10

 この世の中には、一個人で十分解決できる問題と決してそうでないものがあって、ぼくの抱えているこの真黒いうねりのようなものは、見るからに圧倒的に後者の問題だろう。だけどぼくの場合には一つ問題があって、それは、ぼくが他のみんなを関わらせないようにしている、ということだ。ぼくはみんなのことが本当に好きだから、みんなのことをかけがえのない大切な人々だと思っているから、だからあえてそうしない。これはあくまでぼく個人の問題だ。だからこれは、あくまでぼくひとりで解決しなければいけないのだ。それが無理であろうが無理でなかろうが。今までもずっとそうであったように。



 「社長室」と書かれた目立たない表札の扉を開けると、そこは真っ広い絨毯敷きの部屋だった。壁はすべて厳かな金色をしており、ぼくらのちょうど真正面の向こうの壁だけがガラス張りで、そこからフォーサイドの街がすべて見渡せるようになっている。外はにわか雨も止み、雲の隙間からかすかに太陽の光が差し込み始めていた。ふと入り口を振り返ると、扉のすぐそばには大きな熊の剥製がどっしりと立っていた。ぼくは、扉の向こうで待機しているトン・ブラのみんなに軽く挨拶して、扉を閉めた。それから再びくるりと振り返る。
 ぼくらの目線の先、ちょうど真正面の壁際には大きなデスクが置かれていて、デスクの上には「社長・モノモッチ・モノトリー」という名札が置かれているのが見えた。ぼくらがそのデスクに近づいていくと、やがてどこからか、男のすすり泣きのようなものが聞こえてきた。どうやら、そのデスクの裏から聞こえてくるらしい。ぼくらは怪訝に思いながらもデスクの前にたどり着き、ちらりとデスクの裏を覗き込むと、見覚えのある5、60代くらいのおじさんが、机の下にもぐりこんで丸くなりながらぶるぶると震えていた。
「モノトリーさん、ですか?」
「……もう、もういい。やめてくれ!」その男、モノトリーはかすれた声で言った。「私は戦いなんかしない。本当だ!」
「信用できねーな」ネスが怒りの混ざった声で言う。「ポーラはどこにいる? どこに連れてった」
「あの子は……」
「――ネスっ!」
 小鳥のような美しい響きに振り向く。
 ポーラが、手のひらを胸前で組みながら、ぼく達の横に立っていた。
「ネス! やっぱり来てくれたのね」
 ポーラは嬉しそうに笑った。ネスは呆然としていたが、やがて緊張の糸が切れたかのように、
「……ぽ、ポーラっ!!」
「きゃあっ!?」
 ネスがポーラに飛びついて抱きしめる。うわぁ。
「ちょ、ちょっとちょっと、ネスっ!」
「良かった、良かった、ポーラ」ネスは涙声で笑っている。「無事で良かった、本当に……よかった」
「おおげさよ……」
 ポーラが目をつぶって苦笑し、それからネスが腕を解いて向き直ると、ふたりで笑う。ぼくは少したじろきながらも、そんなふたりの様子を暖かく見つめていた。
「本当に無事だった? モノトリーになんか変なことされなかった?」
「わたしは大丈夫」ポーラが微笑む。「きっとあなたが来てくれると思ってた。でも、モノトリーさんは、本当は悪い人じゃないわ。とにかく話を聞いてあげて」
「え?」
 そう言われて、ぼくらはふたたび一斉にモノトリーの方を見る。
 モノトリーはいまだにデスクの下にいた。やがて自分の方に全員の視線が向いたのに気付くと、モノトリーは気まずそうによろよろと立ち上がった。それからぼく達に向けて、訥々と話を始める。
「……この細い腕を見てくれ」モノトリーは震える声で言った。「ほら、うすい胸。頭は白髪で真っ白だ。あの『マニマニの悪魔』がなくなった今では、私になんのパワーもない! ……ポーラをさらったのは悪かった。何の危害もくわえてないし……、ポーラは本当に優しい子だった。ポーラちゃん、いろいろ心配をかけて、本当に申し訳なかったね」
「大丈夫。もうこれからは、『マニマニの悪魔』の言う事になんか耳を貸さないでくださいね」
「……たく、優しすぎるよ、ポーラは」
 ネスは、どこか釈然としないようだった。
