ぼくの母はイーグルランドにある小さな田舎町の、とある平凡な家に生まれた。もともと頭もよく、勉強もかなり出来た方だったので、彼女は18のときにフォーサイドの頭のいい大学を受験してそこに見事合格した。母が進んだのはその大学の理工学部で、そして、そこに父さんが現れたのだ。
 父さんは変わった学生で、大学に入学した当初からその頭角をぼんやりと表していたと聞いた。幼い頃から機械工学や物理学に没頭し、スノーウッド学園を首席で卒業したあと、フォーサイドの大学に合格してそちらに移り住み、入学してからも大学の偉い教授やどこかの雑誌や学会などに、しょっちゅう論文や研究成果を投稿しまくっていたらしい。
 二人は、同じ学部で同じ教授の同じ講義を受け、さらに下宿さえも同じだった。それぞれどこか惹かれあうものがあったのか、父と母はやがてお互いに興味を持ち始め、どちらからともなく付き合いはじめるようになった。ふたりは大学卒業後に結婚して、母は家庭に入ることになり、父さんの故郷のスノーウッドにこじんまりとした小さな家を構えた。
 ちょうどその頃、父の書いた(後の「インスタント・エナジーマシン」機関の前進となるべき)論文が、学会においてあちこちから評価を受け始め、それから、間もなくして彼によってそのマシンがついに完成されると、そこから入った収入により、彼らの生活はぐっと豊かになった。その収入によって彼専用の研究所が建てられ、一躍有名になった父さんは、各地の大学などの講義にしばらく引っ張りだこになった。ぼくが生まれたのもその頃だ。  父さんは家をたびたび空けるようになり、めったに帰らないようになった。母はひとりきりでまだ赤ん坊だったぼくと対面し、毎日食事を与え、おしめを替え、夜鳴きが止むまであやし続けた。その「母とぼくがふたりきり」という状態は、ぼくが4〜5歳になるまで悲しいことにずっとずっと続いた。



 おそらく、その辺りから家庭のシステムというものが崩壊してきていたんだと思う。家庭というのは、それを構成するメンバーが、各々のストレスを持ち帰る場所であり、人間にとってのいわば休息所であるらしい。そして、そういうストレスを処理する仕組みが家庭には備わっているというのだが、たまたまうちの家庭は、父さんの不在という現象によって、それがうまく機能しなかったのだ。
 母さんは自らの感情の行き場を失ってしまい、それを「子供に向ける」という以外に、それを出力する場を見つけられなくなってしまった。それほどまでに母さんは追い詰められていたのだ、きっと。
 いつも母さんが怒って暴力をふるうとき、ぼくの魂はいつも自分の「身体を離れて」、幽霊のように天井に浮かび上がった。そうとしか形容できないのだ。気が付くと、ぼくは背中が部屋の天井にくっつくぐらいのところまでふわふわと浮かんでおり、その真下で母さんに叩かれたり、殴られたり物を投げられたりしているもう一人のぼくを見つめているのだ。不思議な光景だった。
 彼のイメージは紅い瞳に銀髪の同い年くらいの少年だった。彼はいつも暗い部屋にいて、いつもぼくに向かって微笑んでいるのだ。
「いつもごめんね」
 ぼくは彼に会うたびにそう言った。自分の代わりに罰を受けてもらっている、という罪悪感が心のどこかにあったからだ。すると彼は決まって、嬉しそうにくすくすと笑った。
「何か、ぼく変なこと言った?」とぼくは聞いた。
「ううん、違うよ」彼は首を振る。「君は優しい子だね」
「そうかなぁ」ぼくは照れた。「でも、いっつも代わりに痛いことされて……、嫌だろ?」
「いいんだよ、そんなの」
 彼は優しく微笑む。
「いいの?」
「いいさ。だって僕ら、親友だろ?」
 彼のその優しい言葉に、ぼくはいつもうれしくなって頷くのだった。



 ぼくと彼はまったく正反対だったと言ってもいい。
 たとえば、ぼくは母のことをとても愛していたが、彼のほうはいつも母のことを殺したいほど憎んでいた。いま思えば、それもやはり裏表のカードだったのだ。ぼくは母さんのことを愛しているのに、母さんは、ぼくのことをちっとも愛してくれない。その事にぼくはいつも強い不安と混乱を感じ、その訳の分からないものをどうにかして処理しようと、ぼくは「もう一人のぼく」を作って、すべてを彼に任せっきりにしていたのだ。
 雨の晩だった。その日はちょうどクリスマスも近く、もうすぐ帰って来る予定の父さんを、ぼくと母さんで今か今かと待っていたのだ。その日は、何が原因は分からないが、母さんとふとしたことで諍いになり、その結果母さんはいつも通り癇癪を起こして、ぼくは泣き叫ぶこともできずにそれに耐え、静かに涙を流しながら開放され、部屋に戻ってきたのだった。母さんは、容赦がなかった。ぼくが分かったと言うまで何もかも徹底的にやった。ぼくは、いい加減つかれていたので、帰ってくるなりそのままベッドに倒れて、寝てしまった。
 目を覚ますと布団の上だった。ぼくは何をするでもなく、仰向けになって天井をぼうっと見つめた。そのうちにぼくはさっき起こった諍いについて考えていた。どうして母さんはあんなことするのだろう、と、その疑問がぼくの心に理不尽な悲しみとなって、ずっと渦まいていた。
『怒ってるのかい?』と彼が聞いた。
「そんなことないよ」
『じゃあ、悲しいのかい?』
「……」 『じゃあ、怖い?』  ぼくは弱々しくうなずいた。怖かったのだ。
『このままじゃ君、殺されちゃうよ。母さんにさ。そうかもしれないって薄々思ってるだろう。どうにかしたいって思わないかい?』
 どうにかって言われても、でもどうしていいかわからないよ。
『安心しなよ。全部僕に任せておけばいい。今までだってずっとそうやってきたんだから。母さんのこと、憎いかい?』
「……」
『殺すしかないよ』


 たまたま、ぼくの気が弱かったのがいけなかったのだ。そのせいで冷静な判断をするのをぼくは忘れていた。ぼくは母さんを失いたいなんて本当はこれっぽっちも思っちゃいなかったのだ。ぼくは思わず彼の口車に乗せられてしまったのだ。
 主導権が入れ替わる。ぼくはいつの間にか、天井から自分の動く様子を呆然と見つめている。
 「ぼく」がベッドから体を起こす。その「ぼく」はニヤリと笑うと、やがてぼくに背を向けて、静かに部屋を出ていった。

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