてくる、とだけ言い、ベッドから抜け出して、部屋を出る。誰に、というポーラの問いには答えない。こんなことはもう何度目だろうかと考える。一人のほうが気楽だと思うくせに、むやみに寂しがるのだ。
 待合室を横切り、ドアから病院の外に出ると、すぐそばにベンチと、観葉植物と、公衆電話がある。ぼくはその中から電話のそばに歩み寄り、前に立つと、その緑色の筐体に触れる。それから、ズボンのポケットの中をまさぐって、自分の肌ですっかり暖かくなった銅の硬貨を取り出す。2枚だ。1枚を公衆電話の中にいれ、受話器をとり、ボタンを押そうとしたところで、手が止まる。
 指が、震えている。
 ぼくはしばらく硬直し、やがてゆっくり受話器を戻す。チャリン、と硬貨の落ちる音がする。ぼくは出てきたコインを引ったくって、そのまま病院の中へ帰ってくると、部屋へと戻り、毛布をかぶって、寝た。
 次だ。次に電話が来たとき、もう一度話そう。


『話せるのか?』
 アイザックが笑う。
 話すさ。話さなきゃいけないんだ。そうしなければ、ぼくは一生この先に進めない。
『じゃあ、どうして自分から近づいていかないんだよ』
 それは。
『結局、君はまだ怖いままなんじゃないか。わざわざ歩み寄ってみたところで、いい事なんて何もなかったのは今までで十分身に染みて分かってるだろう。あんなたわごとに耳を貸すんなんて――』
 トニーを侮辱するな。
『なんだい、その言い方は』
 ……。
『だから何が言いたいんだ。この前からずっと』
 ぼくは、ぼくはただ。……ただ、ぼくは、今までなんだかとてもちっぽけなものにしがみ付いて来ていたんじゃないかって、そう、そう思っただけだよ。
『これまでの自分を無視するのかい? そんな一言で今までの事を全部なかったことにするつもり?』
 そうじゃない。そんな風にして今まで来たからこそ、これからは1から、一歩ずつ頑張っていけそうな気がするんだ。
『そんなに甘くないってことは、君自身が一番よく分かってることだろ』
 ……わかってるさ。

 その夜のトニーからの電話は、結局来ないままだった。




 約70パーセントの人間が選ぶというそのT字路を右に曲がり、しばらく道なりに進むと、今度は道が三手に分かれる。まず一番右の通路を選ぶと、その突き当たりには、プレゼントを入れた箱のようなものが置いてある。そばにある看板には、次のように記されている。

『行き止まりにはアイテムを置く。自由勝手に持ち去るべし。 ――ブリック・ロード』

 中には、モロヘイヤスープが入っている。
 迷路のようなフロアの道を彷徨いつつ、道のど真ん中に『まず最初に目指すは4本のロープなり。 ――ブリック・ロード』という看板を見つける。見ると、向こうの道の先には扉がひとつ見える。ドアに歩み寄って、ふと横にちらりと目を向けると、看板が立っている。『ダンジョンにトライする時は、身も心も清らかにすべし。 ――ブリック・ロード』。ノブを回そうとしたのだが、鍵が掛かっているようで、ガチャガチャ鳴らしても回らない。てきとうにノックしてみると、
「入ってまーす」
 声が帰ってくる。
「俺、なんでこんなところでトイレに入ってるんだろうなぁ。俺って誰なんだろ。……あっ、気になっちゃったらごめんね。ほんとになんでもない男なんだ」
 道を引き返す。
 ときどき、ローラーを転がしてやってくるデカいコーヒーカップのお化けみたいなロボット(熱湯にちかいコーヒー色の液体をぶっかけてくる)や、やたらと体当たりしてくるあやかしのレコードなど、よく分からないオブジェとしか思えない物体たちが現れることがある。大抵はネスやポーラのPSIで粉々にされてしまうのだが、誰がこんな罠を仕掛けるんだ、一人しかいないけど、と思っているときに、ふと道の脇に看板が立っているのを見つける。

『ダンジョンを作ると、やがてはモンスターが住みつくものだ。 ――ブリック・ロード』

 そんな紆余曲折を経て、行き止まりにたどり着く。たどり着いた先にはまたひとつプレゼントボックスが置いてある。中にはかなり大きなクマのぬいぐるみが入っている。傍にはまたもや看板が、2つ、掲げられている。

『労力を惜しむなかれ。されば良きアイテムが得られよう。 ――ブリック・ロード』
『左のカンバンの意見にはまったく同感である。 ――ブリック・ロード』

 
 道を間違えたようだった。

 4本のロープは、ようやくたどり着いた幾つ目かの行き止まりで発見した。ロープは4本とも天井の穴へ続いており、どうやら1本が上の階へ続いているようだ。ロープ1本1本の横にはそれぞれひとつずつ、合計4枚の立て札が立てられている。

『となりのロープの方がなぜか怪しく見えるものである。 ――ブリック・ロード』
『となりのロープの方がなぜか怪しく見えるものである。 ――ブリック・ロード』
『となりのロープの方がなぜか怪しく見えるものである。 ――ブリック・ロード』
『となりのロープの方がなぜか怪しく見えるものである。 ――ブリック・ロード』


 3回失敗し、4本目のロープで2階にたどり着く。なぜ2階なのかと分かったかといえば、それは『ここは私の体の2階である。――ブリック・ロード』と書かれた看板が立てられていたからだ。そこから先もまだ何十枚というカンバンの誘惑が続くのだが、そろそろ太字の表示も目障りになってきたところで、『「良くぞここまでたどり着いた。」というカンバンが上の階にあるであろう。 ――ブリック・ロード』という看板を見つける。通路の向こうには行き止まりの壁にハシゴが掛かり、それに足をかけて上っていって、穴から顔を出すと、ふと、風を感じた。


