「ふむ……」
 ぼくたちの、ここに来るまでの経緯をひととおり聞き終わったあとで、博士は自分の鼻の下のふさふさとした白いひげを弄りながら、判ったのか判っていないのかよく分からない調子で頷いた。
「ふむふむ、わかった。私はスカイウォーカーを改造しておくことにしよう。……それと、君たちの話を聞いていて、少し気になったことがあったのだが」
「気になったこと?」
「ああ。……君たちは、その、ギーグとやらを倒すために『自分の場所』を探しているのだろう? 実は、この近くにも君たちが言うのと似たような場所があるんだ」
 聞いて、ぼくらはそろって顔を見合わせる。
「ストーンヘンジの北の洞窟だ。あそこは私も前から気になっていたんだ。……地元の人は『レイニーサークル』と呼んで、近寄らないんだが、果たして何があるのか、私にも分からない」
 ストーンヘンジの北、と聞いて、ぼくは最初にこの研究所にたどり着いたときのことを思いだす。ぼくはそこを通らなかったんだろうか? ……よく覚えていない。通っていれば確かに覚えているはずなのだが――いや、たしかあのときは、ブリックロードさんの「低予算ダンジョン」を通り抜けて、そう、あのときは、本当に眠くて眠くてたまらなかったのだ。
「ちょっと行って、確かめてくるといいだろう。君たちが帰ってくるころには、もうスカイウォーカーの改造は終わっているはずだ」
 父さんは続ける。「そんなに早く?」と、ポーラが目を丸くした。
「あぁ。ジェフは応急処置をしたと言ったが、あれでなかなか、大体の修繕は終わっていたのだよ。いちばん大事な部分は無事だったようだし。……その格好じゃ外は寒いだろう。玄関にコートがあるから、それを着ていきなさい。じゃあ私は調整に取り掛かるとしよう」
 ぼくらは「はい」と頷き、席を立つ。博士の方もゆっくりとした動作で重い腰を上げ、スカイウォーカーのところに戻っていった。
 広いホールを出て、ぼくらは薄暗い廊下を通りぬける。無機質な壁に目をやり、やはり以前となにも変わりのないままだと思う。長い道をしばらく歩き、やがて玄関のドアに差し掛かったところで、隣のネスがぼくに話しかけてきた。
「なんかジェフの父さんって、変な人だよな」
「そう?」
「そうだよ。なんかゆっくりしてるっていうか、マイペースっていうか、……うーん、自分の世界を持ってるって感じがする。そこら辺はジェフと似てるなぁ」
 似てる? 博士が、ぼくと?
 ぼくが怪訝な顔をすると、後ろのポーラも話を合わせ、にっこりと頷いた。
「あぁ、そういわれれば確かにそうね。じっと考え込む仕草とか、ジェフにそっくりだもの」
 言われて、少し考える。そんなこと感じたことすらなかった。ぼくと博士が似ている? ……そうなのだろうか。ぼくにしてみれば、ぼくと博士は対極の性格、とまではいかないけれども、「あぁ、この人とぼくは違う存在なのだ」と何度か思ったくらいだった。しかし、ぼくと博士が似ていると言われたのは初めてのことだ。いや、まぁ、ぼくと博士の両方に出くわした人間というのはそういないのだが……。というか、この2人が初めてかもしれない。
 じゃあ他の人たちも、ぼくと博士を見たらそう言うのだろうか。寄宿舎の人々や、ぼくを知っているさまざまな人たちも、そういうのだろうか。たとえばトニーやガウス先輩なんかが。
 博士。
 いや、父さん――。



「ネス」
 ぼくは、立ち止まる。
「ちょっと、忘れ物しちゃった。先行っててくれないか」
「え?」ネスも立ち止まる。「先、って。道分かんないよ」
「大丈夫、分かれ道はないはずだから、迷いはしないよ。なんなら玄関で待っててくれてもいいし」
「ふーん。じゃ、まあ先に行ってるよ」
「すぐ行くから」
 ぼくは頷き、ネスとポーラと別れる。ぼくはもう一度道を引き返す。
 かつ、かつ、と、自分の革靴の音が響いていた。
 博士は、ぼくのことをどう思っているのだろう? 分からない。あのそぶりではぼくには判断しようもない。でも、何も感じていないということは決してないはずだ。博士は、ぼくに対して一体どんな感情を抱いているのだろう?
