「……」
 ぼくは波の打ち寄せる湖岸を背にして、呆けながら立っていた。後ろを振り向くと、そこには静かに揺れる水面があり、その向こうは濃い霧に包まれてもう何も見えない。あの変なサルも、恐竜もみんな戻ってどこかに行ってしまった。
 そして、ぼくは湖を越えた。
 これは大きな進歩だ。なにしろ、湖を越えていけばあとは話が早い。都市部からは離れてしまったが、この方向なら帰って好都合で、そのまま白い雪に包まれた平原を南へぶらぶら下っていけば、父の研究所にたどり着く。ここからの道順だけは、ちゃんとぼくの記憶の中に刻み込まれていた。
 出発してから何度目かのため息をつく。
 ここまでやってくるまでに、もうすっかり日が登りきってしまった。なにぶん、色々なことがたくさんありすぎた。少女の声。バルーンモンキーと言う名のサル。黒い服の少年。そしてタッシー。
 まったく、いつからぼくの周りは、こんな変な事物であふれてしまっているのだろう? 周りが変なのか、それとも、ぼくだけが変なのか。もしかしたらぼくは、何かタチの悪い幻覚でも見ているのではないだろうか? 何だかさっきもそんなことを考えた気がする。……まぁ、いくら考えても仕方が無いのだけれど。
 諦めてぼくは歩き出す。そう、人生なにごとも諦めが肝心だ、とぼくは思う。これだけ奇妙なことがあったのだ、いっそ何でも来やがれという感じがする。地面にうっすらと積もった雪を踏みしめる。ザク、と心地よい音がした。


 雪の平原を歩く。このあたりは、一方が高い崖に囲まれているような場所で、どうやら本当に湖畔のはずれの方に来てしまったらしい。湖岸に沿ってしばらく歩く必要がありそうだな、とぼくは思いながら、そのまま歩みを進めていくとと、やがて雪野原の真ん中に、なにか銅像のようなものが建っているのが目に入った。ぼくは足を止めた。
 それはタコだった。
 大きさはざっとぼくの身長くらいだろうか、銀色に光る、なぜかタコの形をした鉄の塊が、そこに堂々と鎮座しているのだった。
 今度はいったい何がお出ましになりやがったんだ、とぼくは若干いぶかしんだが、まぁ、今回は、ぼくが近づいても顔色ひとつ変えずにただの鉄の塊然としているだけだったので、とりあえず、触らぬ神に祟りはないだろうとぼくは思い、ひとまずそこを素通りして、先に進もうとした。が、その刹那、なにか顔が空中で壁のようなものにぶつかったような感触がして、ぼくは、頭を疑い、目を疑った。
「……な、なんだこれ!?」
 ぼくは手を触れてみたが、たしかに冷たく平べったい感触があった。思わず声に出して叫んでしまうほどの不条理さだった。なんだこれは!?
 どうやら、このぼくの目の前にある鉄のタコの位置を境に、左右に目に見えない結界のような「壁」が出来上がっているらしいのだ。なんなんだこの「壁」は、そしてこのタコは。ぼくは、今度はそのタコを試しに力いっぱい押したり引いたりしてみたが、ぼくの力だけでは、まるでビクともしなかった。ぼくは途方に暮れ、再び重い息を吐いた。
「今度はタコか……」
 ひとまずその場のタコはあきらめて、今度は、湖岸の反対側の崖を登ることはできないかと、そちらに向かって近づいて行った。ぼくは岸壁に触れ、感触を確かめる。少なくともひ弱なぼくの体力では、この高い壁を昇ることは不可能そうだった。仕方なく、ぼくはその場で岸壁に背中をもたれさせながらしゃがみ込み、辺りを見回した。
「ん?」
 と、目線の先に、何故か洞窟の入り口があることに気付いた。
 近くの岩壁に、明らかに人為的に工事したような、不自然に真新しい舗装された入り口がある。その横には看板が立っていた。
『このダンジョンは入場料はいりません。どうぞどうぞ』
 ……。
 なんだこれ。


『ようこそ、わたしの低予算ダンジョンに! ――ブリック・ロード』
 洞窟を入ってすぐの看板にはそう書かれていた。
 低予算ダンジョン。
 低予算ダンジョン?
 さっぱりよく分からなかった。
 洞窟の中に入ると、そこはただっ広い天然のホールとなっていて、そこにぼくの背より少し低いくらいの、でっかい均一の大きさの岩が並べられ、まるで迷路のようなものが作られている。まさに低予算。……いや、そういう問題ではない、と思う。
 今度のこれは、一体どういうことなんだ? ていうか、むしろこの岩とか、簡単に飛び越えられそうな気がするけれど、いや気にしないところなのか、これは、とも思う。
 もう驚くのにも疲れて、とりあえず進路のとおりに進んでみることにする。通路は、人が3人並んで通れるくらいの広さは確保されていて、しばらくすると道は二手に分かれていた。とりあえず右に進むと、道の先の行き止まりには、何故か蓋のされた小さなポリバケツが置かれていた。
 しゃがみこみ、開けてみる。
 中にはバターロールが入っていた。
「……」
 意味分かんねぇ
 もはやどこに突っ込んでいいのかちょっと図りかねた。大体、なんでこんなものがこんなところにあるのか? おそらく普通に考えて(いや、そもそも事例が普通ではないのだけれど)、十中八九この迷路を作った人間だとして、じゃあその人は何のために、こんなものをこの「低予算ダンジョン」とやらに置いたのだろうか? 来た人に取ってもらうため? 行き止まりにきた報酬ということ? 迷路の先にバターロールの入ったポリバケツ、というこのキーワードが意味するところは一体なんなのか、いや、そもそもこれに意味なんてあるのかどうか? ぼくが思わず人生について考え始めたそのとき、
 ん、そうか。ダンジョンか。
 ひらめく。そう、これはダンジョンなのだ。ロールプレイングゲームなんかでよくあるあれ。勇み行く冒険者たちの行く手を阻む障害。入り組んだ迷宮、隠された秘宝、そして潜むモンスターたち。つまり、これを作ったそのブリック・ロードという人は、そのダンジョンをこの洞窟で再現したかったのだろう、とぼくは思った。そしてこの低予算迷路をダンジョンとしたならば、ぼくの役割はさしずめ勇者ってところだろう。……なのか? まぁそんなガラではないけれど。
「ん、でもちょっと待てよ。でももしそうだとしたら、何かその弊害となる『モンスター』っぽいものも出てきてしかるべきなんじゃないか? まさかモンスターって、あのタッシーみたいなのがまた出てくるんじゃないだろうな」
「ぐゎ」
「そんなの冗談じゃない……っていうか、ぼくが勇者の役なんだから、つまりはぼくを襲ってくるってことじゃないか。そんなのどうしろっていうんだろう?」
「ぐわぐわっ」

