目が覚めると、フローリングの床に寝転がされていた。
 自分が今置かれている状況が判明するまで、だいぶ時間が掛かった。身体を起こし、自分がいるその小さな部屋の中をぐるりと見まわす。クリーム色の壁紙、ブラウンのカーテンが掛かった窓。窓の外からは雨の音がする。そばの壁際に置かれた大きなおもちゃ箱、12月のカレンダー、タンス、ベッド、本棚。それから真新しい机。この場所には見覚えがあった。
 ぼくの部屋だ。小さいころのぼくの部屋。
 息を呑んだ。そう、ここは母さんが死んで父さんが研究所に引きこもるまで、家族みんなで暮らしていたぼくの家だったのだ。どうしてぼくがこんなところにいるんだろう。ぼくはさっきまで、ボルヘスの酒場に突入してカウンターの中を調べていたはずだ。頭が混乱している。とりあえずその場で立ち上がろうとすると、自分の手にとんでもないものを見る。ぼくの手に、血塗られたナイフが握られていた
「うわっ!?」
 反射的に、同じく血に染まって真っ赤な手を放してしまった。ナイフは音を立てて床に転げ落ちた。それからまた部屋の中に静寂が戻る。外の雨がやけに大きく聞こえる。
 驚いてテンポの上がってしまった心臓を落ち着かせると、改めて落ちたナイフを拾った。まじまじと観察すると、ナイフに付いている血がライトに反射されて、ぬらぬらと不気味に光っていた。ぼくの手もだ。何の血だこれ、と思う。自分の身体を眺めるが、特に外傷はない。まるっきり健康体だ。じゃあ、これは何が何を、誰が誰を傷つけたときのナイフなのだろう。相手は人間なのかそうではないのか、その相手は今どうなっているのか? そもそもこれは何か、ぼくの手に血が付いているということは、この「ぼく」が何か、誰かを傷つけたということか?
 というか、今自分の置かれているこの状況はなんだ? 一体いつから、どうしてこんなことに? これも件の、「マニマニの悪魔」の効果なのだろうか。ぼくがあの小さな黄金像に触れてしまったから、こんなことに?
 出口はどこだ、と、くるりと振り返ると、ちょうど廊下に出るためのドアがあった。覚えていた通りだ。近づいてドアノブに手を掛け、ひねって静かに扉を開ける。隙間からそっと外を覗き込むと、外に続く廊下は暗かった。両脇にはまた違う部屋へと続く扉があり、目の前には下へと降りる階段が続いている。
 そしてその床に、点々と、血の跡が階段の下まで続いていた。
 下の階は明るかった。誰かいるのだろうか、という思いが頭を掠める。再び心臓の鼓動が早くなる。この血痕は一体どこまで続いているのだろう。この先には一体何があるのだろう。ぼくは両脇の部屋の扉は後にして、階段を静かに下りていくことにした。
 段を1つ踏むたびに、階段はギシリ、ギシリと不気味な音を立てる。階段を下り終えると、左には玄関、右の廊下はリビングへと続いているようだった。血痕は階段を下りて右に曲がり、リビングの扉の方に伸びていく。ぼくはその先を凝視する。リビングへのドアの磨りガラスからは淡い明かりが漏れているのが分かる。
 突然、リビングの奥から子供の泣き声が聞こえてきた。ぼくはビクリと身体を震わせる。泣き声は止まらず、張り裂けんばかりに廊下にまで聞こえてくる。そしてしばらくすると、それに混じって見知らぬ女性の金切り声が耳の中に入ってくる。
『……やめて! やめて、ねぇ、どうして泣くの!? どうして泣き止んでくれないの!? ねぇお願いよ、泣き止んでったら……!』
 ぼくはゾッとしながらその声をずっと聞いている。子供の泣き声は止まらない。ガシャン、と何かが割れた音がした。その音に震える。子供の声がさらに大きくなる。
『やめてよ、やめてって言ってるでしょ!』ガン!と、何かを壁にぶつける物音。『だからどうしてよ! 私こんなに疲れているのよ、ねぇ分かるでしょ、分かってよ! これ以上私を困らせてどうしようって言うの! ねぇ、ちょっと何よ、……何よその顔は!』ガン! また物音。子供の泣き声は息つく暇がない。『どうせあなただって、私のことを嘲ってるんでしょ、こうやって困ってる私の顔を見て喜んでるんだわ! ……あの人だって、あちこち飛び回って全然家に帰ってこないし、きっと私のことなんてもう愛してないのよ……だから、だからその顔をやめてっていってるでしょ!?』ガシャン、とまた何か割れる。『やめなさい、やめなさいその目は! やめて、やめてお願いだから……、やめて……』
 女性の声に、すすり泣きが混じり始める。泣き疲れたのか、子供の泣き声の方はだんだん小さくなっていった。
『……ごめん、ごめんね、……違うの、こんなことするつもりじゃ……、なかったの、ごめんね、ごめん……。痛かったでしょ、痛かったでしょ……ごめんね……』
「――やめろ!!」
 ぼくはその場にへたりと膝をつき、耳をふさぎ頭を抱えてうずくまる。身体が恐怖で震えている。……恐怖? そうだ、ぼくは何かに怯えている。この言いようのない、言い知れない恐怖に怯えている。
「どうしたの?」
 突然呼びかけられ、ビクンと身体が跳ね上がった。
 顔を上げると、目の前に幼い男の子が立っていた。金髪が短く切りそろえられ、青いパジャマを着ており、ぼくの様子を不思議そうに眺めている。
「どうしたの?」
「……」
 ぼくは答えない。少年の顔はどこかしら見覚えがあったが、思い出せなかった。
「だ、誰だい? 君は」
「……」
 少年は黙りこむ。
「あ、あのさぁ。一体ここはどこなんだ?」
「……」
「ねぇ、君なら知ってるんだろ。教えてくれよ、どうか」
「知らないの?」
 少年は無表情に言う。
「――教えてあげる。ここは、ムーンサイドだよ」
 少年はニヤリと笑う。彼の顔がいびつに歪んだ。




 瞬きをすると、その一瞬で目の前の景色が変わった。そこは、真っ白で無機質なひんやりとしたどこかの施設の廊下だった。
「は?」
 目を疑う。リノリウムの床は20mほど先までずっと続いている。一方の壁には扉が一定間隔で続いている。もう一方の壁は窓が同じく一定間隔であり、夜の雨が外からしとしとと打ち付けている。
 なんだこれは。ぼくは夢でも見ていたのか?
 この場面にも見覚えがあった。そういえば、少し前にこの光景を夢で見た気がする。ぼくは小さい少年で、この廊下をなんとも言えぬ焦燥感に終われ、懸命に走っていたのだ。そうだ、ここは病院だ。病院の廊下だ。ぼくの通っていた病院の廊下。
 ぼくの通っていた?
 そうだ、思い出した。ぼくは病院に通っていたのだ。今思いだした。一体どうして……わからない。思い出そうとすると、頭がズキズキと痛んだ。ぼくは痛むこめかみを押さえ、廊下の先を睨む。廊下は角で折れて、さらに先まで伸びているようだ。
 そうか、と思う。あの時夢で見た光景と、今のこの場所はまったく同じ風景だ。じゃあなんだ、ぼくはずっと「夢の続き」を見ているのか?
 分からない。何もかもが分からない。
 震える足を一歩一歩踏み出す。ぼくはこの空間から一秒でも早く抜け出そうと、出口を探しに人の気配のない廊下を走り出した。

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