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「……」
ぼくは目を覚ました。
高い天井の灯かりは淡いオレンジ色に輝き、気のせいかゆらゆらとかすんで見える。ぼくは目をごしごしとこすってから、やがてあることに気付いた。
頬が、一筋の水で濡れていた。
泣いてたのかぼくは、と思う。呆れたような驚いたような、そんな複雑な感じを胸に抱きながら、ぼくは起き上がる。体を起こして毛布をどかし、ふと横を見ると、ネスとポーラがすうすうと平和な寝息を立てながら、固まって眠りについていた。
「まったく、さっきはケンカしてたくせに」
ぼくは静かにクスリと笑う。
周りの人々もみんな眠りにつき、灯かりがついているのは入り口付近か対策本部くらいのものだ。腕時計に目を向けると午前2時。いわゆる丑三つ時というヤツだ。幽霊が出るにはもってこい、というわけだ。
さて、起きたはいいものの、とりたててやるべきことというのもない。尿意も特に感じないし、べつにネスの顔にマジックで落書きしたりするようなテンションでもない。今日のところはおとなしく寝ておくか……いや、今日というか、今晩?などと、どうでもいい事を考えながら、ぼくがまた毛布にもぐろうとしたとき、
――がさり。
「ん」
声が出てしまって、おもわず口を塞ぐ。
向こうの通路の奥で、何かが動いた気がした。
腕時計を確認する。午前2時。いわゆる丑三つ時。幽霊が出るには――、
「……まさかぁ」
そのまさか、だとしたら。
ふと、ここでひとつの仮定が浮かぶ。前の話では、ゾンビたちには知能や色彩判別能力があまりないせいで、テントには気付かないという話だった。しかし、もしその「大本の情報」が、そもそも間違っているとしたら。専門家の話だから信頼できる、ということか? いや、そもそもその専門家は、いったい何を根拠にその情報にたどり着いたのか。映画? コミック?
馬鹿馬鹿しい。
そう、もしも。もしもゾンビたちに、人間並みの知能や色彩判別能力が普通に存在したとしたら。
テントの中に人間たちが避難していることなんてとっくに知っているとしたら。
知っていながらも、人間たちをそのまま放置しているだけだったとしたら。
そのゾンビの中の何人かが、人間たちに潜んで、テントの中で何かをしていたとしたら――。
「……まさかな、と」
ついていく価値はありそうな気がするが、どうか?
「おいおい、外に出ちゃったぞ……」
スリークの空はどんよりと暗く、真っ黒くて分厚い雲が空を覆っていた。その天候さえも、ぼくにはどこかしら自然のものとは違った違和感を覚えた。作り物のような、人為的なもののような。
外には人の姿はまったくなかった。もちろん誇張ではない。おそらく、この街の殆どの人々がテントに泊まったり家に引き篭もったりしているのだろう。それは当然だ。建物の外にはゾンビやゴーストが当たり前のように徘徊し、いつ襲われるかも分からないのだから。ではどうして、ぼくが今尾行している彼は、わざわざ街の外をぶらついたりしているのだろうか? 散歩? 買い物? それとも――。
まぁ、ぼくの勘も捨てたもんじゃないかな、と思う。
わざわざテントから持ってきた、荷物の入ったあのリュックサックを改めて背負い込むと、ぼくは気を引き締めて慎重に彼を尾行し続けた。
今尾行している彼は、ぼさぼさとした手入れのされていない髪にぼろぼろの服を着た、一見ホームレスか何かと見間違えそうになるような少年だ。背中には、何も入ってなさそうな同じくぼろぼろのリュックサックを背負っている。彼はにやにやと怪しげに笑いながら、ひょこひょことどこか「目的の地点」に向かって歩いているようだった。
やがて、ぼくの前方に小さなテントが見えてきた。
けっこう街外れまで来ちゃったな、とぼくは考える。そこで一旦立ち止まって辺りを見回すと、通りには太いカエデの並木が連立していたので、ぼくはそちらに走って行き、その陰に隠れると向こうの様子をじっと見守った。