 ドアを開け、再び真っ白な部屋に戻る。博士は言ったとおりに、スカイウォーカーにコンピュータの配線をつなぎ、先程はなかった(どこからか引っ張り出してきたのか分からない)デスクトップ・コンピュータに向かって何かを打ち込んでいた。おおかた博士のことだから、この真っ白い壁をトンとひと叩きすれば何でも出てくる、みたいな仕組みにでもなっているのかもしれない。
「ジェフか」
 振り向いてもいないのに博士に言われ、ビクリとする。どうして分かったのだろう、と思い、ディスプレイにでも映っているのかもしれないと考え直す。博士はキーボードの手を休め、パソコンラック脇に置いてあったコーヒー・カップを手に取って、しばらくなにか虚空に向かって考えた後、またそれを置いた。話題に窮しているのかもしれない。小さな背中が、ひどく淋しかった。
「博士」
 ぼくは口を開く。博士は何も言わない。
「ぼくは、酷いことをしました」
「……ジェフ?」
「ぼくは、本当に取り返しのつかないことをしてしまいました」
「……」
「謝って、許されるようなことだとは思っていません。それで罪が償われるとは、思っていません。でも、ぼくが取り返しのつかないことをしてしまったというのは事実で……だから、その、だからこそせめて、ひとこと謝りたくて……」
 博士は黙る。表情のない顔で、ちらり、とこちらを見た。
「……思い出したのか?」
「はい」
「――そうか」
 博士はそれだけ言って、それから目の前のカップを再び手に取り、湯気の立っていないコーヒーを静かにすすった。……それだけ? それだけなのか? 博士は、ぼくに対して「そうか」という感想しか持ち合わせていないのか?
「博士は、ぼくが記憶を失ってたことを知ってたんですね」
「ああ」博士は静かに頷く。「ジェフは……どこまで思い出したんだ」
「全部とはいきませんが、だいたいの輪郭くらいなら」
「そうか」
 博士はまた静かに相槌を打ち、それから背もたれのある回転椅子でくるりと回って、こちらに向き直った。深く刻まれた皺の向こう、曇った眼鏡の奥の、優しい瞳がこちらをじっと見ていた。
「――私は、」
 しばらく間をおいたあと、博士は静かに口を開いた。
「私は、お前に対して、未だにどう接すれば良いのか分からないのだよ」
「……」
「正直、まだ実感がわいていないと言うか、……ハハ、妙なものだな。あれから5年は経ったというのに、実感がわかない、とは」
 博士は少しだけ笑う。自嘲的な笑みだった。博士がぼくに向かって「お前」と呼んだことに、少し驚く。
「ときどき昔のことを思い出すよ。母さんのことだとか、お前が生まれてからのことだとか……。自分のやってきたたことは果たして、間違っていたのか、そうでなかったのか、今でもよく分からない。今までのことを振り返ることで、私は、私の人生を相対化したいのかもしれない。いや、ただ自分を正当化したいだけなのかもしれないが」
「……」
「お前に対しては、何故だか知らないが、何の感情も沸いてこないんだ。悲しみも、怒りも。あるのは、ただ戸惑いだけだ。そうだな、人間的な感情のようなものは、あれが死んだときに全部、どこかに置いてきてしまったのかもな」
 母さんのことを「あれ」と、親しみを込めて言う。
 そうか、この人は今、「博士」とはまったく別の人間になっているのだ、と思う。母さんに対して「夫」であり、ぼくに対して「父」である、ひとりの人間に。博士は、ぼくの前で、いま初めて自分の奥底に封じ込めていた気持ちを開きつつあるのだ。
 ぼくは口を開き、何か言葉が喉から出てきそうになる。
「と、とう……」
 しかし、寸前で、頭の奥になにかどす黒い、ぼくが吐き出そうとするものとは明らかに違う何かが、急にあふれ出てくるのを感じた。
クククククク……』
「!!!」
 聞き覚えのある声。やめろ、ここで出てくるな!
「ジェフ、どうした」
 はっとする。博士が、ぼくを心配そうに見つめていた。
「どうした。どこか、気分が悪いのか?」
「いえ、その」
 ぼくは言いよどむ。なぜだ、なぜぼくが、他人に甘えてもいいのかと思うたび、君はぼくの中から姿を現そうとしてくるんだ。なぜことあるごとに、ぼくの邪魔をするんだ。なぜだ?
「……博士は、」
「ん?」
「つまり、博士はもう、ぼくに対して何の感情も持ってはいないんですか」
 ぼくの問いかけに、博士はしばし、考えこむようにする。
「いや、分からない。自分の感情が分からないのと、完全に感情を抱いていないのとでは、また少し違う。……分からないよ、私には」
「……」
「ジェフ、お前はもう行きなさい」博士は言う。「ネス君たちが待っているんだろう」
「――はい」
 ぼくは頷いて、震えながらその場から立ち去るようにする。
 そこで、ふと思いとどまって、振り返る。博士は、さっきの状態のまま動かずに、ぼくを静かに見送っていた。
「博士」
「ん?」
「博士。博士は、愛していたんですか?」
「……」
 博士は、ぼくの次の言葉を待っている。
 ぼくは言う。
「母さん、いつも言っていたんです。『お父さんはきっと、私のことなんてもう愛してないんだ』って。事あるごとに、母さんはいっつもぼくにそう言ってて。だからその、よく、分からないんです。……その、なんていったらいいのか分からないけど、その……」
「……」
「博士は、母さんを……いや、母さんとぼくを、愛していたんですか?」
 ぼくは、博士のことをじっと見る。
 博士は少し考えたあと、やがて優しい口調で、
「――愛していたとも。私は、母さんのことも、お前のことも、心の底から愛しているよ」
 そう言って、静かに笑った。

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