突然の出来事に、ぼくは思わず息を止めた。ごくり、と恐る恐る飲み込んで、それからゆっくりと吐き出す。
 彼らの姿は水平線の向こうの夕日によって暗く翳り、シルエットになってひとつに重なっている。ぼくはそれから目を離せず、そのまま一歩後ずさり、続いて2歩、3歩、それから体の向きを変えて、その場から急いで逃げ出した。
 どこへ向かうかも考えず、ぼくは駆け出していた。何を焦っていたのか、自分でも分からない。……いや、焦っていたんじゃない。ぼくは怒っていた。明らかに誰かに向かって怒っていた。ぼくの心の中に何かどす黒いものが、なにかどろどろと重く渦を巻いていたのだ。
 ホテルの自分達の部屋に飛び込み、ドアを閉めると同時に鍵をかけた。
 それからドアにどすんと背中で寄りかかり、深く息をする。額の汗を拭う。息を整え、それからベッドに向かう。どさり、とベッドの上に寝転がると、柔らかな感触が心地よかった。ぼくは気を沈め、自分の心が一体どうなってしまったのか考えようとした。だけどうまく頭が働かない。思考が停止してしまっている。体が重い。だるい。眠い――。


 がちゃり、とドアが開く音がして、ぼくは目を覚ます。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。窓の外は既に暗く、部屋の中のライトが薄ぼんやりと光っている。入り口の方を見ると、ネスとポーラが2人並んで部屋に帰ってきていた。
「あ、ジェフ、寝てたの?」ネスがきょとんとして言う。「ごめん起こしちゃって」
「なっ……」
 ネスがあまりにも平然とした顔で言うので、思わずぼくは声を上げてしまった。
「どこ行ってたんだよ、今まで」
「どこって、……なぁ」
「何で私に振るのよ」
 ポーラはネスの方を見、二人の目が合う。お互いに顔が赤くなる。その様子を見て、何だコイツら、気持ち悪い、と思う。
 ――気持ち悪い?
 ぼくは今、彼らに、気持ち悪いという感情を抱いたのか?
「何なんだよ君たち。どこ行ってたのかはっきり言えよ」
 ぼくが叫び、ネスは「えっ?」と目を丸くする。
「……ど、どうしたんだよジェフ。何かあったの?」
「『何かあったの』、だって? ぼくは――」
 そう言いかけて、口ごもる。ぼくに何を言えと言うのだ。
「――ぼくは、さんざん駆けずり回って、2人の姿を探して、一言謝ろうと……、ぼくが博物館を回ってる途中で、気が付くと二人が近くのどこにもいなくなってて、急いで博物館を出て、メインストリートの方とか、昼に訪れたレストランの方まで行って、散々駆けずり回って――違う、そうじゃない、そうじゃなくて……」
「どうしたのよジェフ、何か変よ?」
「変じゃない、変なのは君たちの方だ!」
 ぼくは声を張り上げ、ベッドから立ち上がると早歩きで彼らの脇を通り過ぎる。頭を掻く。きっと正しいのはポーラの方なのだ。彼女達が普通で、ただぼくがどこか変なだけなのだ。


 ホテルの外は、いつの間にか強い雨だった。


 夜、みんなが寝静まった後、ぼくは暗い部屋のベッドの上でむっくりと体を起こした。立ち上がり、何も見えない部屋の中を歩き回る。蒸し暑い。寝苦しすぎて寝られない。気分が悪い。ぼくは、ネスの寝ているベッドの傍まで歩いていって、枕元に立つ。見下ろすと、すやすやと静かに眠るネスの顔があった。
 気分が悪くなる。
 外に出よう、とぼくは思った。パジャマを脱ぎ、シャツを着てズボンを履き、ネクタイを……締めようとして、やめた。そんなにちゃんと出かけるわけじゃない。
 ぼくはそのまま何も持たずに部屋を出る。誰もいない、柔らかな赤い絨毯の敷かれた廊下を歩き、突き当りの2台のエレベーターにたどり着くと、エレベーターのボタンを押す。10秒ほどして、右のエレベーターの扉が開いた。ぼくはそのまま1人でそれに乗り込み、一階に下りる。エレベーターから出て、廊下と同じふわふわした床のロビーを横切り、ふと、吹き抜けになっている天井を見上げる。遥か上にきれいなシャンデリアが見える。
 ぼくは視線をはずし、自動ドアを抜けて外へ出ようとした。頭を、冷やそうと思った。
「お客様」
「は?」
 扉横のボーイが話しかけてきた。
「外はスコールでございますが、傘はお持ちでしょうか」
「あ、いや、傘は、外にあるんで」
「はぁ……、そうでございますか」
 嘘だった。
 ボーイには目もくれずに外へ出る。屋根から出た途端、滝のような雨がぼくに降り注ぐ。冷たい。寒い。髪が濡れて、服が濡れて体にまとわりついて気持ち悪い。眼鏡が水滴で曇って見えない。でも構うものか、いずれ慣れる。ぼくは眼鏡をはずし、シャツの胸ポケットに入れる。それから顔をぬぐい、歩き出す。道なんか知らない。でも気が済むまで歩いて行ってやる。


