森を出るとちょうど夜明けだった。なんだか時間の感覚が曖昧になってきている。浜辺から望める湖の向こうにある山々の間から、うっすらと朝日が差し込もうとしているところだ。しかし辺りはまだ薄暗い。吐き出した息が白くなって、やがて消えていく。どこかで鳥が鳴いている。
 強い北風が、音を立ててぼくの顔に吹きつける。ぼくは思わずぎゅっと目を細めた。
「(あっちだよ)」
 バルーンモンキーはあごで向こうの方を指すと、ぼくより先にそちらの方へと歩き出す。ぼくもあわててバルーンモンキーの後を追う。
「あ、あのさぁー」
 ぼくは呼びかける。バルーンモンキーはぼくの声に反応してこちらを振り向いた。
「(なに?)」
「その、意味が判らないんだけど」
「(なにが)」
「えっ、だ、だから、タッシーって」
 バルーンモンキーは、ぼくの問いに『お前の言ってることこそよく判らん』という顔で答えた。
「(べつに、意味もなにもそのまんまじゃないか)」とバルーンモンキーは言う。「(タッシーを呼んで、そいつに運んでもらって湖を横断するんだ)」
「だ、だって、タッシーなんているわけないじゃないか!」
「(……いるんだなぁ、それが)」
 バルーンモンキーはニヤニヤと笑う。それでなんだか腹が立った。
 そう言っている間にも、ぼくたちは森を離れて、ふたたび湖へと近づいていった。まわりには、昨日と同じように『タッシーウォッチング隊』の人たちが双眼鏡を片手に湖の監視をしていたり、毛布に包まって談笑しながらコーヒーを飲んだりしていた。
 また強い風が吹いて、鞭がしなるような音がした。はるか後ろの森がざわざわと揺れている。
「(タッシーが現れるときには、いつも風が吹いてるんだ)」とバルーンモンキーは言う。
「じゃあ、そろそろなの?」
「(おう)」
 バルーンモンキーは頷いた。



 やがて、ふと気がつくと、ぼくらの周りの音が完全に凪いだ。
 背後の林からは物音一つしない。風と木々の音が消えたおかげで、ぼくらの周りは完全に無音になる。ウォッチング隊の人々の談笑もなぜか止み、その静けさが帰って不気味だった。
 そして、ふと、

 揺れた。

「……う、うわぁっ!!」
 地震!?
 地面に一瞬立っていられないほどの揺れが続いている。グラグラグラグラ、という擬態語が思わず聞こえてきそうな気がする。ぼくはとりあえず体勢を立て直しながら、バルーンモンキーの方に目をやる。
 バルーンモンキーは毅然として立っていた。
「(いま、ガムをくれ)」とバルーンモンキーは言う。「(そしておれに任せるんだ)」
 ぼくはあわてて言うとおりにする。ポケットからガムを一枚取り出し、包み紙を急いで取ってバルーンモンキーに差し出す。バルーンモンキーはそれを口に含むと、くちゃくちゃとガムを噛みはじめた。
 揺れはまだ収まらない。
「(湖を見ろ)」
 ぼくは今いる場所から、湖を凝視する。



 湖の底を、何かが泳いでいる。水の中にいてよく見えないが、シルエットだけはおぼろげに見える。それはとても大きくて、どこかで見たことがあるものだった。巨大な胴体に、前足・後足のような大きなヒレ、そしてすらりと長く伸びている首。そう、それはまるで、
 恐竜図鑑でしか見たことのない、あの――。
「(くるぞ)」
 バルーンモンキーは、噛んでいたガムをぷぅと膨らませはじめる。ガムの風船はどんどん大きくなり、って、あれ、ちょっと、それはでかすぎないですか?
「(コレがおれの特技……PK・フライング)」
 ネーミングも意味分からないし。PKってなんだよPKって。
 しかし、その次の瞬間、バルーンモンキーはふわりと飛び上がる。ガムの風船をまるで気球のバルーンのように利用して、そのまま、宙に浮いた。
 バルーンモンキーの行動に一瞬あっけに取られて、ぼくはそこにへたり込んだ。
 揺れはようやく収まってきたのだろうか、回りの音もようやく聞こえるようになってきた。ザザザザザ、という、水の中から何かが出てくる音が聞こえる。
「……」
 思わず、ゴクリと息を呑む。
 まさか。本当に、いるのか。
「冗談だろ?」
 ぼくはまた湖を見る。
 湖の底から、ザザザザという効果音と共に、水の中からなにかが顔を出す。
 爬虫類系の巨大な頭。とてつもなく長く太い首。ぬらぬらと輝く紫色の鱗。小さくつぶらな目がぼくをゆったりと見下ろしている。思わず目が合って、ぼくは息をするのを忘れた。
「……で、」
 デカすぎる。
 びっくりしすぎて、うまく声が出なかった。これが恐竜。
 フーセンガムで飛び上がったバルーンモンキーは、そのまま空高く舞い上がり、タッシーの頭の上にちょこんと着地する。それからガムを再び口に戻しながら、ひょいとぼくを見下ろした。
「(おい、びっくりしている暇なんてないんじゃなかったのか)」とバルーンモンキーはぼくに呼びかける。
「え?」
「(さっさと乗り込め、行こう)」
「え、あ、うん、」
 頷くしかなかった。

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