冷たい風がピリピリと頬を撫で、その感覚をふと懐かしいと思う。白い息を吐くのは久しぶりだった。ざく、ざく、と、降り積もった雪の感触を確かめながら歩く。
 しばらく見ない間に、この辺りにはずいぶん積もったな、と思う。道の雪はある程度除けられてはいたけれど、それでも簡単に足首まで一気に埋もれてしまうくらいに深い。高い雪山を背にした谷道を、息を荒げながら進むと、やがてストーンヘンジが見えてきた。
 石でできた3mくらいの円柱が、一点を中心に5mくらいを半径にして等間隔で並んでいた。石柱の片側には、凍った分厚い雪ががっちりとへばりついている。
「へー、これがストーンヘンジか」
「そうだよ」ぼくはネスに頷く。それから、「この円の真ん中は異星人の秘密基地とつながってるんだ」とネスに続けると、後ろのポーラが「やぁだ、なにそれ」と小さく笑った。
 ストーンヘンジを通り過ぎて、またしばらく歩くと、山の岩壁に大きな洞窟が開いていた。中は薄明るい。ぼくらは雪の混じる風から逃げるようにして、洞窟の中に入った。
 外の吹雪く音だけが大きく聞こえる。が、それも奥に進むにしたがって小さくなっていく。自分たちの足音がよく聞こえるようになってきたとき、隣のネスが突然立ち止まった。
「ネス?」
 ぼくが尋ねる。ネスは、あごで壁を指し、
「こっちだ」
 ネスの視線の先に目をやると、確かに洞窟の壁に横穴があった。なんでこんな穴に気付かなかったのだろう、と思う。存在感がなさ過ぎて気付かなかったのか、それとも、「分かる者」にしか分からないように、そういう得体のしれない力が働いているのだろうか。
 横穴に入る。中は真っ暗だった。しかし、道の向こうにはぽつんと小さな明かりが見える。
「……向こうかしら?」
「多分」
 ポーラの言葉に、ネスが同意する。半ば確信めいた響きだった。



 暗闇を抜けたとたんに、光が飛び込んでくる。ぼくらは手で目を覆い、少しずつ目を開けながら、周りの様子をおぼろげに確認する。
 外に出ていた。高い断壁に周囲をかこまれた、あきらかに奇妙な地形だった。まるで何かの部屋のようだ。雲ひとつない、真っ青な空が遠い。
 地面には、うっすらと雪が積もっていたが、その下にさらに芝生が生えていることを確認する。植物が生えているのだ。この凍った大地に。
 目線の先、この場所の中心地点と思われる地点には、池があった。――いや、池ではない。ぼくらがその池を凝視してみると、そこは単なる「水の溜まった場所」であるのが分かった。雨が降っているのだ、その地点にだけ。
「雨?」ぼくは目を疑う。「……本当だ、あそこにだけ雨が降ってる」
 呟いてから、そうか、と納得する。ここが『レイニーサークル』なのだ。
 ぼくはネスの方を省みる。ネスはこくりと頷いて、ポケットの中から音の石を取り出して、掲げた。
***
 真っ白い部屋にいた。狭く、簡素なベッドや洗面所なんかがあって、窓はひとつだけあったけれど、それには鉄格子が掛かっていた。ぼくはベッドに腰掛けて、ぼうっと天井を見つめていた。
 あれからどれくらい経ったのだろう? 日付の感覚もおぼろげだ。
心配しなくていいよ。すぐに出られるさ
 隣のアイザックが、笑って言う。
「……うん」
あんなやつ、そもそも生きる価値なんて無かったんだ。こうなった方がもともと君のためだし、それに世のためでもある。君は何も心配しなくていいんだ
「……」
 母さんを侮辱しないでほしい、とぼくは思った。君は母さんのことが嫌いかもしれないけど、ぼくはそんな風に母さんを思っちゃいないのだ。ぼくは母さんのことが好きなのだ。ただ、そこら辺が最近、自分でもよく分からないけれど……。
 ぼくは黙っている。


 外に出る。空はからりとした快晴だった。中からはよく分からなかったけれども、あらためて外観を観察してみれば、今までいた場所は、中の壁と同じく真っ白い殺風景な建物に見えた。ぼくは、病院か何かなのかな、とぼんやりと思った。門を出て、雪の積もった道を、ざく、ざく、と踏みしめながら歩く。
 右には父さんがいる。
「元気だったか?」
「うん」
「……そうか、それはよかった」
 父さんは言って、ぼくの手を引く。父さんは、以前見たときよりもだいぶ痩せているようだった。髪の毛の中にもちらちらと、白いものが見えた。ぼくは父さんの大きな手を見る。それから父さんの顔を見上げる。
「ねぇ」
「ん?」
「……お母さんは?」
 聞いてはいけないことなのだろうな、と子供ごころに薄々と気付いていた。それでも、聞かないわけにはいかなかったのだ。
 ぼくの言葉に、父さんは表情を失って、それからぼくの顔を見た。
「お母さんはどうなったの?」
「……ジェフ」
「もういないの?」
 父さんは言葉を失い、それから首を振る。なんてぼくは酷いことを聞いてしまったんだろう、とぼくは思った。ぼくは父さんのそんな顔を見るために、そんな事を聞いたんじゃなかったのだ。
「――母さんは、母さんはな……」
 そのあと、父さんはなんと言ったのだろう。覚えていない。


 それから、ぼくはたくさん勉強をして、スノーウッド学園に入学することになった。
 ぼくは父さんから逃げたかったのかもしれない。勉強というルーティン・ワークに逃げることで、いま自分の生きている現実を忘れたかったのかもしれない。逃げていたのは、ぼくの方だったのかも知れない。
 スノーウッド学園に入る、という理由の中には、寄宿舎という閉鎖的な空間にとじこもって、そこで何もかも忘れて生きていたい、という願望も、確かにあったのだろうと思う。その辺りもまたおぼろげなままだ。たぶん当時は、そんなことを考えながらやっていたというわけではないのだ。でも心のどこかで、無意識にそういう思いが働いていたんじゃないだろうか。きっと学園を卒業したあとも、父さんの目の届かないところに逃げて、ずっと生きていくのを願ったのかも知れない。
 よくわからない。じつはそんなのは只のつくり話で、ぼくは勝手にそれに納得して生きていこうとしているのかもしれない。本当のところはぼくにだって分からない。誰にも分からないのだ。
 寄宿舎に入る前、最後に父さんに会ったとき、父さんの髪はすっかり真っ白になり、顔にところどころ疲れから出来た皺があった。背もどこかしら縮んでいるような気がした。
 そしてぼくは、この人になんて酷いことをしてしまったんだろう、とぼんやりと思った。

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