Chapter 9  眩暈

『もしもし。トニーです』
 携帯に留守録が一件入っていた。受話器の奥から聞こえてきたのは、あの懐かしい声だった。
『元気ですか。僕は元気です。……本当は、もう電話するのはよそうと思ってたんだけど、だけど色々あって、やっぱり掛けることにしました。
 ジェフが前に言ってたこと……僕が前電話したとき、ジェフが最後に話してくれたこと、その意味を、あのあとずっと考えてたんだけど……よく、分かりませんでした。ごめんなさい。ジェフが何を前提にして話をしていたのか、みたいな、そこの所がどうしてもよく分からなくて……。ごめんよ。でも、僕はただ本当に、ジェフのことを心配して、それで電話しただけだったんだ。本当だよ、信じてくれよ。何か酷いこと言ったのなら謝るよ。何か悪いことしたんなら謝るよ。だから、機嫌直しておくれよ。僕はただ、本当に、ジェフと話がしたいだけなんだよ……』
 だから違うんだ、とぼくは思う。ただぼくが、好意や優しさのようなものを他人から受け取るたびに、どうしてもその先に「破滅」があるのではないかという、そういう恐怖を意識してしまうだけなのだ。結局は、ただのぼくの自己満足なのだ。いくらその人が「自分は裏切らない」と誓ったとしても、ぼくはそれをどうしても信じることが出来ない。ぼくが『そういう人間』だと知った瞬間に、まるで手のひらを返すようにして、ぼくのことを裏切っていった人間を、ぼくは知っているから。
 それは、決して父さんやポーラのことではない。
 それは、ぼくだ。
 ぼくが『そういう人間』だと知って一番ショックを受けたのは、何よりも他でもない、このぼく自身だったからだ。
 だからぼくは、他人の優しさを信じることができない。どんな人がぼくを裏切るか分からない、ぼくみたいな人間を誰が裏切ったとしても不思議じゃない、それは仕方のないことだ、ということは、このぼく自身が一番よく知っていたことだったからだ。


 例の漁船で無事スカラビに辿りつくと、船長さんに別れを告げ(一連の騒動によってさらに親交を深めていただけに、ぼくらと別れるときになると、船長さんはおんおんと大きな声を出して泣いた。その髭もじゃの強面顔を涙でぐしゃぐしゃにして)、ぼく達は、ピラミッドに向けて歩みを進めることにした。
 スカラビは不思議な街だった。まるで現実の世界から、急に異世界へとやってきてしまったような印象さえ受けた。街の一方は海に面した港になっており、もう一方は砂漠と接していて、その砂漠と、街の間には、黄土を固めて作ったレンガ造りの高い壁によって隔てられて、街全体が囲われていた。街の中心部には、広く大きな聖なる川が流れていて、その河川中流域を中心に家々が建てられ、都市が発達していったようだった。
 ホテルのある閑静な通りから、一歩その足を表の歓楽街の方へと向けると、そこはまさに人種のるつぼとも言うべき場所で、たくさんの人間で常にごった返していた。人の波を掻き分けて進むのさえひと苦労で、道の両側の露天から聞こえてくる、何語かも分からないような人々の喚声、人ごみの中から溢れてくるその土地特有の肌と汗のにおい、ときおり目に飛び込んでくる、目も眩みそうなほどの色彩に包まれた品物たち、吸い込む息に混じる街全体の埃っぽさ、熱気、など色々なもので、ぼくの意識はすっかり麻痺しかかり、やっとホテルの部屋まで戻ってきたときには、へとへとになっているのだった。
 そんな中で、仕方なくぼくは帽子をひとつ買った。前方に大きなひさしが付いていて、うしろには後頭部全体を覆うように安っぽい布がかかっている(外からの日差しや熱気やらを防ぐためだ)。それを頭にかぶると、ぼくもようやくいっぱしの旅行者らしく見えた。


 スカラビのどこまでも続く砂漠を越えるためには、移動手段を手に入れなければならず、そのためには現地のタクシーなどを捕まえなければならなかった。こういうとき子供という立場は不便だ。もしプーがいなかったら、ぼく達は今ごろ運転手から法外な料金を請求されて、うんざりしていたところだっただろう。
 プーはタクシーの運転手と何語かで話し合っており(プーは今までいったいどれくらい高い水準の教育を受けてきたのだろう?)、その間にぼく達は、車から降り、目の前の何メートルあるか分からないスフィンクスの顔を眺めていた。後方からは太陽の光が差し、そのスフィンクスのどっしりとそびえるシルエットを、ぼくらは半目になりながら見つめた。
 やがてタクシーが動き出し、ぐるりと器用にUターンして、道路の向こうに消えていく(観光のためなのか、砂漠の真ん中にコンクリートの道路が走っているのだ)。プーはこちらの方に歩いて来、ぼくらに加わると、スフィンクスの顔を見上げて少し見つめたあと、ネスに「そうだ、ヒエログリフの写しをくれ」と言った。ネスは砂の上にリュックを下ろして中を探り、あのサマーズの博物館で怪しげな学芸員の男からもらった、例の一枚の紙を取り出し、プーに手渡した。プーはそれを改めて読み返し、それからあごに手を当てて、何事か考えるようにした。
 その横からネスが、身を乗り出すようにしてプーの手元を覗きこむ。
「これが、スフィンクスとどう関係してるんだろ?」
「さぁな」写しから目を離さずにプーが呟く。「スフィンクスの前で踊れ、とはあるが」
「踊れ、って、本当に踊るのかな」
「分からん。何かの比喩なのかもしれない」
 そういって、プーは不意に顔を上げ、再びスフィンクスに目をやった。それからそのまま視線をそらさずに、一歩ずつスフィンクスに近づいていき、その体のちょうど正面になるあたりでぴたりと足を止めた。そのままスフィンクスと向かい合い、こんどは一歩一歩、背後のほうに向かってそろそろと後ろ歩きをする。ぼくらは呆然としてプーの行動を見守っている。彼はそのまま数歩歩いたところで、やがてまたぴたりと止まった。
「どうしたの?」
 隣のポーラがプーに呼びかける。彼は返事をしない。
 それから彼は、自分の足元を見、その場で下の砂を蹴り払いはじめた。ずさっ、ずさっ、としばらくやると、なんと、砂の下から平たい石版のようなものが姿を現した。
「……!!!」
「ネス、手伝ってくれ」
 プーはネスに向かって手招きをする。ネスは慌ててそれに応じ、プーのそばまで駆け寄っていく。ぼくらはそれを驚きながら見つめていた。
 隣のポーラが、ふとぼくの顔を覗き込んだ。
 ぼくは、黙ったままでいた。
 ネスとプーのふたりが砂をしばらく掘り続けていると、やがて、埋まっていた物体の全貌があらわになってきた。大きさは5m四方ほどのかなり大きな平べったい石の土台で、それからさらに特徴的なのは、その表面に五角形の頂点を描くようにして、ちょうど5つの、足で踏めるくらいのボタンが付いていることだった。
「プー、これって……」
「ああ」
 プーはネスの言葉にうなづき、それから、ヒエログリフの写しに書かれていた番号のとおりに、ボタンを足で踏んでいった。五芒星を描くように順にふみ、最後のボタンを力強く押し入れた所で、向こうにいるスフィンクスの胸がゴゴゴゴ、と音を立てて扉のように開き、入り口が出現した。
「――さ、行こう」
 ぼくの方を振り返って、プーが言った。

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