濃霧の発生により、タス湖横断フェリーは現在運航していません、と、その張り紙には書いてあった。
「……」
 タス湖のフェリー乗り場で、ぼくはなす術もなく立ち往生していた。乗船手続きをするロビーには、ぼくのほかには乗客は誰ひとりおらず、足止めを食ってもたもたしているのはぼくたちくらいのようだった。
「(どうだった?)」
 荷物を置いていた元の席に戻ってきたぼくに、バルーンモンキーが尋ねた。バルーンモンキーはいつものように、ぼくのあげたガムをくちゃくちゃと噛んでいた。
「……次の船は3日後だってさ」とぼくは言った。そして、彼の隣にどっかと腰を下ろす。思わず、ため息が出た。
「(そうか)」とバルーンモンキーはつぶやいた。「(どうする、ここで野宿でもするか?)」
「うーん、そうだなぁ。皆目見当もつかないよ……」
 ぼくは、ふと窓の外を眺めやった。濃い霧に包まれたタス湖が一望できる。これでもし濃霧が晴れていたら最高の眺めなんだろうな、とぼくは思った。でも、いくら猿と会話が出来ても、自然天候には太刀打ちできない。そればっかりはどうしようもないことだ。
「外、出ようか」
「(おぅ)」
 荷物を背負って立ち上がると、バルーンモンキーを引き連れて、自動ドアの外に出た。



 そう、今のうちに彼の話をしておかなければならない。
 はじめのうちは、どうしてぼくとバルーンモンキーで意思の疎通できるのか分からなかった。彼に聞いても「(さぁ、しぜんのせつりってやつじゃないか)」などと言うだけで、あっちにしてみても原因はよく分からないようだった。例のあの澄んだ声の少女がぼくに手を貸してくれているんじゃないか、という結論が可能性としては一番高かったが、結局のところは何も分からない。所詮はぼくの推論の中の話だ。
 バルーンモンキーの情報筋によると、ここいらスノーウッドの山奥のフェリー乗り場周辺は、さっきの乗り場以外にはたいした建造物は存在しないらしい。なので、3日後のフェリーを待つつもりだとすると、ぼくたちはどこか3日間雨風の凌げる場所を探さなければならなかった。もう寄宿舎に戻るわけにも行かない。風も再び肌寒くなってきた。夜空の向こう側がやや白みつつある。夜明けが近づいているのだ。
「(……いい匂いがする)」
 不意に、隣でバルーンモンキーが言った。
「いい匂い?」
「(ああ。これは、シチューか何かだな)」
「どうしてシチューの匂いなんか」
「(さぁ。おれたちの他にも、ここらへんの雪原で野宿してる連中がいるんじゃないのか?)」
 それは一理あった。確かにこの辺に宿泊施設がないとすると、こんなところで料理を作っているのは、そういう野宿の連中だろう。彼の推論もあながち間違ってはいなさそうだった。でもどうして?
 寒い風の吹き付ける湖を、岸に沿ってバルーンモンキーと二人で歩みを進めていくと、やがて突き当たった森の入り口の前に「タッシー・ウォッチング隊」というロゴの入った白いバンが3台、連なるようにして停められていた。運転席の中を覗き込むが、中には誰も乗っていない。わざわざフェリーにバンを載せて、はるばるここまでやってきたんだろう、ご苦労なことだ。足元の地面の雪には十何人ばかりの足跡があり、それは向こうの森の入り口に続いているようだった。
 ぼくらは再び足を進める。
 雪の薄く積もった林の中をザクザクと進み、10分近くも歩けば、それは意外と簡単に見つかった。林の中の、ちょうど湖岸に面した開けた地点に、湖面を一望できる形でテントが設営してある。それも単体ではない、複数だ。
「(大掛かりな野宿だな……)」
「うーん。さっきのバンにはタッシー・ウォッチング隊って書いてあったし、やっぱりここでタッシーを観察してるってことなのかなぁ」
「(ふぅむ……)」
