ボルヘスの酒場は、人通りの多いメインストリートの道脇の、ともすれば思わず見逃してしまいそうな薄暗い横路地を通り抜けて、しばらく行ったところにある。パイプを壁中に張り巡らせた建物が並ぶ、狭い薄汚れた裏通りの一角に、「BAR・Borges」という看板がかかっている小さい酒場を見つけた。扉の前には「未成年者お断り」の張り紙が貼ってある。店の前に立つ電信柱の傍には、ホームレスみたいな格好の泥酔した親父が、身体を丸めてぐったりと眠っている。その脇をこっそりと通り過ぎながら、ぼく達はその建物に恐る恐る足を踏み入れた。



 ドアのベルが軽やかな音を立てて鳴る。
 バーに入ると、中はタバコの煙で充満していた。建物自体は手狭で、男達がカウンターや数個あるテーブルに腰掛け、静かにひしめき合っていた。天井ではプロペラのようなファンがゆっくりと回転し、吊り下げられた淡いオレンジの蛍光灯がぼんやりとくすんで見えた。どこからか静かにジャズが流れてくる。ぼくとネスは互いに視線を交わす。こういう場にはぼくたち子供はちっともなじまなかった。
「あーらいらっしゃい。……おや? なんだいあんたら!」
 店内でウェイターのかわりをやっていた店のおかみさんが、ずかずかとこっちにやってくる。年のわりにギラギラとした宝石類を体にまとい、ラメの入った紫色のドレスを着て、厚化粧のおかげで顔はまっしろだったが目だけは妙にパッチリしていた。
「あんたら子供だろ。酒なんて飲めないくせにウロチョロするんじゃないよ」おかみさんはぼくらの首根っこをつかみ、外へ連れ出そうとする。「ウチは、金の払えない客以外はお断りなんだよ。さぁ出てっとくれ、接客の邪魔!」
「あっ、あのっ!」ネスが叫ぶ。「俺たちモノトリーさんに会いたいんだ! 来てるんだろ?」
「え? モノトリーさんが? 人間違いだよ!」
 ぼくらはバーの外へ連れ出された。ようやく首をつかんでいた手が離れたと思ったら、おかみさんはさっさと店の中に入っていき、ドアを完全に閉じる前にひょっこりとそこから顔を出して、
「もう2度と来るんじゃないよ。あたしは子供が大っ嫌いなんだ。いちいちあんたらに構って子守りなんてしてらんないんだよ。じゃあね」
 捨て台詞のあと、音を立ててバタンと扉が閉められた。
 二人で静かにため息をつく。
「あーあ、ったく、子供扱いすんなっつーの」隣のネスが困り顔でつぶやく。
「うーん。別にモノトリーの本社ビルじゃあるまいし、ここまで完璧に門前払い食うなんて思ってなかったんだけど……」ぼくは納得できずに首をひねった。
「そんなこと言ったって、これからどうするかが肝心だろ」
「そりゃそうだけど」
 仕方なく、ぼくたちはその店の周りをぐるりと一周して、他にどこか中へ入れる場所がないかどうか調べてみることにした。しかし案の定ロクに収穫も無かったので、ぼくとネスはしぶしぶ一度出直すことにした。



 大通りへの細い路地を、二人並んで歩く。
「でも、あそこで聞き込みとかでも出来ないんだったら、そろそろ本当にモノトリーと接触する機会がなくなってくるよね」
「そうだなぁ……」ネスはうめく。「やっぱり、本社にアポとって1ヵ月待つしかないのか」
「それ本気?」
「冗談だよ」
 でも、あながち間違いでもないかもしれないな、とぼくは思う。
「あとはなんだろ、刑事ドラマみたいに張り込み?とか、どうよ」
 ネスはぼくに提案する。
「それが妥当かな……。まぁ、どちらにしろ積極的な行動は起こせないみたいだけどね」
「……いや、別に強行突破してもいいんだけどさ」
「それこそリスクが大きすぎるよ」ぼくはぴしゃりと言い放つ。「目立つ行動起こして、モノトリーから直接手を加えられたら堪ったもんじゃないだからね。あっちには財力があるし、人質もいる。ポーラのこと忘れたわけじゃないだろうね」
「忘れるかよっ!」
 ネスが叫ぶ。心底苦い顔をして、自分の拳をもう一方の手のひらにパチンと当てた。
「……くそ、本当ならもっと、ポーラのことを真剣に考えてるべきだったのに、俺は、俺はポーラを、守れなかった……」
「過ぎたことを悔やんでも仕方ないさ」ぼくはネスをたしなめた。「ひどいことを言うようだけどね……。それに、それは君の責任じゃないよ。大丈夫さ、きっと」
 ネスはぼくの言葉にまだなにか言いたそうだったが、口をむずかしく動かして呻いたあと、やがてむっつりと黙りこんだ。ネスが黙り込んでしまったので、ぼくも喋らずに裏通りを歩いた。