「そいつにそんな優しい言葉なんてかけてやる必要ないよ。ポーラはかどわかされた側なんだし……、そんなんだから、ギーグの手下なんかに簡単に誘拐されちゃうんだぜ」
「えっ? それとこれとは話が別でしょ!」ポーラはいかにも心外だ、という様子で言った。「そういうのって失礼だと思うわ。それに、モノトリーさんだって、操られていただけなんだし、ちゃんと反省もしてるわ。これからは協力もしてくれるって約束してくれたし。そうですよね?」
「うむ……」モノトリーは静かに頷いた。「私の知っている事をすべて話そう。いまさら謝罪して済むだろう、とは思ってないけれども、ちょっとでも君たちの力になれるなら……」
「……」
 なだめられ、ネスはしかめっ面をしてからしぶしぶ黙った。



 ぼくたちがはソファーに腰を下ろすと、モノトリーはたどたどしく話を始めた。
「『マニマニの悪魔』は、人に幻を見せる。そして邪悪な心を増し、悪魔のパワーをもたらすのだ」
「悪魔のパワー、って?」
「詳しくはわからない」モノトリーは首を振った。「だが、あの像を私のところに持ってきた例の子どもは、確かにそう言っていた。……事実、私はただの豆腐屋から、何の因果か大企業を取りしまるオーナーにのし上がり、大金を手にした。あの像には確かに何か、得体のしれない妙な力があるんだと私は思う。私はその力が怖くて、ボルヘスの酒場の倉庫にアレを隠して、ときどき拝みに行っていた」
 ていうか、豆腐屋だったのかあんた。
 しかしひとつ間違いないのは、やはり裏で手を引いていたのは、ポーキーだったということだろう。その話によれば、マニマニの悪魔を持ってきたのはポーキー本人らしいし、おそらく例の――ツーソンでのポーラ誘拐騒動で効果を発揮していたという、妙な黄金像と、モノトリーのところに持ちこまれた像は同じものに違いない。
 ポーキーは、ネスの故郷オネットでマニマニの悪魔を見つけてから、そのツーソンのカーペインター氏のところへ行ったのと同じ調子で、モノトリーにも取り入ったのだろう。
「じゃあモノトリーさんも、マニマニの悪魔に魅了されて、ギーグの意のままに操られていた、ってこと?」
「そういうことかもしれない。自覚は無かったが……」モノトリーが口を挟む。「もしポーキー君の言っていたことが本当なら、その、ツーソンにいたカーペインターとかいう人間にもどこか、すべての人を支配したいという気持ち、すべての人間の上に立ちたいという気持ちが、あったのかもしれない。そしてそれが、マニマニの悪魔によって歪んだ形で『再現』され、そのハッピーハッピー教団という架空の宗教団体を作り出したんだと思う……」
 人々の邪悪なる願望を、歪んだ形で再現する機械。それが「マニマニの悪魔」の正体。
 きっとあの「ムーンサイド」とやらも、そうやって作り出されたのだろう。モノトリーの邪悪なる部分が凝縮された街、真夜中の裏の顔が支配する街。……しかし、それならば、ぼくが見たあの「自宅の光景」は、いったい誰の、「邪悪なる部分」だったんだ?
 ぼく?
 ぼくの邪悪なる部分が、反映された世界だったのか?
 だからネスとぼくとでは、最初にたどり着いた場所が異なっていたのか? モノトリーが自分の邪悪なる世界を作りだしたように、ぼくも、そしてネスも、お互いに自分の邪悪なる世界を見たということか? 自分の邪悪なる世界と、誰か別の人間の邪悪なる世界とが、結びつき、行き来できるようになるなんて、そんなことが可能なのか? それも、マニマニの悪魔の効果なのか?
 モノトリーは話を続ける。
「幻の中には謎のような言葉が含まれていて、その中にはネス君、君達の名前もあった。『ネスをお前の手でくいとめろ』とか……、『サマーズへゆかせるな』とか。『ピラミッドを見せるな』……」
 『サマーズ』といえば、このイーグルランドから海を越えていったところにある、南方の列島だ。青い海とサンゴ礁に囲まれた、常夏のリゾート地。ピラミッドは、さらにそこから海を渡り、スカラビという砂漠地方に行けば存在するという。
 っていうか、そんなところにまで行かなければならないのか?
