6
――冷たい。
なんだろう、とぼくは空を見上げた。なにか白いものが、分厚い雲からひらひらと舞い落ちてくる。
雪だ。
気が付くと、研究所の前にたどり着いていた。あのダンジョンを出てブリックさんに見送られたあと、どうやってここまで来ることができたのかについてはあまりよく覚えていなかった。たぶん無意識のうちにここまで辿りついたんだろう。人間というのは、精神が極限まで追い詰められると結構すごいんだなぁ、とつくづく思う。
眠かった。
とてつもなく眠かった。
多分、疲れているんだと思う。色々なことがあったから。たくさんのさまざまなものが、ぼくの行く手を阻むように、あるいはぼくを急かし、焦らすように存在していたから。
肩にいつの間にか積もっていた雪を払い、ぼくは、ゆっくりと研究所のチャイムを押した。
無音。
いつまでたっても返事は無い。でも、これもいつものことだ。ドアの横のテンキーを入力し、最後にエンターキーを押して、分厚くて重いセラミックのドアを開ける。ぷしゅーっ、と空気が圧縮される音がして、勢いよくドアが開く。そのままぼくは研究所の中へと足を踏み入れる。
玄関は暖かく、それでいて薄暗かった。入ったとたんにメガネが真っ白く曇ったので、ぼくは玄関に入ったまま、そのままじっとしていた。しばらくして、ぼくのメガネの曇りが消えると、ぼくは玄関の奥をじっと睨んだ。奥はうっすらと明るい。人のいる証拠だ。
ぼくは、そのままその廊下を通り抜ける。奥の部屋に入ると、電灯の明るさに思わず目を細めた。100人は入れそうな広いホールで、部屋の壁はクリーム色で一色に塗られている。長い蛍光灯が高い天井にずらりと並んでいた。
部屋の奥には、半径1mくらいの大きなボールに足とアンテナを付けて、真ん中にソーサーを挟みこんだような、へんな銀色の大きな物体が置いてあった。オブジェか何かだろうか、とぼくは思った。
広間の真ん中には、3人掛けくらいのソファが向かい合うように並べられていて、真ん中にはガラスと木で出来たテーブルがあった。いわゆる応接セットと呼ばれる、ごくありふれた、何の変哲も無いものだ。テーブルにはマグカップがひとつと、電気ポットがぽつんと置いてあった。
そして、その広間の一番奥にある机に、白衣を着た老いた男が座っていた。
真っ白い髪の毛はおでこの方からはげかかり、しかもそれでいて残っている髪は思う存分に伸びてぼさぼさとしている。小さくて丸いレンズのメガネをかけていて、鼻の下には髪の毛と同じく真っ白な髭がある。背は低い方で、下手するとぼくと同じか、それともそれ以上、という感じだった。
机の上に目を落とすと、コーヒーの注がれた白いマグカップがひとつ置いてあった。湯気は立っていない。たぶん、長い間置いていたせいで冷めてしまったのだろう。
呼びかけるために、静かに息を吸い込む。
「――あの、すいません」
平静を、装えたどうかは分からなかった。たぶん大丈夫だと思う。
声をかけてしばらくして、その老いた男は、くるりとぼくのほうを振り向いた。前に会ったときよりも、ずいぶんと老けたような気がした。
「あぁ、ダンジョン職人のブリックロードさんから紹介された方だね」と、その男――アンドーナッツ博士は言った。「そこのソファなり何なりに座って楽にしててくれ、今そっちに行くから……」
「あ、あの」
「……んっ?」
「その、えっと、」
寸前で口ごもる。いろいろ言いたいことを考えていたのに、胸の中で誓っていた言葉が、いつの間にかどこかへと消えていってしまった。
「それだけじゃ、ないんです」
「?」
博士は首を傾げる。
「それだけじゃない……と。それは?」
「……」
その一言がいえなかった。
言いたかった、ただの一言すら、口に出せなかった。
「その、」
寸前で飲み込む。
「――……息子、です」
「息子?」博士は眉をひそめる。「息子って……あの、あ、そうかジェフか」
ぼくは頷いて、部屋の中へと足を踏み入れた。
博士は、机にあった冷めたコーヒーをぐいと飲み干してから、マグカップを持ちながら回転椅子からゆっくりと立ち上がり、応接セットの方に歩いてやってくると、ソファの上にどっこいしょと腰を下ろした。ぼくも、その反対側のソファに腰掛ける。ふっくらと柔らかかった。
「10年ぶりくらいだな。お互いよく生きていたもんだ」
言いながら、博士はポットの栓を開けて、自分の持ってきたマグカップと、もとからテーブルにおいてあったマグカップの両方に熱いコーヒーを注いだ。ぼくは何も言えずに、熱いコーヒーの入ったマグカップを片方、自分のもとへ引き寄せて、少しだけ口をつけた。
「……メガネが、似合うな」
「ありがとう」
「ドーナッツが食べたいか?」
「え、うん」
「ただ聞いてみただけだ。私も食べたい」と博士は言った。「ストーンヘンジはもう調べてみたか?」
「え? ううん、調べてないよ」
「……そうか。一応聞いてみたんだ」
博士が言って、ぼくは頷いた。どうやら、頑張って何か話すことを探しているみたいだった。ぼくはコーヒーをまた少しだけ飲む。熱いコーヒーのぬくもりが、体の中にじんわりとしみこんでいくような気がした。
ぼくは顔を上げて、博士の顔を見た。髪の毛はすっかり真っ白だった。丸いメガネの奥はしょぼしょぼとした小さな目があり、目じりに、そして顔全体に、前見たときよりもさらに深い皺が刻み込まれていた。
ぼくは、
ぼくはどれだけの時間を、この人と過ごしていなかったんだろう?