「――ん? どうしたんだろ」
 向こうの表通りが少し騒がしいのに気付いた。なにやらちょっとした人だかりが出来ている。ネスも少し気になったようで、ひょいと首を伸ばして向こう側を覗き込んだ。
 表通りは混雑しており、人ごみでロクに歩けないほどだった。それでもその集団をぬけると、やがてあたりの人々の囁き声が聞こえてきた。
「おお、いやだいやだ。あんな目に会いたくないね。自分じゃなくてよかったよ」
「人が倒れているんだけど、死んでるのかなぁ」
「やぁねぇ、こんな所で死んでるなんて」
「あんまり人相のいい人じゃないわねぇ」
「息はしてるみたいだけど、ただの酔っ払いかなぁ」
 どうやら、道端に人が倒れていて、そこを中心に人だかりが出来ているらしかった。ぼくとネスは顔を見合わせ、不審がりながらも輪の中心に近づいていった。
「ちょ、ちょっと通してください」
「ちゃんと順番に並べよ」ひとつ前の浮浪児っぽい少年が、うざったそうに呟いた。「なんかくれたら場所をゆずってやるけどよ。くれるか?」
「えっ」ぼくはとっさにポケットを探った。偶然、半分くらい消費した板チューインガムが入っていた。
「これでいい?」
「本当にくれるのか? よっしゃ。じゃ、はいっていいよ。」
 浮浪児はホクホクとした表情で、ぼくに道を開けて人ごみを外へと抜けていった。ぼくはその隙間に入り込んで、つま先立ちをして中を覗き込んだ。
 なにやら、ラテン系の髭面をした中年男が道端に倒れている。油の乗ったモジャモジャの長い髪にサングラスをかけ、かぶっていたと思われる小粋な帽子がそこら辺に転がっていた。派手なアロハシャツを黒いズボンの中に入れているせいで突き出た腹がさらに目立っていたが、その腹からはどくどくと赤黒い血が流れていて、シャツに染み込んでいた。
「うわぁ、どうしたんだろう……」
「とっ、トンチキさん!?」
 隣のネスが叫んだ。
 知り合いなの、と聞く暇もなく、ネスはそのトンチキさんという人の元へ駆け寄っていった。身体をゆっくりと起こし、名前を耳元で呼びかけながら、血の出ている箇所をきれいな手で塞ぐ。
「うぁっ!!」痛そうにトンチキさんが呻く。
 ぼくもあわててその傍に駆け寄る。
「トンチキさん、どうしたんだよ! 刺されたの!?」
「……ゼイ、ゼイ……」喉で息をしている。血の出方から言っても、かなりの重症だろう。「………、ネス、ネス……だろ? ……目の前がぼ、ぼやけてよく見えないけど……、お前、ネス……、だよな?」
「そうだよ、ネスだよ!」
 ネスは答える。半分涙目になっているのが分かる。
「お、おれだよ、ツーソンの……、ヌスット広場のトンチキだよ。覚えてるな。世界一のドロボーだよ」
「忘れるはずないだろ! ポーラ探しを手伝ってくれただろ、トン・ブラのみんなだって、助けてくれただろ。忘れるはずないよ……」
 その言葉で、思い出す。
「あ、じゃあ、この人が前言ってた、トンブラの借金を片代わりしてくれた人?」
「そう」ネスは頷いて、涙を片腕で拭う。「どうしたんだよトンチキさん、こんなところで」
 トンチキさんは右手でネスの言葉を制した。それから大きく息を吸って、吐いて、しばらく呼吸を整えてから、ゆっくりひとつひとつしゃべり始めた。
「あの……、ハッピーハッピー村のカーペインターが、おかしなものを……、ゼーゼー、隠し持ってたんだ。そいつをおれが盗んできて、この町で売ろうと思った……。物知りのじいさんが『マニマニの悪魔』と呼んでた。不吉な色をした人形だった」
 マニマニの悪魔
 悪魔を持ってきたのは、この人だったのか。
「トンチキさんが?」
「……う、……う、苦しいぜ。……で……、モノトリーの野郎にだまされて……、とられちまった。ドロボーのおれをだましやがって、しかもこの秘密を知っているおれを……、付けねらって、消そうとしやがったんだ。奴はあの人形から悪魔のパワーを受けてるんだ」
 ぼくたちはゴクリと唾を飲む。モノトリーが手先をよこしたのだ。マニマニの悪魔の、ギーグの陰謀の秘密を握っているトンチキさんを狙って。
 トンチキさんはネスの手を借りて、ふらふらになりながらゆっくりと身を起こす。
「……いいか? 一度しか言わないからよく聞け。酒場の……、カウンターの中を調べるんだ。……ウッ……」
「へ?」
 カウンターだって?
 トンチキさんはよろめきながら、しっかりとコンクリートの大地に立ち上がる。腹の傷口を押さえる手がぶるぶると震えている。息が荒い。いつの間にか、群集のざわめきは止んでいた。ぼくとネスは、呆然とトンチキさんのその姿を見守る。
「……では、死ぬ前に一句。  
『おでかけは、一声かけてカギかけて  ――トンチキ』
おれの最後の頼みだ。後を追うんじゃねぇよ。ドロボーの意地……、がある。あ・ば・よ!」
 トンチキさんは、一歩一歩ゆっくりと地面を踏みしめながら、向こう側の裏路地の方向へと進んでいく。群集は黙って道をあけ、沢山の人につまづき、ぶつかりながらもやがて道を歩く人々の流れの中へ消えていく。
「……あの男、死んじゃうのかしらね」
「死んでるわけじゃなかったんだなぁ。……でも、死にそうだったな」
「私を……、にらみつけていったわ。怖かったぁ」
「ちゃんと病院に行けばいいのにねぇ」
 人々のざわめきが戻ってくる。ぼくはネスのほうを振り向く。ネスと目が合う。ネスの目は、ただならぬ決意の念でキリリと引き締まって見えた。
 ぼくらは無言で頷き合い、道を引き返してばらばらになった観客達の足取りを交わしながらさっきやってきた方の前の路地へと戻っていく。目指す先はひとつ、ボルヘスの酒場だ。



