Interlude  コーヒー・ブレイク2

 林の中、雪の積もった山道を踏みしめて歩きながら、ふと真上に目をやる。梢の間からはチラチラとまたたく星々が見えた。刃のような夜の北風は、まわりの木々が防いでくれるので、寒くはない。ぼくは白い息を吐きながら、隣のトニーの顔を見た。トニーはつばの付いた帽子をやや深めにかぶり、マフラーに顔をうずめ、寒さと疲れのせいで何も喋らずに歩いている。ぼくの視線に気付いて、トニーは「んっ?」と、首をかしげた。耳と顔が紅く染まっている。ぼくは微笑むと、小さく首を振り、それからまた前方に目を向ける。前にはガウス先輩とジョージの二人が並んで歩いており、ときおり小さな声で談笑しあったりしている。ぼくは、荷物の入ったリュックを担ぎなおすと、ふたたび空を見上げる。冬の夜の冷ややかな匂いが、ぼくを通り過ぎていった。

 時間や気候や季節なんかには、それぞれ違った「匂い」がある、とぼくは思う。
 朝の匂い、昼の匂い、夕方の匂い、夜の匂い。晴れの日の、雨の日の、曇りの日の、雪の日の匂い。春の、夏の、秋の、冬の日の匂い。それぞれの年月を思い浮かべるたび、思い出の中に浮かび上がるのは映像と「匂い」だ。ぼくの心のイメージの中にはいつも、偶像と共に匂いのようなものが常に付属している。雰囲気、とか、空気、などと言ってもいいのかもしれない。とにかくそれぞれの時間や気候や季節の中には、そういう「匂い」みたいなものがあって、それはその「時」ごとに違う、とぼくは思うのだ。


 朝、制服に着替えてから食堂へ下りていくと、ガウス先輩が帰ってきていた。
「あれ? 先輩、いつの間に帰ってきたんですか」
「昨日の夜だよ」先輩は答え、隣の椅子をぼくに譲った。ぼくも、それに従う。「一応ただいまって言うつもりだったんだけど、もうみんな寝ててさ。新年になる前に帰ってこれてよかったよ。……それより、聞いたぞ。ジェフ」
「何をですか?」
「グレンのことだよ」
 ぼくは黙る。
「一応ギャリーもなのか。まぁ、主犯はグレンの方だったみたいだけど……。休学二ヶ月だってな」
「みたいですね」
「いや、『みたいですね』って……」
「あっ、ガウス先輩!」
 後ろから声がしたので、振り向く。トニーだった。こちらの席に向かって歩いてくると、ぼくの隣の椅子を引いて、座る。ガウス先輩は手を振って「おう」と答えた。
「先輩、帰ってきてたんですね……って、あっジェフ!」トニーは思い出したように、こちらの方を見る。「今朝、なんで起こしてくれなかったんだよ。一緒に行くんだから起こしてくれたっていいじゃないか!」
「いやぁ、あまりに気持ちよさそうに寝てたから、起こすのもどうかなって」
「そういう問題じゃないだろっ! そんなこと言ったら、いっつも起こしてる僕は何なんだよ!」
「ハハハ、お前らも相変わらずだなぁ」
「先輩ー」トニーは、ガウス先輩に向かって甘い声を出す。「そんなのんきなこと言ってないで、ジェフになんか言ってやってくださいよぉー」
「……あ、そんなことよりお前たち、今年はアレ、どうするんだ?」
「アレ?」
「ほら、いつもやってるだろ。クリスマス休暇に家に帰らない組で、初日の出見んの」
 ガウス先輩の言葉で「あ」と思い出す。そんなこと、すっかり忘れていた。頭の片隅にさえなかったのだ。


 教室の窓の外から、丸裸の木が見える。数年前にすっかり枯れてしまった木だ。枝の伸びたその木の幹はどこか老婆の手のように見え、最初見たときにはいやに想像力を駆り立てられたものだった。今にも折れてしまいそうなその木を、ぼくはぼうっと見つめる。ぼくの席は教室の真ん中の列のちょうど窓際にあったので、物思いに耽るにはちょうどいいのだった。
 頬杖をつきながら、先生の授業を聞く。言葉が頭に入ってこない。ノートすら取る気が起きない。あの事件が起きてから、なんだかすべてにおいてやる気が起きないのだ。最近、グレンとギャリーのことをよく考えるようになった。よく、と言ってもそこまででもないのだけれど。


 事件からしばらくして、グレンから電話があった。
 昼休みの途中で呼び出しが掛かり、何かと思って教員室に出向くと、先生がぼくに受話器を手渡した。誰かと思って電話を代わると、聞き覚えのある声がした。
「――ジェフかい?」
「あぁ、グレンか」ぼくはびっくりして言った。「元気だった?」
「え、あぁ、うん」キョトン、とした様子でグレンが言った。「こっちは元気だよ。家で、謹慎してる。ギャリーも一緒だ。そっちは?」
「変わりないよ。怪我も治ったし。どうしたの?」
「いや」
 グレンは一瞬口ごもる。
「謝り、たくてさ」
「……あぁ、そっか」うすうす予感はしていたのだ。「ありがとう。ウィルには連絡したの?」
「あぁ。一番に電話した。とりあえず、仲直りはしたよ。許してくれたかどうかはわかんないけど」
「そっか」
 ぼくがそう言って、それから、お互いに無言になった。
「どうして、こんなことしようと思ったの?」
 ぼくは聞いてみた。グレンは、少し考えたあとで、
「……調子に乗ってたんだと思う。最初が、けっこう上手く行っちゃったからさ。なんていうかさ、その」
「……」
「毎日勉強ばっかでさ、鬱屈してたっていうかさ、その、後になって思うと、なんかやっぱり楽しんじゃったんだと思うんだ。……いや、何言ってんだろ、ごめん、ホントごめん」
「……」


