叫び声が上がる。周りの人々の「疑問」は、次第に確定的な「恐怖」の感情へと変換されていく。最初に誰かが走り出すと、それに続いて他の人間たちも堰を切ったかのように何処かに向かって走り出した。逃げ場なんて何処にもないのに。
「うわっ!」
 突然ドンと誰かにぶつかり、その表紙に足が滑って床に思いっきり転ぶ。その拍子に、ぼくの服の裾をつかんでいたポーラの手がどこかに行ってしまう。騒ぎの大きさは深刻さをさらに増していく。
「ポーラ!? いてっ、いてーっ!!」
 誰かの革靴に手を踏んづけられる。それから頭、足。外からの光が完全に遮断されているせいで、辺りは完全な暗闇だ。靴の走るたくさんの音を聞く。ぼくは懸命に仲間の名前を呼ぶ。
「ポーラっ、ネスーっ! 大丈夫かーっ!?」
「大丈夫かっ、ジェフ!」
 聞き覚えのある声。ネスだ。力いっぱい腕を引っ張られ、ぼくは何とか床にきちんと立つ機会を得る。しっかりと起き上がり、必死になってネスの手を掴む。
「ネス、ネスなのか? 大丈夫かっ」
「あぁなんとか……ポーラは?」
「えっ、ネスの方にいったんじゃないの?」
「いや知らねぇよ。どこいった?」
 一瞬間があって、ぼくらは顔を見合わせる。
 背の高い大人にもみくちゃにされながら、辺りを見回す。ぼくらの背が低すぎるのと、なにより辺りが真っ暗すぎて何が何だかさっぱり分からない。緑色の非常灯がわずかに光っているのが分かるくらいだ。
「ポーラッ、ぽぉーらーっ!」
 ネスが叫ぶ。ポーラがどこにもいない。まさか、はぐれてしまったのだろうか。しかしそれならまだすぐ近くにいるはずだ。ぼくは懸命に周りを視線を配る。
 不意に、暗い天井の中のスピーカーが「ばっつん」という音を立てる。電源が入ったのだろう。そうして、それからこの場に全く不釣合いな、鉄琴の和やかな簡単なイントロが流れたあとに、
『――お呼び出しを、申し上げます』
 妙に甲高い、見知らぬ男の声だった。
『オネットからお越しの、ネス様』
 耳を疑う。
『オネットからお越しの、ネス様……。お友達のポーラ様が、4階の事務所でお待ちです。至急、4階、インフォメーションセンターまで、お越しください……クケッ』
 ぼくらは再びお互い顔を向き合わせる。
「な、何だ? 今の」
『ネス様、ネス様……クケックケックケッ。至急、ポーラ様のところにお急ぎください。クケケケケケケ』
 さらに放送は続く。誰だ、これ。
「……ギーグじゃないか!?」
 ネスが叫ぶ。ぼくはああ、と納得する。
「例の『マニマニの悪魔』っていうのは、もしかしてこれのことだったのか?」
「そんなん知るわけねぇだろっ」
 ネスは再び声を張り上げる。
「ポーラが連れ去られちまったんだぞ、そんな悠長に構えてる場合か!」
 あ、とぼくが気付くか気付かないかのうちに、ネスは上にあがるエスカレーターの方向へと走り出す。ぼくも慌てて後を追うが、辺りが暗すぎてすぐに見失ってしまう。
「ネスっ!」
 彼の姿がまったく見えなくなってしまったので、仕方なく、わずかな明かりを頼りに、人の波をかき分けながらなんとか非常灯の真下に到着する。どうやら完全にネスと離れてしまったようだった。付近を手探りで歩くと壁があり、それをつたって右へ慎重に辿って行くと、非常階段の入り口のドアらしきノブを発見することができた。開けて中に入ると、さっきまでのロビーの喧騒が嘘のように、はるか遠くから聞こえてくる。まだ電源の通っているわずかな明かりに照らされて、上へと続く長い長い階段が、徐々にそのおぼろげな姿を現す。目が段々と慣れてきた証拠だ。
 ぼくは、4階に行けば合流できるだろう、というわずかな望みをかけながら、非常階段を走りぬけていく。
『――ネス様、ネス様!クケックケッ……』




