胸ポケットの中で不意に携帯が震える。ドキリとし、恐る恐る携帯を取り出して、ディスプレイのナンバーに目をやる。番号には見覚えがあった、スノーウッド学園の外線番号だ。
 トニーだ、とぼくは思う。またトニーが、ガウス先輩か誰かの力を借りながら、学校の電話を使ってこの携帯に電話しているのだ。携帯はなおも震え続けている。ぼくは昨日のトニーとの会話を思い出し、それと同時に、自分の心がどんどん闇の中に暗く沈みこんで行くのを感じる。重く濁る、いっそうどんよりとした思考の中で、何故だかぼくはどうしても目の前の「通話」キーを押すことができない。トニーと話をすることで、ぼくは自らをさらけ出してしまい、その結果トニーにすら幻滅され、拒絶されてしまうことが、ぼくは恐ろしくてたまらない。ぼくはまるで、世界の上にたった一人でたたずんでいるような気持ちになる。そんなことはない、と言葉の上では分かっているはずなのに。
 ぼくが携帯の画面をじっと睨んでいると、やがて携帯はその動きをやめ、「着信:1件」という文字が表示された。電話が切れたのだ。あっ、とぼくは思い、それから安堵と失望の入り混じったような複雑な気持ちを抱えながら、携帯をまた胸ポケットにしまった。
「あれ? その携帯、ジェフが持ってたんだ」
 後ろから声がして、ビクンと背筋が跳ねた。
「ね、ネス!」ぼくは振り向く。「い、いつからいたんだ?」
「いや、トイレの前で何やってんのかなー、と思って」ネスはきょとんとしている。「……誰かから電話があったの? 誰から?」
「あ、いや、アップルキッドからだよ。何も異常はないかって聞かれて、とりあえず今の状況報告しといた」
「……?」
 ネスは怪訝そうな顔をしていたが、やがて「……まいっか」と呟き、
「どうする? まだ持ってる? それ」
「……あ、うん。まだ色々よく調べたいところがあるから」
「ふぅん。ジェフがそう言うなんて、よっぽど複雑なんだなぁ。――入る?」
「え? どこに?」
「いや、トイレ」
「あ、あああ。いや、どうぞ」
「ん。サンキュ」
 ネスは頷き、ぼくの脇を通り過ぎて、背後にある汚れた個室トイレの中へ入った。バタンとドアが閉められ、ぼくはこれまで溜めていた息を大きく吐き出す。
 まったく、何でこんなにもビクビクしなきゃいけないんだ。


 薄暗く、荷物などがところどころに置かれた狭い通路を抜けて、階段を上がると、大して広くもない甲板に出た。ぼくたちの乗っている船は、何の変哲もないよくある中型漁船で、前方に目をやると、抜けるような青空と入道雲の下、船は一定のリズムで揺れながら、波を切って航路を進んでいた。
 ぼくらが目指しているスカラビは、サマーズの南海の向こうにあるため、ぼくらは海を越えて行く必要があった。しかし、このあたりの海は最近荒れ気味らしく、海を渡るためのすべての船はほぼ完全に欠航していた。船が欠航するなんてそんなに海は荒れているのか、と思うが、どうやら欠航の理由はそれだけではないらしく、噂によると「クラーケン」が出る、という話だった。
 クラーケンとは、この昔から辺りに出ると伝えられている伝説の海蛇で、最初はそのようなものが実際に存在するなんて噂は誰も信じてはいなかったのだが、それでも最近、漁で捕まえた魚の中に何か巨大なものに食いちぎられたようなたくさんの魚の死骸や、突然変異で出現したような全長が2m強もある「巨大な海蛇のようなもの」が確認されはじめると、途端に人々は恐怖におののくようになってしまった。その突然変異の海蛇には、ふさふさとした赤いタテガミと、緑色の鱗と鋭い牙があり、両目がなかった。その噂を聞いてネスとポーラは怪訝な顔をしたが、ぼくはタス湖で一度、既に似たようなものを見た経験があったので、さほど驚かなかった。プーは何も言わなかった。