 『タッシー』というのは、タス湖に住む伝説の珍獣だ。……と言われている。目撃証拠としては何やらコラージュのような写真が一枚あるだけなのだが、それが生物学界に大きな波紋を呼んでいるらしい。何しろ、もうはるか昔に絶滅したといわれる伝説の恐竜が、ここタス湖にいまだ生き続けているということなのだから。まあ、実際にそんなのが話題になったのは割と一昔前のことで、今は一部のスーパーサイエンス・マニア(ぼくを含む)や偏屈な生物学研究者なんかが取り扱っているくらいで、世間の間ではすっかり忘れ去られていた……はずなのだが、どうやらこの人たちはその前者か後者のどちらかであるようだった。
 適当にテントの群れの方へ近づき、例の匂いがしてくるテントのひとつに見当をつけると、そちらの中をひょいと覗き込む。中には明かりがつけられ、二人の男が仮設された厨房に立って、例の匂いの元であるシチューを作っている最中だった。
 というか、よく観察してみると二人は妙な格好をしていた。まるでサバンナかどこかに行く調査団のような服、頭には迷彩ヘルメット、足は丈夫そうな安全ブーツ。が、その上から料理用の白いエプロンを着ているせいで、何だか全体的に滑稽なように見えた。
「あのー、すいません、タッシー・ウォッチング隊の方ですか?」
 ぼくが中に向かって声をかけると、シチューを作っていた二人のうち、鍋をぐつぐつ煮込んでいた方が、ぼくの声に反応してこちらを振り向いた。
「ん、どうしました? 学生さん?」
「あ、いや、ちょっと今晩の屋根を貸してほしいんですけど」
「おや」
 ウォッチング隊の隊員はキョトンとして、あまり事情が飲み込めない様子のまま入り口までやってくる。
「上の学校の子かな」
「あ、いや違います」
 バレるといろいろと面倒くさかったので、ぼくはさりげなく胸のバッチを腕で隠した。
「えっと、上の学校にいるのはぼくの友人で、その子に会いにこっちまでやってきたんです。でも、なんか湖に霧が発生したらしくて帰りのフェリーが出なくて、しばらく立ち往生せざるを得なくなっちゃったんです」
「あーはいはい、そういえば霧出てきてるねぇ」
 と、隊員は入り口から首を伸ばして湖の方を眺めやる。森から出た浜辺の方には、よく見ると数人の男たちがせわしなく歩き回っているのが見えた。
「うん、確かにここの霧はいったん出ちゃうと当分晴れないからねぇ。災難なこった。ちょっと待ってな」
 隊員はテントの中に戻り、奥に設置してあった無線電話の受話器を取って、誰かと何やら話し始めた。言い訳なんて口からいくらでも出るものだと思う。
 しばらくして話が終わったのか、さっきの隊員がまた戻ってくる。
「うん、隊長から許可が下りたから、ひとまず別のテントに案内するけど……、ん、そっちのおさるさんは?」
「あ。これはえっと」
 これは、なんと言えばいいのだろう。
「……お供です、とか」
「桃太郎?」
「(きびだんごよりガムをおくれ)」
 ぼくはポケットからガムを一枚引き抜いて、彼に与えた。彼はそのままそれをぱくりと口に入れ、ぼくの後につく。
 やがて、ぼくらはその場からひとまず移動して、別のテントへと通された。こじんまりとしたテントの中には既に寝袋が3つ置いてあり、ぼくらを案内してくれた隊員は、「その寝袋のどれか、好きに使っていいから。あ、サルはダメねサルは」と笑い、またさっきのテントに戻っていった。
 ぼくはテントの中に入り、とりあえずどさりと地面に腰を降ろし、ため息をつく。腕時計に目を向けると、時刻はもう既に6時をまわっていた。ということは、これでぼくは2時から4時間連続で稼動している計算になる。そういえば夜もすっかり明けかかってきたような気もする。そう思うと、急にぼくの身体に疲れがドッと押し寄せてきた。起きてからずっとここまで歩き詰めだったのだ。
「……バルーンモンキー、ぼくは少し寝るよ。疲れた」
「(おぉ、お疲れさま)」
 ぼくは入り口のバルーンモンキーにおやすみを言うと、テントの奥の寝袋の中のチャックを開けてもぞもぞと入り込む。暖かい。
 そしてその瞬間、ぼくは心地よい眠気の波に襲われ、すぐに安らかな眠りに落ちていった。

BACK MENU NEXT