『良くぞここまでたどり着いた。――ブリック・ロード』


 風が通っていた。まわりを見渡してみると、正面の壁に、3つの巨大な縦長楕円形の穴があいていた。そこからまっさらな青空とまぶしい黄土色の砂漠が見わたせた。どうやら本当に窓になっていたらしかった。
 そこから視線を反対の壁へ持っていくと、そこになぜか、人の顔がくっついていた。50代過ぎくらいの、頭のはげたひょうきんな顔の男で、にこにことしながら目をつぶって、何かを待っているようなしぐさをしていた。すぐそばの看板には、『そこの顔は私のである。(気軽に話し掛けてみよう) ――ブリック・ロード』とあった。ぼくらはその階に上がりこんでは見たものの、その顔だけの男を見て、どうしたらいいのか躊躇していた。仕方なく、ネスが、
「すいません」
ウーェルカム!
 これを待っていたのだ、とでも言うように、その男は細い目を開けて満面の笑みを浮かべた。
「いやぁ久しぶりでやんす。ジェフさん」と言って男はぼくのほうに向き直り、「ずっと前にウィンターズで会いやした、ブリック・ロードでござんす。アンドーナッツ博士のおかげで、ついにダンジョン男になれたんでやす」
 ぼくはただ、苦笑まじりの乾いた声をあげることしかできなかった。
「……いやぁ、よ、良かったですね……」
「いやいや、まったく!」ブリック・ロードは大きな声でうなづいた。「それにしてもまた会えて光栄でやす。まぁなにもありやせんが、どうかゆっくりしていっておくんなせ」
「でも、そういうわけにもいかなくて……。ぼくら、砂漠を越えて魔境に向かわなければいけないんです」
「魔境!?」
 ブリック・ロードは目を見開く。
「だっ、だめでやすジェフさん、それはいくらなんでも無理でやすよ。……い、いや。まぁ、まずは落ち着きやしょう。せっかくの、感動の再会なんでやすからね。ともかく立ち話も何ですから、こちらに来てとりあえずお茶でも……」


 ブリックロードの顔の前までやってきたぼくらの前で、彼は語りはじめる。
「……たしかに、この砂漠を越えたところには、大きな大きな川があって、その向こうは『魔境』と呼ばれる、深い密林地帯が広がっていやす。でも怪物は強いし、毒の沼は歩くだけで体力がへる。おまけに奥に行くにしたがって薄暗くなって、同じような分かれ道ばかりが現れ、しろうとが行けば迷うのは確実でやす」
「大丈夫です、ブリック・ロードさん。ぼくらには『目』があります」
 今のぼくらには鷹の目がある。だからぼくらには、本当の道を見通すことができる。
 ブリック・ロードは、しばらく考え込むようにしていた。
「……本当は、あっしはジェフさんになにか協力できることがあればと思って、ここでずっと待っていたんでやす。ジェフさんならきっとこのダンジョンをクリアしてくれるだろうと思って。……川を渡りたいんでやすか? バカを承知で? 沼は底なし、泳いで行っても引きずりこまれっちまいやす。サブマリンでもあれば話は別でやすが……いや、サブマリン? それなら、たしか倉庫の……ガラクタの中に……」
「案内してください、ブリック・ロードさん」
 ブリック・ロードはふっと押し黙った。
「わかりやした。このダンジョンの奥にくたびれたサブマリンがありやす。そいつで向こう岸に渡ってくだせえやし。本当は、『お帰り穴』という名前の穴で一度そとに出てもらおうとも思っていたんでやすが……、その奥にある『さらば穴』というもうひとつの穴が、サブマリンの場所へ通じているでやんす。くれぐれも落ちる穴を間違えないでおくんなさい。『さらば穴』でやんすよ」
 ぼくらはうなずく。それから辺りをまた見回し、部屋の奥に、通路があるのを発見する。ぼくらはブリック・ロードさんに挨拶すると、その通路に向かって歩き出す。ブリックさんと話していたとき、なんだか、プーの魂がほんの一瞬だけぼくに乗り移ったような気がした。なにか全てのものを見極めたような、全てのことに確信できたような、そんな響きが自分の言葉の中にあった。
『まずは冷静になることだ。そこからすべてが始まる』
 プーの言葉を、ぼくは頭の中で反駁する。
 通路の奥には小さな部屋があり、その真ん中には穴が開いている。その穴の隣に、『「お帰り穴」勇気を出して飛びこむべし。 ――ブリック・ロード』という立て札が立っている。ぼくらはそれを意識的によけて踏み越え、さらに奥へと続く通路を歩いていく。
「縁があったら、また会いやしょう!」と、後ろからブリックロードさんの声が聞こえる。そう、ぼくらはもう帰ることはできない。もう後には引き返せない。
 通路の行き止まりにはまた小さな部屋があり、そこにまた穴が開いている。

『「さらば穴」いずれ勇気を出して飛びこむべし。 ――ブリック・ロード』

 穴の中はすべり台になってずっと続いている。ぼくは隣のふたりと頷きあい、それから穴の中に入り込むと、坂を滑り降りていく。穴は狭く、腕を胸の上で十字に組まないと滑ってゆくことができない。中は闇が続き、ただ自分の速度だけが増していく。闇の向こうにふと一筋の光が見える。ぼくらは、道の向こうの光も見逃さずにつかむことができる。
――第10部へ続く

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