茫洋とした白い光の中にいた。その光はまるで5月の風のように心地よく、人肌のように優しく温かかった。ぼくは目を閉じ、胎児のように体を丸める。誰かの腕に包まれているような心地がする。それでぼくはもう何も考えないようにする。



『ジェフ』
 呼ぶ声がした。目の前に誰かが立っている。
『ジェフ、何をしている。戻って来い』
 顔は翳っていてよく見えない。誰だよ、と思う。放っておいてくれ、ぼくはもう何もかもにうんざりしているのだ。幻滅しているのだ、ぼくを含めた何もかもに。
『ジェフ。本当にそれでいいのか?』
 また声がする。いいんだ、とぼくは頷く。ぼくにとって外の世界にいることはあまりにもつらい。だからぼくはこうして、ここに留まることを選択したのだ。その方がぼくにとっても向こうにとっても、幾分マシな筈なのだ。
『ジェフ。目を覚ませ。目を開けろ』
 ぼくは目を開ける。
 そこは、どこかの原っぱだった。一面の草原が風になびき、そばには一本の大樹があって、その木陰にピクニック・シートが敷かれている。葉のわずかな隙間から差し込む木漏れ日が揺れ、どこかで鳥が美しく鳴く声がする。ここにはなんだか見覚えがある気がする。
 そして、ぼくの隣には、まったく見ず知らずの少年が座っていた。
 第一、なんだかよく分からない格好をしている。彼は何故か白い胴着を着、頭の黒い髪の毛を剃り上げて弁髪のようにしている。そして髪の色と同じキリリとした眉と、切れ長の目を持ち、その瞳の中には優しげな光をたたえていた。年は大体ぼくと同じか、少し年上くらいだろうか。
 変な人だなぁ、と思った。なんだか夢でも見ている気分がした。
「そうだ。夢だ」
 彼は言う。
「ジェフ、一緒に帰ろう」
 彼はぼくの方に向き直り、手を差し出す。いやだ、とぼくは首を振る。
「どうしてだ?」
「絵、かいてるの」
 ぼくは言う。
 そう、ぼくは子供の姿で、野原のピクニックシートに座り、ひとりで絵を描いている。
「何を描いてるんだ?」
「ギーグ」
 彼が、ぼくの画用紙を覗き込む。画用紙は、ぼくのクレパスに塗りつぶされて一面真っ黒になっていた。
「……これが『ギーグ』か?」
「うん」ぼくは頷く。「ギーグは真っ黒なの」
「なんなんだ、ギーグって」
 彼は穏やかな口調でぼくに尋ねる。ぼくはつい早口になって答える。
「あのねぇ、ギーグはねぇ、お化けなの。お化けだから、お母さんを食べちゃうの」
「お母さんを、食べちゃうのか」
「うん。ふつうの時はいないんだけどねぇ、ぼくがいけないことをするとねぇ、お母さんがギーグに食べられちゃうの。そしたらねぇ、お母さんがギーグにへんしんするの。それでぼくに『いけません!いけません!』って言うの。だから、それがこわくて嫌なの」
 思い出す。母さんがぼくに投げつける沢山の言葉を想像する。『――どうして! どうしてこんなに言っても分からないの! わざとやってるんでしょ、本当はわざとやって私を困らせようとしてるんでしょ!』『どうしてそんなことするの! お母さんのことが嫌いなんでしょ! 私だってアンタのことなんて大嫌いよ! アンタの顔なんて見たくもないわよ! あぁ、アンタなんて生まなきゃ良かった! あんたなんて生まれない方が良かったんだわ! あんたなんて死ねばいいのよ! 死んで! 早く死んでよ!』
「――ジェフ。ジェフ、聞いてるか?」
 彼の声で、ふと我に返る。
「……」
「聞いてたか?」
 彼の言葉に、ぼくは首を振る。
「ジェフ、お前、ここにずっと居たいか」
 彼は言う。ぼくは少し考え、それから小さくこくりと頷く。彼は、ぼくのことをじっと見ていたが、やがて悲しそうに目を閉じて、それからゆっくりと腰を上げる。
「……そうか。残念だ、ジェフ」
 彼はぼくに悲しげにそう告げると、ぼくの前から立ち去り、どこかへ歩いていく。あっ、とぼくは思う。待ってくれ、やっぱり行かないでくれ、ぼくはそんなつもりで言ったんじゃなかったんだ。ぼくは、自分の矛盾した行動に気が付いている。でもぼくは本当に、そんなつもりじゃなかったのだ。
『お前が望んでいるのなら、お前がその状態で生きることを望んだのなら、それでもいい』
 声の主はなおも遠ざかっていく。待ってくれ、誰だ、誰なんだ君は?
『いや、お前は俺のことを知っているはずだ。――俺は、』
 君は?