 船の右へりにはポーラが腰掛け、暇そうにしていた。しばらくして、彼女がこちらのことに気が付き、慌てて声を出す。
「あっ、ジェフ。おかえり」
「あぁ、ただいま」
「……」
「……」
 会話が続かない。
 そういえば、ポーラと2人きりになるのは、あのスリーク地下での会話の時以来だと気付く。
「あ、そういえば、今ネスが入っていったけど?」
「うん、今さっきすれ違ったよ」
「そう」
「あぁ」
「……」
「……」
 ぼくらがそれきり黙りこむと、急に、船の後ろから聞こえていたエンジン音が止まった。船もぴたりと動きが停まる。何かと思ってぼくが操縦席の方を覗き込むと、その中から慌てて、半袖の青い船員服を着た髭もじゃの男がバタバタと飛び出してきた。船長さんだ。
 彼はぼくらの脇を走り抜け、船のへりから海を覗き込むようにすると、突然思い切り吐いた。ぼくらは軽く仰け反る。
「わっ。だ、大丈夫ですか? 船まで止めちゃって……」
「ちょっ、と!……うぉおぇええおっ」
 ぼくらの方を振り向いた瞬間さっと顔色が変わり、またもや海に向かって吐しゃ物を撒き散らす。なんだかゲップーを髣髴とさせるようだ。日に焼けた逞しい身体が軽く痙攣する。後ろから、プーが追いかけてやってくる。プーは船にしがみついている船長さんの傍に駆け寄ると、背中をさすりながらヒーリングをかけた。
「はぁ、はぁ、いやぁどうもありがとう」しばらくして、船長さんが力の抜けた声で笑う。「久しぶりなんで……船酔いしちまって。クラーケンの噂が広まってから、もうさっぱり漁になんて出てなかったし、さすがにこたえるなぁ。船乗りが船酔いするようじゃ、どうしようもねぇんだけどね。……そういえば、あんたら、よく砂酔いしないね」
「はい、なんか平気みたいで」
「おいおい、何かあったの?」
 下からの階段を上がって、ネスが甲板に戻ってくる。大丈夫大丈夫、と船長さんは言い、それでぼくとポーラの会話は完全に中断された。ぼくがポーラの方をもう一度見やったとき、一瞬だけ目があったが、ポーラは誤魔化すように小さく笑うと、それきり目を逸らした。ぼくもそれから何も言わないようにした。
「――ん?」
 そのとき、船長さんをやさしく介抱していたプーが、突然何かに感づいたかのようにガバリと顔をあげた。こちらのことを見たのかと思い、ぼくは一瞬ぎくりとしたが、そうではなく、プーはぼくの後ろのはるか向こう、船のへさきの方を睨んでいた。
「何か、近づいてくるぞ」
 えっ?と全員が声を出す。
「見ろ」
 プーが自らの視線の向こうを指差す。ぼくらもそれに習う。と、穏やかに揺れる波の向こうから、ここからでもはっきりと肉眼で確認できるくらい大きな海の中の黒い影が、見る見るこちらの漁船に向かって進んできていた。
「何あれ……」とポーラが言う。しかしそう言っている間にも、影はどんどんこちらへ近づいてくる。ネスはぽかんとしていたが、急いでその表情を引き締まった顔に変え、「ヤバい、来るぞ!」と叫ぶ。きょろきょろとその場で辺りを見回すと、たまたま近くに転がっていた鉄パイプを手に取って構える。プーは近づいてくる影から決して目をそらさずに、体を低くして戦闘の態勢を取る。ぼくはポーラと共に前衛2人の後ろに下がり、懐から改造銃を取り出す。
 その瞬間、船全体がぐらりと揺れる。
 前方の波間から、音と共に巨大な影が姿を現した。
「で、で、で、で、で、どぇえーーーーーーたぁあああ!!」
 それは、赤いたてがみと緑の鱗を持った、体長10mはあろうかという巨大な海竜だった。

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