病院内は無人だった。患者の病室にもナースステーションにもロビーにも、ましてや医師の診察室にさえ誰もいやしなかった。それなのに機械や電気だけは何故か当たり前のように機能しており、また人々の生活していた痕跡も残っていたので、まるで人間達だけが突然どこかに消えてしまったかのような錯覚に囚われた。いや、案外その通りなのかもしれない。
 自動ドアをくぐって外に出ると、空は暗く、真夜中だった。いつの間にそんな時間になってしまったんだろう、と思う。ぼくは病院の駐車場を通り過ぎ、街の大通りの方へと早く戻ることにした。
 ぼくがいた病院は、外見から見るとフォーサイドの州立総合病院に隅から隅までそっくりだった。ぼくたちがモノトリーについての情報を集めに街中や郊外を歩き回っていたとき、何度もこの目で見たのだから間違いはない。つまり、この街はフォーサイドだとみて十中八九間違いはない、……はずなのだが、病院の前の玄関に書かれていたのは、フォーサイドではなく「ムーンサイド州立総合病院」だった。
 病院の中身もどこかおかしかった。フォーサイドのこの病院は今まで2階ほど足を運んだが、はじめに瞬間移動してきた、あの「ぼくの夢を再現したような廊下」はあの病院にはなかったはずだ。病院なんて各階それぞれが似たような構造なのだし、そんな場所があったとしたら訪れた段階で気付いていたはずだ。
 ぼくの家で目撃した例の少年の、あの言葉を思い出す。
『――教えてあげる。ここは、ムーンサイドだよ』
 何処だよそれ。
 病院内にはネスはいなかった。いや、もしかしたらいたのかもしれないが、さすがに病院の全室を調べ上げる余裕はなかった。それに、ネスは一箇所に留まってブルブル震えて助けを待つようなパッシブな奴ではないはずだ。だから、探すとしたら街中か、そうでなければあの酒場にいるに違いない。
 やっと大通りに辿りついて、驚愕した。昼にはあれほど人が溢れ、夜にも勢いの衰えることがなかったあのメインストリートには人の影も形もなかった。ビル街の建物の広告プレートや店の看板などのネオンは、人間のいるいないに関わらず、まるでキチガイみたいに不気味に光り輝いている。生ける屍みたいな状態だ。
「ジェフーっ!!」
 ぼくが、街のあまりの変貌に呆然としていると、後ろから声がした。懐かしい声に振り向くと、なにやら必死の形相でネスが誰もいない大通りの向こうからこちらへ走ってきた。ぼくの元へとやってくると、一旦ひざに手を付いて荒れた息を静めた。
「ネス、無事だったかい!?」
「あああ、ジェフ、やっといた!」ネスはぼくの肩を掴み、安堵の声をもらした。「良かった、本当にもう会えないんじゃないかと思ってた、怖かった……」
「怖かった?」
「うん、なんていうか、ここ生理的にダメだオレ」とネスは呻いた。「なんか変なのもうようよいるしさぁ……、もう嫌だよこんなの」
 どうやら本当に嫌な思いをしたらしい。確かに、正直ぼくの方もかなり気が滅入ってきていたところだった。しかし、
「……うようよ、いたの? ぼくのいた病院は無人だったけど」
 自宅でのできごとは黙っていることにした。特に言わない理由もなかったが、なにやら心のどこかに何か不安感のような、嫌な予感がしたからだ。
「うん。俺が気が付いたのは、ボルヘスの酒場だったんだけど」ネスが言う。ボルヘスの酒場自体は普通に存在するらしい。「お客の人もフォーサイドのときと同じ感じだっただけどさ、どこか頭がおかしいっていうか、会話がかみ合わないんだよ。街の人もどことなくみんな変だしさぁ、あーもうダメだ、早く帰ろ」
「街の人が、いたのか」
 ネスの場合とぼくの場合は、やはりどこか相違点があるらしかった。それはどういうことなんだ? マニマニの悪魔の効果というのは人間それぞれによって異なる、ということ? それは一体どういう意味なのか?
「……ていうか、帰るってどうやって?」
「わかんねー。ボルヘスの酒場でもう一回調べたけど、ダメだった。あんな像どこにもなくなってたよ。これもギーグの仕業なのかな」
「多分」ぼくは頷く。それくらいしか考えうる原因が思いつかない。「……やっぱり、この事件はモノトリーがすべての鍵を握ってる、と見て間違いないと思うんだ。だから、ほかに出口として考えられるとしたら、あのモノトリービルくらいだと思うな。仮にも、自分の住処なわけだし」
「そっか、そういわれればそうだよな」
 ぼくらは顔を見合わせ、それから振り向いて遥かにそびえるモノトリー・ビルを眺める。その頂上のヘリポートの四隅から天へと伸びる4本の避雷針が、夜闇に怪しく輝いていた。