「んー、あー……」と博士は唸った。「ところで、どうしてここに?」
「あ、そうだ」
ぼくははっとした。そういえばすっかり本題の事を忘れていたのだ。
ぼくは、宿舎にいた夜におきた夢の話を、できるだけ詳しく、鮮明に博士に話した。それはとてもリアルティにあふれていて、それでいて不思議なものだったことを、一生懸命に博士に伝えようと試みた。それと、ここまで来たときに起きた不思議な事も少しだけ。サルとか、タッシーとか(そこら辺の話を聞いても、博士は「ふむ」とだけ相槌を打って、それ以上追求しようとはしなかった)、ブリック・ロードという人のこととか、それくらいだ。
すべてを話し終わって、ぼくはふぅとため息をついて、ソファに寄りかかった。博士はしばらく考え込んでいたようだった。
「……ふむふむ、なるほど」
やがて博士は口を開いた。
「そのポーラとかいう少女は、無意識のうちに私がここにいることをあてにしていたに違いない……よし。なんとかしてみよう」
「本当に?」
「あぁ」と博士は頷く。「私が研究しているのは、時空間の任意の2点をつなげてしまうスペーストンネルなのだが……、それはまだ未完成なのだ。ちょっと古いけど、スカイウォーカーというマシンを君にあげよう。これに乗って相手からの呼びかけを聞いていれば、目的地につくはずだ。その奥の丸っこいマシンだ」
奥の丸っこいマシンと言われて、そちらの方に目を向けると、そこにはさっき見た妙な形の銀色のオブジェが置いてあった。
「あれが、スカイウォーカー?」
なんというか、寸胴だ。
「どうだ、カッコイイだろう」と博士は言った。「とりあえず乗りなさい、上からだ」
そう言って博士は立ち上がり、ぼくをスカイウォーカーの近くまで案内する。ぼくも黙ってその後を追う。
近づいてよく見ると、なるほど、スカイウォーカーにはハシゴがついていて、しかもてっぺんはハンドルで開けられるようになっていた。ぼくは訝しがりながらも、おそるおそる傍に近づいていき、ハシゴに手を伸ばす。足を掛け、慎重に上に登っていく。やがて最上段まで到着して、スカイウォーカーのてっぺんのハンドルを力いっぱい回して入口を開けた。そのまま中に滑り込むと、そこには狭々とした空間にギリギリいっぱい入る感じで回転椅子がひとつ設置してあり、そのまわりをごちゃごちゃとよく分からない機械類が並んでいる。本格的なコクピットという感じだ。
椅子に座ると、目の前にはキーボードとグレーのコントローラーがある。赤と青と緑と黄色の4色のボタン。十字キーがあり、人差し指をかける部分にL・Rボタンがある。視界のまわりはすべてガラスのようなものが張られ、今は黒く沈んでいる。
電源らしきボタンを押してみると、周りの機械類がいっせいに稼動し始めた。それと同時にガラスに明かりがともり、周りの景色が映し出される――そうか、これはディスプレイだったのか。
自動的に、上の入り口が閉められる。
ディスプレイの向こうで、博士が微笑んでいる。
「じゃあな、10年以内にまた会おう!」
「……あ、あの、これからどうやって動かすんですか?」
「どうした? 動かないのか。コントローラーのボタンを押してごらん」
ぼくはコントローラーに目を落とし、赤いボタンを反射的に押す。すると、スカイウォーカー全体が振動し始め、まわりの景色がだんだん下へと沈んでいく。
違う。ぼくが浮いているんだ!
「えっ、ちょっと!」
博士が手を振りながら、スカイウォーカーに向かってなにか呼びかけている。でもぼくには周りの機械の稼動音がうるさすぎてよく聞こえない。
「……さ、さよなら!」
慌ててぼくは叫ぶ。
しかし同じように、ぼくの声も博士に届くことはない。ぼくはそのまま空へと舞い上がり、研究所の唯一屋根の開いた出発口から空へと舞い上がる。
「さよなら、さよなら!!」
でもぼくは叫んでいる。だんだん声が擦れていく。ディスプレイに映し出された周りの景色が、フォギーランドの美しい風景が涙で霞んでいく。どうしてだろう、どうして勝手に涙が出てくるのだろう。急な発射に驚いたのだろうか。心の準備が出来ていなかったのだろうか。
きっとそれは違う。
分からない。さっぱり分からない。でもぼくは叫ぶのをやめない。
「さよなら! さよなら! さよならぁっ!」