 むせるような潮のにおいで目を覚ます。うっすらと目蓋を開けると、目の中にまぶしい朝の日の光が飛び込んできた。
 遠くの水平線の向こうから朝日が昇ってくる。海面はきらきらと太陽の光を反射させて輝き、まるで海の上に伸びる光の帯のように見える。
 そしてぼくは、港町トトにある港のすぐ前の倉庫の軒下に座り込み、その白く塗られたレンガの壁にもたれているのだった。頭上を見上げると、空はくっきりと青く澄んでいた。屋根のまわりをウミネコが鳴きながら飛びまわっている。はっくしょい、と大きなくしゃみが出る。服はもう乾いていたが、心なしか体が寒い。どうやら本格的に風邪を引いてしまったようだ。
 早く帰らなきゃ。
 しかし、そう思えば思うほど、今度は体がその気だるさを増していった。
 ――あぁ、やばい、すごく帰りたくない、とぼくは思った。体が妙に重いのだ。再び夢の続きを見ようと、ぼくは目を閉じかけた。が、不意にどこかから電子音のメロディが聞こえてきて、ぼくの眠りはそれに遮られた。
 それが携帯電話の音だと分かるまで、少し時間がかかった。そうだ、そういえば、トンズラ・ブラザーズの黒いバンに乗って移動してる間に、ぼくは色々電話の設定をいじっていて、それで電話をズボンのポケットの中に入れたまま、忘れっぱなしにしていたのだ。
 取り出し、通話ボタンを押す。
「もしもし」
『もしもし、ジェフー?』
 懐かしい声。
「え?」
『うれしい、やっと電話が通じた! あ、ジェフ! 僕だよ、トニーだよ!』
「……トニー?」
 呆然とする。スノーウッド寄宿舎で別れたはずの、あのトニーだった。
 どうしていきなり? ぼくは言葉を続けることができなかった。確かに、いきなり電話が掛かってきて慌てていたからというのもあったし、ぼくはてっきり電話が掛かってくるならネスかポーラあたりだと思っていたのだ。それが嬉しいかどうかは別として――だからぼくは、電話の向こう側の人間が、彼らではないことに、心底安堵していたのだ。
「どうしたんだよトニー、なんで、この番号……」
『え? アンドーナッツ博士に聞いたんだ』
「あ、そうか」
 言われてぼくは納得する。そういえば、そもそもぼくが教えたのだった。
「でも、どうしたんだよ、こんな朝早くから」
『朝?』トニーは驚いた声でいう。『何言ってんだよ、もう昼過ぎじゃないか』
「いや、でも朝日が昇ってるよ、こっちは」
「えっ? うーん、なんだろ、時差があるのかな』
 そうかもね、とだけぼくは答える。そうして、少しだけ会話が途切れる。
『……あっ、そっちは? 今どこにいるの?』とトニーが言う。
「こっちかい。こっちは、今サマーズにいるよ」
『サマーズ!?』
「うん」ぼくは頷く。「サマーズの――海の、海の近くだよ」
『へ、へぇー、すごいなぁ。僕なんてサマーズはおろか、海だって見たことないよ』
「綺麗だよ」とぼくは答える。「今ちょうど朝日が昇ってて、水面がきらきら輝いてるんだ。まぶしいよ」
『へぇー……』
 トニーがため息を漏らし、そうして、また会話が途絶える。電話の向こうで、トニーが懸命に話題を探して、会話を繋げているのが分かる。どこかぎこちない。そう思うと、本当に申し訳のない気分になる。
『ずいぶん遠いんだ、ジェフ』トニーは言う。『――僕、心配で心配で……ジェフ』
「それで、どうしたの。何かあったの?」
『えっ?』
「いや、わざわざ掛けてくるなんて」
『……』
 トニーは少し口ごもる。
『そんなの決まってるじゃないか、心配してたんだよ。ジェフのこと』
 トニーが言う。ぼくは何と答えて良いか分からず、沈黙する。ぼくは、トニーが今何を考えているのか想像しようとしたが、よく分からなかった。
『あ、えっと、なんていうか、その』トニーは慌てて付け足す。『本当にためしに掛けてみただけで……ああっ、じゃなくて、変に思わないで。その、』
「なんなんだよ」
『ま、まぁいいや。あっ。えっと、じゃあもうすぐ授業始まるから、とりあえず切るね』
「あぁ、」ぼくは頷く。「そうか。またね」
「ええっと、じゃあジェフ、また、元気な君に会えることをお祈りしてるよ。君の友達のトニーより……、でした。じゃあね』
「なんだいそりゃあ」僕は小さく笑う。「それじゃあね」
『さよなら』
「うん。また」
『頑張ってね』
「うん」
『気を付けてね』
「うん、わかったよ」
『ほんとに切るからね?』
「はいはい」
『バーイ……』
 電話が切れる。ぼくは、後ろの白い壁にもたれ、目を閉じ、頭の中を空っぽにして息をつく。
 なんだか、心が少しだけ軽くなったような気がした。何故と聞かれてもよく分からない。それもただ「なんとなく」だった。久しぶりに懐かしい声を聞いたからかもしれない。ぼくは、もう少しだけ朝日を見ていようと思った。すでに太陽は水平線から完全に顔を出している。ぼくは、港の波の音を聞きながら、さっきの夢の続きを見ようとした。けれど一方で、もう二度とあの続きを見ることはないだろうな、とも思えた。それがなんだか無性に悲しかった。
『強く生きるのよ、ジェフ――』
 いつかの母さんの言葉を思い出す。それは一体いつの言葉だっただろう?
 そのセリフには、確か続きがあった気がする。思い出せない。母さんは一体、ぼくに何と言ったのだろう? 何と言いたかったのだろう?



「おはよう」
 そして、いつの間にかぼくの目の前には、見覚えのある少年が立っていた。


「よう」
 と、彼が言った。夢の中で出会った、例の妙な少年だった。
「……君は」
「俺か?」少年は言った。「俺の名はプー。俺はお前達の仲間、選ばれし戦士達の4人目だ。……しかし、どうやら自分の力だけで無事にマニマニから逃れられたようだな。迎えに来るまでもなかったか」
「……」
 呆然としているぼくに、やがてプーは右手を差し出す。立ち上がれ、ということなのだろうか。
「ずっとここにいたいのだろうが、悪いけれど時間がない、とりあえず戻ろう。話はそれからだ」
 プーは言う。
 どうしてなんだ?
 どうしてぼくは、あの夢の続きを見るのを許してもらえないんだ?

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