 ぼくは一体何がしたいのだろう、と考える。こんなことをして一体何になると言うのだ。結局、ネスやポーラを心配させるだけじゃないか。でも、部屋にはもう戻りたくなかった。意地、も半分あったのかもしれない。でも本当に誰の顔もしばらく見たくなかったのだ。
 ぼくがあの時感じたのは、一体なんだったのだろう。……嫉妬? 嫉妬か何かなのか? ぼくは本当はひと目見たときからポーラが好きで、そんな思いがずっと無意識下にあって、それがいきなりネスに取られてしまったから、それが悔しいのか? 気持ち悪いと思ったのか?
 そうじゃない。
 ぼくはあの、2人の交わした行為を目撃することで、ぼくは確かに彼らに対して「裏切られた」と思ったのだ。
 彼らは2人だけで遠くに行ってしまい、ぼくは1人だけ取り残されたのだ。
 結局のところ、ぼくらの中でネスはポーラを選び、ポーラはネスを選んだのだ。確かにネスもポーラもぼくのことを決して嫌いというわけじゃないだろうが、彼らは結局のところ、より深い絆持った相手として、ネスを、ポーラをそれぞれ選び、そしてぼくは取り残されたのだ。
 別にぼくはネスとポーラに、ぼくのことを心から好きになって欲しかった、とかそういうことではない。そうではなくて、ぼくは結局『自分は誰にも選ばれなかった』ということだ。それ自体に、ぼくは怒り、幻滅し、そして絶望させられたのだ。
 ……どうして、ぼくはこんなことを思っているんだろう?
 雨のせいか、メイン・ストリートに人通りはほとんどない。ときどき自分たちの家に帰りそこなった人たちが、雨に濡れながら急ぎ足でどこかに向かっていくくらいだ。だんだん寒くなってきた。当然だ。こんなに濡れて、きっと風邪でも引くに違いない。
この人殺し!!
 ビクリとぼくの肩が跳ね、うしろを振り返る。
 アイザックがいた。
「――お、お前は、」
「なぁんちゃってね、ハハハ」
 彼はあざけるように笑うと、ぼくに近づいてくる。
「分かっただろ、ジェフ。君は所詮取り残される身なんだ。なんたってここは君のいる場所じゃないからね」
「……」
 足が止まり、彼はぼくの目の前に立つ。ぼくは下を向き、彼の顔を見ないようにする。それでも彼はぼくの顔に口を寄せ、耳に静かにささやいてくる。
「でも大丈夫。僕なら、きっと君をどこまでも理解することができる。なんてったって僕は君の分身、君が作り出したもう1人の君なんだからね」
「……」
「僕ならきっと君の一番の良い理解者になることができる。僕の言う通りにするんだ。そうすれば、君は本当の『自分の場所』を見つけることができる。君自身だけの、君自身のための完全なる世界。そこならすべてが君を受け入れ、理解してくれるようになるんだ。……どうだい?」
「……」
 雨の音だけがぼくの耳の中に響く。それはどこかテレビのノイズ音にも似ている。
「……どうすればいい」
「ふむ」
 彼は、ぼくの言葉に頷き、それからポケットから何かを取り出す。彼が手に持っていたのは、ボルヘスの酒場のカウンターの中で一度見かけた、あの小さいサイズの黄金像だった。
 マニマニの悪魔
「これを受け取るんだ」彼は言う。「そしてすべてに身をゆだね、新しい世界を欲すればいい。そうすれば、君は君だけの完全なる世界にたどり着くことができる」
「……それが、このマニマニの悪魔の力?」
「そう。これがマニマニの真の力。持ち主の心の中に、その人の望む完璧な世界を作り出す能力。その、作り出した大いなる世界のことを僕は『マジカント』と呼んでる。君の心の中に作り出される、誰も入り込むことのできない完成された世界」
 心の中の世界、マジカント。
 じゃあ、あのモノモッチ・モノトリーの作り出した『ムーンサイド』は、それだったのか。
「そう」彼は頷く。「しかも、マニマニの力はそれだけじゃない。うまくすれば、その自分だけの理想郷を、この現実世界にそのまま同化させることもできる。モノトリーが使ったのはその力さ。……まぁ、でもその力を使った場合は、現実世界に干渉するものである以上、当然君たちのようなマニマニの力に気付く『邪魔者』も現れかねない。その点は注意が必要さ。もしずっとその世界を維持していたいんだったら、素直に自分の世界で静かに暮らしていたほうがいいね」
「……」
 ぼくは、ゆっくりとその像に手を伸ばして行く。でも、と寸前のところで思う。本当に、本当にいいのか? この世界から去ってしまって本当にいいのか? 本当にこの世界に未練は無いのか、この世界には本当に、ぼくを心から愛してくれる人はいないのか?
「……」
 ぼくは仲間たちのことを、今まで出会ってきた仲間たちのことを思い出そうとした。ネス、ポーラ、父さん、バルーンモンキー、トンズラ・ブラザーズ、それから、それから……ダメだ、あと誰か、大事な人を忘れている気がするのだけれど、それがどうしても思い出せない。
「どうしたんだい。何かここに思い残すことが?」
「……いや、ないね」
「そうか。それは良かった」
 彼はまた微笑み、それからぼくにマニマニの像を差し出す。
「おかえり、ジェフ。君の本当の場所へようこそ」

BACK MENU NEXT