 わずかに響く自分の足音以外には、何も聞こえない。オレンジ色の明かりを帯びて闇の中に浮かび上がる非常階段の輪郭は、思わず地獄の死刑台に上る階段を連想させる。
 目的の4階に着いた頃には既に息も絶え絶えになっていた。ふらふらとよろけて、ちかくの手すりを掴んで肩で息をする。喉がカラカラに渇いている。おいおい、ちょっと体力なさすぎだよなぁ、と自分でも思い、自嘲的に笑う。1階から4階まで階段で全速力というのはなかなかにしんどい。少し休んでから、目の前にある「4F」と書かれた重い扉を開ける。
 4階フロアは1階と同じく、まったくの暗闇に閉ざされていた。目を閉じているのか閉じてないのか分からなくなるほどの盲目的な黒。人の気配は何故か感じられない。客の人たちはみんな1階に降りていってしまったのだろうか、それとも、何者かからの恐怖にただ怯え、隠れ潜んでいるのか。
「誰か、いませんかー!」
 声はむなしく響き、空虚な闇に吸い込まれていった。仕方なく、リュックを下ろして手探りで懐中電灯を探り出し、ライトをつける。明かりは足元辺りにしか届かず、あまり役に立たなかった。それでもないよりはマシだ。
 広い通路を小走りに進む。道の両側にライトを当てると、玩具売り場のコーナーや、小さい子供が遊ぶための遊具スペースなどが目に付いた。4Fはどうやらそういうフロアらしい。立ち止まって天井に目をやると、「← インフォメーションセンター」と書かれた、上から釣り下がる看板を見つけた。向こうだ。


 通路を左に曲がると、瞬間、目の前を何かが横切った。


 ドキッとして、すぐにその影が飛んでいった方向にライトを向ける。スポーツ用品のコーナーがあり、ウェアやシューズなどが店頭に展示してある。すでにさっきの姿は影も形もない。
「……何だ、今の」
 人型の黒いシルエットだった。息をついて、心臓の鼓動の高鳴りを落ち着かせる。やっぱり何かがおかしい。やはりネスと離れるべきではなかった、と思うが、過ぎたことを悔やんでも仕方がない。足をさらに早めつつ、通路を進んでいく。
 だが、そのうち、ふとなにか涼しげな風が背筋を通り抜ける感じがした。後ろに気配を感じ、ふりむく。誰の姿もなかった。ぼくの胸の中で、じわじわと恐怖が姿を現しはじめる。
「なんなんだっての……」
 さらに足を早める。と、目の前の通路の床のタイルの間から、何か煙のようなものが沸きあがってきて、再び足を止めた。
 いや、よく見ると、煙ではない。その黒いものはやがて人の形を取り、その頭の部分に目らしきふたつの光が灯る。さっきの「」だった。目を見張る。そして気が付くと、前方だけでなく後方からもその「影」によって囲まれているのに気付く。はさみうちだ。
「な、なんなんだ、コイツら……」
 左右を見る。さっき見たスポーツ用品店……はダメだ、袋小路だ。もう一つの右の方はゲームソフトの棚が並び、脇道が向こうまで続いている。
 何も考えずに走った。
 棚の間を駆け抜けながら後ろを振り返ると、さっきの影人間が増殖してこちらへ追いかけてくるのが見えた。もしかしたらあれもギーグなのか、と思いながら、視線を前へ戻すと、向こうの目線の先の床から、またいくつかの影人間が顔を出し、こちらへ向かおうとしているのが目に入った。さっきの奴らはさらに目前にまで迫ってきている。
 息を呑む。
 そのとき、どこかから突然光が射した。
「え?」
 何かと思い奥を覗き込んだ拍子に、光は一瞬ひときわ強くなったかと思うと、突然何かが音を立てて吹き飛ぶような爆発音がした。建物全体が揺れ、ぼくは数歩よろけながらも頭を押さえて床に伏せた。そして、思い出す。光が射したとき、棚の向こう側に一瞬見えた映像。インフォメーションセンターの扉が吹き飛んでいたのが見えた。
「――ネスか?」
 顔を上げる。目の前の影人間たちが、ぼくと同じように光の指した方向におびえ、弱々しげに動きを止めている。
「……そうか、こいつら、光に弱いんだ!」
 懐中電灯を再び強く握り締め、弱っている影人間たちをジャンプで飛び越える。そうすると、再び広い通路に出た。さっき見た光景の方向を頭の中でおおよそ見当をつけ、全速力で走り出す。また目が慣れはじめてきていた。
 とっさに後ろを振り向くと、もう回復したのか、さっきの影人間達がふたたび後ろから追跡をつづけてくる。ぼくが影人間たちにライトを向けると、彼らは銃に撃たれたようにのけぞり、動きを止めた。ぼくはそれを確認すると、前方にインフォメーションセンターの入り口を捉える。扉が、何かの衝撃で吹き飛んで煙を立てて転がっているのが見える。
 ぼくは障害物となった扉を飛び越えて、センターの中に飛び込んだ。

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