例のホームレスっぽい少年は、街はずれの奥にあるテントの中に入ったり出たりを繰り返していた。もうちょっと詳しい様子を確かめようとしたが、あまりにも遠目すぎてよく分からない。中に何かあるのだろうか、それとも、誰かが中に入っているのか。
そして、
ふと、少年が急にこちらを振り向いた。
「(うわっ!?)」
驚いて、急いで木陰に隠れた。
見つかったのか? ――いや、絶対にそんなことはない。こちらでも誰がいるのかという詳しい情報すらうまく把握しきれていないのに、木陰に隠れているぼくをあちらが気付くはずはないし、確認できることもないはずだ。
しかし、
「おい、いるんだろ。出てこいよ誰かさん」
バレている。確実にバレている。
原因はよく分からないが、やはりあちらの様子からして、こちらがいることは既に向こうに知られてしまっているようだった。
くそ、まぁいいか、とぼくは心の中で悪態を付く。ぼくは木陰からのそのそと出て、あちら側に姿を見せた。そのままぼくはテントの方にゆっくりと近づいていく。
「いつから気付いてたんだ?」
動揺を悟られないように、ぼくが大きな声で彼に尋ねると、彼は例のニヤニヤとした笑いを顔に浮かべる。
「違うぜ、途中で気付いたんじゃない。この俺が、同類のお前を誘い出したんだよ」
「同類?」
「あぁ、同類さ」と彼は笑う。
やがて、ぼくは彼のすぐ近くまでやってきた。彼はその挑発的な笑いでぼくのほうを見ていた。
「へっへっへ、実はおれはよぉ、化け物どもの味方になって働いているんだ」
「へぇ……」
ぼくはさも感心したように頷く。
「ほら、この街の様子を見てみろよ。人間の方が負けそうだろ。自分の身を守るためには、ゾンビ側についた方がいい。やつらの大親分てのが『はえみつ』ってやつが好きで、集めさせてるんだよ」
「ふぅん……」
ヘイ、なんか面白い話になってきたじゃないか。
「ん、はえみつって何なんだい?」
「『はえみつ』ってのはハエの集めたみつだよ。ハチが集めりゃ、はちみつ。ハエが集めるのは、はえみつ。化け物の大親分は、こいつをなめてるからどえらく強いらしいぜ。そっちの化けテントの中にたっぷりためこんであるから、もうじき届けに行くんだ」
「……なるほど、大体事情は分かったよ」とぼくは頷く。「でも、そんなことペラペラとぼくなんかに話しちゃっていいのかい? 確かに偶然にもぼくはよそものだったけど、今すぐにでもぼくがテントの中にいる市長さんに話をつけに行ってもいいんだけど」
「いいんだよ。言ったろ、同類だってな」と彼はまたニヤニヤと笑う。そして、今までの笑顔よりもさらに顔を怪しく歪ませる。「……なんつーか、匂いがするんだよ。人間の味方なんざとっくに辞めちまってるっていうか、人の皮をかぶったバケモノっていうか、そういう匂いが、な」
そう言って、彼は自分の言葉に自分で声を上げて笑う。
人の皮をかぶった、バケモノ。
この子は一体何を言っているんだろうか?
「――ってことだ。で、どうだ?」と彼はぼくに尋ねる。「俺は今からこのはえみつを運びに行くんだが、お前も一緒に行くかい?」
「……いや、考えておくことにするよ」と、ぼくはその場しのぎの言葉を発する。「あいにく今はものすごく眠いんだ。それで眠気覚ましに君に気まぐれでついてきてただけさ。でも眠気は覚めないし、やっぱりまたテントに戻って寝ることにするよ」
「ふぅん、なるほど、そうかい」と彼は言う。「分かった。じゃあ縁があったら、また会おうぜ」
彼はそう言うと、何本かのビンが入っていると思われるリュックサックを改めて背負い、ぼくがやってきた方へと戻っていく。ぼくは、彼の姿が見えなくなるまでそこにじっとしていた。
――さて。はえみつ、ねぇ。
ぼくはテントのほうを振り返り、改めてそのテントを凝視した。淡い紫色一色の目立たないデザインのテント。
この中に、
「……よし、いっちょ探りに行きますか」
ぼくは大きく伸びをして、テントへと足を向けた。
そして次の瞬間、テントが大きな口を開けた。