 ネスが勢いよくドアを蹴り開けて、再びさっきのタバコの煙で充満した酒場の中へと足を踏み入れる。ぼくらは唖然としている客たちの視線を無視しながら、カウンターへとズカズカと中に入り込んでいく。
「お、おいちょっとガキども、また来たのかい!」
「ちょっと調べさせてもらいます」
「は?」
 おかみさんの怒声をものともせず、さっさとカウンターの中へ入り込む。中にいたバーテンの男(おそらく主人)は、最初ぼく達の様子に目を丸くして固まっていたが、やがてぼくたちがそこらを手当たり次第に調べ始めると、ハッと我に返ってぼく達に慌てて喚きたてた。
「おい何してる、やめろ!」
 ネスは背面のグラスや酒の置いてある棚、ぼくはカウンター下の棚を調べていく。棚をどんどん開けて、重ねられた器やコップなどをガチャガチャとかき分け、さらに次の棚へ移っていく。調べて行くうちに、ひとつ鍵が掛かっていて開かない扉を見つける。ぼくは2、3度ほどそこを蹴ったが、壊せる気配はない。
「ネス、あった!」
 ぼくがネスに呼びかけると、ネスはぼくの目の前にある棚に近寄ると、拳に一瞬力を込めて片手で簡単に棚をぶちやぶって開けた。背後から悲鳴が聞こえる。
 ぼくは棚の中を覗き込む。そこには手で握れるほどの、マイクぐらいの大きさの黄金の像が置かれていた。角の尖った人間の形をした悪魔が象ってある。
「これだ!」
 ぼくはとっさにその像に思い切り手を伸ばし、掴み取った。












































 闇。

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