 ……。

 ぼくの足元で、くりくりした瞳のアヒルがぼくを見上げていた。

「……」
「ぐわっ?」
 首を傾げたいのはこっちなんだけどなぁ、と思う。
 ていうか、うわ可愛い。
「モンスター、ねぇ……」
 ここまで頼りないのも逆に困ってしまい、ぼくは思わずアヒルの頭をぐいぐいとなでてやる。
 うわー可愛い。
 ――ふう。
「行くか」
「ぐゎぐゎぐゎー」
 ついてくるなってば。
 サルといいタッシーといい、どうやら最近のぼくは何だか動物運みたいなものに恵まれているらしい。ん、なんだよ動物運って。どうやらまともな思考すらできなくなってきたらしかった。まぁ、どうでもいいや……。なんか疲れたよもう。
「ぐわぁーっ」
 はいはい可愛いねー。


 しばらくすると、出口に出た。
 久しぶりの空の光がまぶしかった。洞窟の中というものは、うすら寒い外よりもすごしやすい温度を保っていたので、まるで暖房のついていた部屋から急に出てきたような気分になった。寒さに思わず身を縮こませる。
「あ、ども、お疲れさんです」
「うわっ!」
 急に呼び止められたので、びっくりして振り向いた。
 緑色のオーバーオールを着た、50代過ぎくらいのはげた男が、ぼくのうしろですまなそうに頭を掻いていた。
「ちょっと簡単すぎたかな……。あ、わたしはダンジョン職人のブリック・ロードといいやす。ダンジョン作りに命をかけてるでやす。どぞよろしく」
「は、はぁ……」
「どうしたでやすか?」
「あ、いえ、なんでもないです、続けてください」
 うん分かった、ようやく理解した。やっぱりぼくの周りは変なのしかいない。
「あ、というかどうでやんしたか? あっしの低予算ダンジョンの感想とかありましたら、どうぞ」
「感想ですか?」
「つまんなかったでやすかねぇ……」
「え、いや、そんなことないです、おもしろかったですよ」
 うん、少なくとも、面白い面白くないで言えば間違いなく面白かった。でもちょっと新鮮すぎた。
「そうでやすか、どうもありがとうございます。あっしの夢はですねぇ、世界一のダンジョンを作りあげることなんでやすよ」
「……はぁ、そうなんですか」
 そりゃよかった、と思う。夢に向かって頑張ってくださいブリックさん、できればぼくのいないところで。なんだかぼくには心なしか輝いて見えます。ここまでくると、もはやついていけないです。
「まぁ、ぼく急いでますんで、そろそろ……」
「あ、そうでやすか。お疲れさんでやす」
 ブリックさんはすまなそうに御辞儀をした。
「あっしの技術と、アンドーナッツ博士の知恵が重なれば、わしは人類史上初のダンジョン男になれるでやす。いつかまたダンジョン男としてお会いしましょう!」
「あ、はい、じゃあまた」
 ダンジョン男でもなんでも勝手になっちゃってください。
「……ん? ちょっと待って」ぼくは呼びかける。「アンドーナッツ博士の知恵で、ってどういうことですか?」
「あ、はいそうでやす」とブリックさんは頷く。「あの人は5000年に1人生まれるか生まれないかという大天才さんでやすから。既にもう承諾は得てありやすので、あとはあの人の技術の提供を待つだけなんでやす」
「……はぁ」
 もはやダンジョン男とか、すでにもうどうでもいいやという気分だった。
 アンドーナッツ博士。
 5000年に1人の大天才、ウルトラサイエンスクラブのOB。
 ぼくの父さん。
「ところで、いらない世話かと思いますが、一泊休んでいきやすか?」
 ふと、ぼくの顔を覗きこみながら、ブリックさんが言った。
「なんか、顔色ひどいでやすよ?」
「いや、べつにいいです……」
 ぼくの弱々しい事に、ブリックさんは心配そうな顔になった。
「休みたくねぇんでやすか」
「いや、そういうことじゃないんです」
 ぼくはそれを否定する。ただ気が滅入っているだけだ。
 ぼくは南へ向かって歩き出す。父さんの研究所へ向かって。後ろから、なにかブリックさんが言ったような気がしたが、ぼくには聞き取ることができなかった。

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