 モノモッチ・モノトリーの本社ビルには以前にも行ったことがあったので、道には迷わなかった。ネスの幼馴染とかいうポーキーという奴に会った場所でもあり、イメージは強かったのだ。さっきと同様に、すれ違う人や車の行き交いなんかもまったくない。ぼくらは人通りのない真夜中の道路の真ん中を、歩行者天国よろしく好き勝手に走った。
 ビルは、大通りを道どおりにまっすぐ行った先の、大きな交差点広場の真ん前に建てられていた。そして、4つの道路と4つの横断歩道の重なる中心地点、つまり道路の真ん中に、どこかで見たことのある像が違和感バリバリに立っていた。
 例の、マニマニの悪魔の黄金像だ。
 ただし、大きさはカウンターの中に見た物とは明らかに違う。こちらのほうが何十倍もでかい。推定2,3m近くはありそうな大掛かりな像だ。あれがおそらく『マニマニの悪魔』なのだろう。
 像の前には、ぼくたちの知らない5、60代くらいの男性が、跪いて何かを必死そうに祈っていた。
「――あいつがモノトリーなのか?」
 ネスが呟く。と、その男性はビクリと身を震わせてこちらを振り向いた。オドオドした表情の、気の弱そうな普通のおじさんだった。何だか拍子抜けしてしまった。ぼくたちを見たおじさんの顔が、みるみるうちに真っ青になっていく。
「モノトリーさん、ですよね?」
「付きまとうな!」
 ぼくの言葉をさえぎって、そのおじさんが言う。
「わ……、私はモノトリーなんかじゃない!」
「そんなの、そうだって言ってるようなもんじゃないですか」
「ポーラを何処へやった!」
 ネスが叫ぶ。そのおじさん……いや、モノトリーは「う、うるさい!」と、明らかに怯えながら答え、すがるように後ろの「マニマニの悪魔」にしがみ付いた。すると、マニマニの悪魔の本体から、次第に怪しげな紫色の光が放たれ始める。「なんだ?」とネスが言った。

『……クククククク……』

 聞き覚えのある笑い声に、背筋が凍る。
 振り返ると、大通りの真ん中にいつの間にかアイザックが立っていた。
「お、お前!?」
「やぁ、やっと辿り着いたんだね。遅かったじゃないか」
「ジェフ、どうしたの?」
 隣のネスが、怪訝そうにぼくに尋ねる。
「え、いや、あいつだよ。あいつ――」
「誰と話してんの?」
「へ?」
 もう一度像の方を振り返る。モノトリーも呆然とした顔つきでぼくを見ており、アイザックだけが何が可笑しいのかニヤニヤと笑っている。
「……どういうことだ」
「さぁ? 一体どういうことだろうねぇ、ジェフ」
 アイザックは死神のような笑みを浮かべながら、ぼくの方に近づいてくる。近寄るな、と言おうとして声が出なくなっていることに気付く。逃げようとしても足が動かない。見ると、足が泥に埋まるように、道路の中に埋没していた。
「――!!!!!」
 ネスの方を見る。周りの景色がどんどん歪んで闇に消えて行く。ネスの姿が見えなくなり、ぼくの目の前にはアイザックだけが、銀の髪と黒いコートをなびかせて立っている。
 そしてハッとする。いちばん最初の自宅で見た、あの謎の言葉を残したパジャマの少年が、アイザックの顔に酷似していることに気付く。
「……まさかお前、そうか、あの時の、」
「それだけじゃないさ」
「何だって?」
 アイザックが、靴音を響かせてどんどんこちらに近づいてくる。
「はっきりしろ。どういう意味だ、それ」
「ハハハ。じゃあ単刀直入に言おうか。『自分の顔も忘れてしまったのかい?』」
「――は?」
 アイザックは胸ポケットからメガネを取り出す。
「な、」
 メガネをかけると、髪を両手で掻きあげる。フワリと銀の髪が揺れる。
 その顔は、ぼくと全く同じだった。その銀の髪と紅い眼を除いて。
 どういうことだ?
 一体どういうことだ?
「僕は君だよ」
 アイザックが言う。お互いの顔と顔が、ほんの目と鼻の先まで近づく。アイザックは自分の唇を舐める。舌なめずりだ。
「僕は、君の生み出した幻影。もう一人の人格さ。君は単に幻覚を見てたんだよ」
「なんだ、そりゃ」
 納得いかない。
 じゃあ何で、こいつがいつも現れるとき、ぼくに誰も、何も言ってくれなかったんだ?
「……じゃあそれなら聞くけど、」アイザックが答える。「僕がいつも現れたとき、君の周りには誰か人がいた? もしくは君が誰かにぼくの事を言った?」
 思い出す。違う、まさかそんなことはない。ぼくに限ってそんな、
「だろ? 僕の姿を本当に見た人なんて、君以外にいないじゃないか。それにさっき、ネスにはぼくの姿が見えなかった。モノトリーにも見えなかった。今までは、君が1人になっているとき以外にはぼくの姿が見えないように、頭が勝手に働いて、無意識のうちに幻覚の派生を制限してたけど、ここではマニマニの力が働いてるからその歯止めがなくなったんだ」
 どこかでそんな言葉を聞いたような気がする。デジャヴュだ。
 どこで? どこで聞いた?
「君は幻覚を見てるんだよ。只の精神異常者さ。君は幼い頃、『自分の今いる現実』から逃避するために、自分の中にもう一人の人格を作り出すことに成功したんだ」
 意味が分からない。話が突拍子過ぎる。
 じゃあ、母さんはどうして死んだんだ? こいつが母さんを殺した犯人じゃなかったのか? 本当は誰が母さんを殺したんだ?
「言っただろう。僕は君だ、って」
 アイザックが隣でささやく。聞くことを脳が拒否している。
「思い出せ」
 思い出すな。
 頭がフラッシュバックする。
 ぼくは血だらけで、震える手の中にはナイフが握られている。そして足元を見ると、床に倒れこんだ母さんが目に入る。身体から血を流し、フローリングのきれいな床がどくどくと見る間に血で汚れていく。血の池の中にぼくの顔が映る。ぼくの顔は、心底可笑しそうにぐにゃりと歪んでいた。

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