 夜、部屋に戻ってその話をすると、トニーはいかにも憤慨、という顔をしながら言った。
「なんだいそれ! 『楽しんじゃってた』なんてさ! なんで何か言ってやらなかったんだよ」
「あぁ」
「あぁ、って、そんな他人事みたいに言わないでよ」
「え。いや、そんなことないさ」
 ぼくはトニーの言葉を否定する。
「そんなことないけど、でも」
「『でも』なんなのさ」トニーは尋ねる。「本人を目の前にしてさ、グレンもそれはないと思うよ。殴られた方の身にもなってみろ、とか思わない?」
「グレンらしいじゃないか」
「……ジェフはウィルよりグレンに肩入れするんだね」
「あ、いや、そうじゃなくて」ぼくは自分の考えを言葉にしようと、少し慌てる。「えっと、だから……、ぼくはただ、二人が早く戻って来られればいい、って思っただけだよ」
「はぁー!?」トニーは解せない、という調子で顔を歪める。「ジェフ、なんか変なものでも食ったんじゃないか?」
「そんなんじゃないよ。じゃあトニーは、彼らとはもう友達じゃないのかい? グレンとも、ギャリーとも」
「……」


 ときどき、グレンとギャリーの思い出をひっぱりだして、思い返したりする。そのときは、別に二人を弁護したかったわけじゃない。そもそもぼくにとって、あの二人はあんまり好きな相手ではなかったのだ。
 だけど、鬱屈していた、という気持ちだけは、少なくともわからないではない。それに、彼らは数ヶ月前までは間違いなくぼくらの僚友だったのだ。だから、もしウィルや先生が彼らの罪を許し、そして彼らが心の底からあの事件のことを反省しているのであれば、ぼくは彼らを許してもいいと思う。彼らに早く戻ってきて欲しいと思う。だって、スノーウッド学園という学校はこの世にひとつしかないのだ。ぼくらも彼らも、この世にそれぞれたった一人しかいないのだ。そんなぼくらがこの世で出会ったなんて、まさしく奇跡じゃないか?
 だからぼくらは、彼らを許さなくてはいけないと思う。彼らがすべてを反省し、やり直せるなら心を入れ替えてもう一度やり直したい、と思っているのなら、ぼくらは彼らを受け入れなければいけないと思う。きっとそうするべきなのだ。罪を心から悔い改めた人間から、さらに居場所を奪うことは、それがすなわち罪なのだ。
 と、そんなことをトニーに話すと、トニーは「ジェフって、大人だね……」と、静かに一人ごちた。そんなものだろうか。


「ねぇ、ジェフ」
 雪の山道を歩きながらトニーが静かにぼくに囁く。
「何?」
「あ、あのさぁ。こんなときに言うのもなんなんだけどさ」
「だから、何が」
「えっ、あ、いや、その」トニーは口ごもる。「……ほら、ジェフが入院して、初めて目を覚ましたときにさ、僕に言ってくれたことについてなんだけど」
「……なんか言ったっけ?」
「え、いや、だからその、好きだって」
「うん。いいヤツだと思ってるよ。今でも」
「……」
「トニー?」
「えっ、なんでもない、うん、続けて」
「あぁ。いや、トニーはぼくのこと助けてくれたし。あの時はずいぶん感激したもんだよ、持つべきものは友人だなぁって。感謝してるよ。……トニー、どうしたの? そんなに落ち込んで」
「ううん……まぁ、そんなことだとは思ってたけどさ……よよよ」


 急に視界がひらけ、林だらけの山道からやっと「展望台」という立て看板のある広い駐車場に着いたとき、ガウス先輩は大きく伸びをして、「やー、着いた着いた!」と眠そうに声を上げた。白いガードレールの向こうは断崖になっていて、このあたりの風景を一望することができた。手すりに手をかけながら真下の景色を覗くと、白い絹のような雪を纏った森の中に、ひっそりと立つぼくらの学校が見えた。ぼくはポケットの中に手を突っ込みながら、手持ち無沙汰にそれをじっと眺めていた。
 後ろから、「ココアできたぞー」とボビーの声がする。ぼくらはポットを沸かしているコンロの回りに駆け集まり、自分達で持ってきた簡易椅子に座って、ガウス先輩とボビーの作ったココアを飲む。ぼくは上を見上げ、それからそっと息を吐いた。
 空がもう白みかけていた。見れば山の向こうも少し明るい。
 隣のトニーが、「何見てるの?」とぼくに尋ねる。
「別に、何も」
「ふうん」
「いま何時?」
 トニーは腕時計に目をやる。「6時」
「そうか」ぼくは答える。「もう夜明けだな」
 そうだ、なんにでも終りがあるように、なんにだって夜明けはやってくるのだ。どんなものにも、どんな人にでも。ぼくは、マグカップのココアを少しだけすすり、それから山の向こうから昇ってくる朝日を、ただ静かに眺めた。

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