ぼくは夢の中にいた。

 夢の中では、ぼくは幼い子供になっていた。ぼくは小さな身体を一生懸命動かしながら、真っ白い壁が続く廊下を懸命に走っていた。ここが何処なのかは判らない。しかし、ずっと前にぼくはここを訪れているような気がした。目が痛くなるくらいに真っ白い壁を、ワックスできれいに磨き上げられた床を、ぼくは覚えていた。ここは何処なのだろう。
 病院?
 そうだ。病院だ。ぼくは病院の廊下を走っているのだ。
 ぼくは病院の廊下を、息を切らしながら走っていた。なぜ急いでるのかは判らない。しかし急がないと、「何かとてつもないこと」が始まってしまう事をぼくは判っていた。それが何かは判らない。でも、そのことがぼくの足を早めていた。
 しばらくしてT字路に差し掛かり、突き当たって右に曲がると、すぐに階段がある。そしてぼくはまたそれを急いで駆け上がる。さっきの廊下と同じように、ワックスできれいに磨かれた病院の階段の白い色は、少なからずぼくをくらくらとさせた。階段は登っても登っても先は全く見えない。ぼくは半分泣きそうになりながら、それでも一心不乱に階段を駆けていった。
 やがて、階段の先に誰かが立っているのが目に入った。
 父さんだ。まだ若い。
「おとうさん!」ぼくは声をかける。「おとうさん!」
 父さんは、ぼくの声で今気がついたようにぼくに目をとめた。そして僕の方へと階段を下りていく。そしてぼくは父さんに抱きしめられた。
「ねぇ、お母さんはどこにいるの?」と、ぼくは父さんを見上げて訊ねた。
 すると、父さんはその質問にハッとしたような表情を浮かべる。しかしそれも一瞬だけで、父さんは目をつぶり、黙ってぼくを抱きしめる。
「ねぇ、お母さんはどこにいるの?」
 父さんは答えない。
「おとうさん?」
 父さんの様子が変だった。
 ぼくは父さんの顔を覗き込もうとする。でも翳っていてよく見えない。
「……おとうさん? 聞いてるの?」
 父さんは答えなかった。



まだ会ったことのないわたし達の仲間……ジェフ! とにかく南に向かって。わたしはポーラ……。わたしの心を感じたら南に向かってください……
 頭の中に響いてくる声で、ぼくはうっすらと目を覚ました。
 目をごしごしとこすりながら、あたりを確認する。天井は低く、小さな裸電球がひとつだけ釣り下がって、テントの中を照らしている。そしてぼくはテントの中で寝袋で眠っていたことに気付く。
 起き上がりながら、手探りでメガネを探す。手ごたえがあり、そのままぼくはメガネをかける。そうするとだいぶ視力が戻る。ぼくは腕時計に目をやった。さっき寝てから、ほとんど時間は経っていないようだ。
 一旦頭の中を空っぽにして、ぼーっと天井を眺める。ぼくは、トニーの事を思った。彼は今どうしているんだろう? 事態(少なくとも起こり得ると考えられるもの、たとえば先生に詰問されるとか)をうまくやりすごせているのだろうか? 彼には、いやぼくの周りのすべての人には、ずいぶんな迷惑をかけてしまって申し訳ないと思う。ぼくはしばらくあれこれと考えをめぐらせていたが、それは推論の域を出ないことに気付いて、ぼくは考えるのをやめる。そう、少なくとも、ぼくには他にやることがあるのだ。ふぅ、とため息をつく。


「なるほど、確かにそれは正しい選択のようだね」


 どこからか人の声がした。ぼくは思わず飛び上がる。
「だ、誰だ!?」
「ここだよ、ジェフ」
 後ろから、また囁き声がした。ぼくは声のした方を振り向く。


 見知らぬ少年が、ぼくの傍に座っている。無造作に伸びた銀の髪、耳にピアス。黒いシャツの上にまた黒いジャケット・コートを着ている。銀のロザリオのペンダントを胸にかけ、鋭い目の中に真っ赤な美しい瞳がある。
 赤い瞳。
 赤。
 血。

 ……血?
 ぼくは一体何を考えてるんだ?
「久しぶりだね、ジェフ」
 少年は静かに言って、何が可笑しいのかクスクスと笑う。
「何年ぶりだろうな、もうはるか昔のことみたいだ」
「誰だお前、ぼくはお前なんか知らないぞ」
 心臓が高鳴っている。何故だか分からないが、僕の本能が「コイツは危ない」と悟っている。
 危険。そして、明らかで圧倒的な恐怖。
 コイツは誰だ。
 少年は、いかにも意外という表情を浮かべる。
「心外だなぁジェフ、久しぶりの再会をせっかく喜ぼうっていうのに」
「うるさいっ!」
 ぼくは叫び、そしてはっとする。
「……そうか、お前だな。寄宿舎で何度かぼくに囁いてきたヤツは」
「そうだよ」
 そう言って少年は微笑む。テントの外では風が鳴っている。強風だ。
「まぁ、覚えてくれてなくても無理ないかな……そうだね」少年は苦笑して、それから立ち上がる。「今日は、ひとまず挨拶をしようと思っただけだ。気にしなくていいよ」
「挨拶?」
「そう。『またこれからもよろしく』ってね」
 そう言って、少年はぼくの脇を通り過ぎ、そのままテントを出る。意味が分からない。
「お、おい待てよ!」
 ぼくは呼び止める。テントからすでに出かかっていた少年は、ぼくの言葉にゆっくり振り返る。
「なんだい?」
「し、質問に、答えろよ」とぼくは言う。「……君は誰だ」
 少年は笑う。
「アイザック、それが僕の名前さ」



 彼が行ってしまったあと、ぼくは何が起こったのかわからずに、彼が出て行ってしまったテントの出口をぼーっと眺めていた。しばらくしてハッと気がつき、テントの外に出ると、そこには誰の姿もなく、ただ暗い森が広がっていた。
 いや、猿がいた。バルーンモンキーだ。
「(どうした、ジェフ。そんな顔して)」
「……いや、なんでもないよ」と、ぼくはバルーンモンキーの言葉をさえぎって答える。「ここに、変な男の子がいなかった? 銀髪で、黒いコートの」
「(さぁ、知らないが)」
 バルーンモンキーは答える。まぁそれでいい。ぼくはバルーンモンキーの答えにうなづく。
 まぁいい、なんだか分からないが、少なくとも彼は、何か意味があってここを訪れたのだろう。でも、彼はなぜ此処にぼくがいる事を知っていたのだろう? ぼくがここを訪れたのは全くの偶然だし、彼は最初からぼくに会うためにここを訪れたようだったし。
 よく判らなかった。
 そもそも、彼はぼくのなんなのだろうか。ぼくは彼の事を知らないが、彼はぼくの事を知っているようだった。彼は、彼はぼくの事を知っているのだ。
 くそ、こんなことばっかりじゃないか。
「(そうだジェフ、そんなことより朗報だ)」とバルーンモンキーは言う。「(……あれからいろいろと考えてみたんだが、なんとかすれば、もしかしたら湖を越えられるかもしれないぜ)」
「えぇっ!?」
 ぼくは目を丸くする。
「ほ、本当かいそれ?」
「(あぁ)」とバルーンモンキーは静かに頷く。
「それで、どうするんだい?」とぼくは訊いた。「もしかしたらその、潜水艇かなんかがあるとか?」
 バルーンモンキーは僕の問いに首を振る。それから息をゆっくり吸い込んで、静かに答える。
「(タッシーだ)」

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