「私にはよくわからんが、君達をサマーズに行かせぬようにしたいらしい。……悪魔の……ギーグとか……も聞こえたが……。悪魔の方は、君達がサマーズに行くと困るらしい。……とすれば逆に、なんとしてもサマーズに向かうべきなのだろう」
「んなこと言っても、そこにいったい何があるって言うんだ……?」
 ネスが首をひねる。
「きっと、例の『自分の場所』っていうのがあるんじゃないかな?」
「……。あぁ、音の石か! すっかり忘れてた!」
 自分の目的を見失うなよ。
「サマーズは、海の向こう。私のヘリコプターを使ってくれ」
 そう言って、モノトリーは立ち上がる。
「ヘリポートを開けよう」
「へ、ヘリがあるんですか!?」
「ああ。ちょっと待っていてくれ」
 モノトリーはそう言うと、ドアの入り口まで歩いていって、さっき入り口前で見た熊の剥製を、ズズズ、と力いっぱい押した。すると、それに従うように、部屋の向かい側の壁が動きだして、隠し扉よろしく音もなく上に開いた。ぼくらは思わず目を丸くする。
「さぁ、付いてきてくれ。案内する」
 モノトリーが手招きする。ぼくらも席を立ってその後に続く。
 その先には、屋上へ向かう狭い階段があった。ぼくたちはモノトリーに連れられて、それを昇っていく。かすかに風を感じる。48階建てビルの屋上だ、風が出ていて当然なのだ。
 階段を上りきり、屋上への扉にたどり着くと、その手前で、モノトリーがこちらに振り返る。
「私は、もう疲れた。君達自身の力できっとなんとかできるだろう。そんな運命をネス君、君は持っているらしい。じゃ、ポーラ。さよなら、気をつけていくんだよ」
「協力してくれてありがとう、モノトリーさん」
「んなこと言わなくていいってポーラ。当然だよ」
 ネスはまた苛立たしげに言った。モノトリーは済まなそうに頷き、
「そうさ。それに、感謝しなければならないのは、私の方だからね。すっかり淀んでしまった私の目を覚まさせてくれた。私は君たちに礼をしてもし足りないぐらいなんだよ。さぁ……!」
 モノトリーは扉を開ける。
 強く吹き付ける風に、目を手のひらで覆う。しばらくして手をどけると、すっかり晴れた青空をバックに、モノトリーのマークの描かれたイエローの豪華なヘリコプターが、ぼくたちの目線の先にあった。
「うわっ、すげぇ! 本物のヘリコプターだ!」
「しかも普通のヘリじゃない。軍隊にも使用されている特注品だ。これなら海も越えられるだろう」
 モノトリーが解説していると、やがてヘリのプロペラが回りだす。ネスが早く乗ろう、とみんなを急かし、好奇心いっぱいにヘリコプターへ走っていく。ぼくは思わず苦笑する。
「おーい、大丈夫だよ。ヘリコプターは逃げないって!」
「だあってさぁ!」
 ネスが、ウキウキしたような顔で振り返る。ぼくとポーラは顔を見合わせ、それから、また笑った。黄色いヘリのプロペラは、ますますその回転の速度を上げている。
 そして、ヘリはぼくらを残し、だんだん浮上し始めた。
「「「えっ?」」」
 ぼくたちはまだ乗っていない。しかし、ヘリコプターはなおもその高度をぐんぐんと上げている。
 どうしたんだ? しばらくの間、思考が停止した。もしかして、何か手違いでもあったのだろうか? ぼく達のことが見えていないのか? というかそもそも、どうしてヘリに事前にパイロットが乗っていたんだ? ぼくはモノトリーの方を振り返る。モノトリーも、何が起こったのか分からないと言った様子で、その場に立ちすくんでいる。
 ふと、ヘリの運転席の窓が開く。
 中から顔を出したのは、ポーキーだった。
「……なっ!?」
へっへーだ!
 ネスの言葉に、ポーキーは心底ゆかいそうに笑った。
「とんま野郎のネス! じたばたしても遅いぜ、バイバイ!」
「何でお前がここに!?」
「なぜって、お前たちの行く手を邪魔するために決まってるだろ!」
 ポーキーはネスの言葉に、してやったり、という顔で答える。
「お人よしに戻っちまったモノトリーじいさんにはもう用はないね。オレ、ヘリコプターに乗れてうれしいぜ! おしりペンペーン! アッカン、ベロベロベー!」
 な、
 何だこの展開は。
 ヘリが本格的に離陸する。その機体は高く高く舞い上がり、やがて風とともに、街の向こうへと去って行く。
 ぼくらは突然の事に対応しきれず、ただその様子を目を丸くしながら見守っている。地平線へと向かうシルエットがだんだんと小さくなり、それからぼんやりと消えて行く。そして、やがて、すべてが静寂に帰したところで、ぼくとネスとポーラは、改めて3人そろって、その場で顔を見合わせた。
――第7部へ続く

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