Chapter 2  日常の終わり

 大体の見当はついていた。
 寄宿舎のあるウィンターズの高地を南へと下って、そのふもとのタス湖をフェリーで渡って、さらにそこからストーンヘンジを超えて南へ行ったところに、アンドーナッツ博士の研究所がある。ぼくの父さんの研究所だ。
 父さんは「スペーストンネル」という名の研究に没頭していた。なにやらよく分からないが、彼に言わせれば「タイムマシンとワープ装置を、足して2で割ったようなマシン」らしい。父さんは元来そういう説明が上手い方ではないので、ぼくは特に気にせずに、その場は分かったように肯いておいた。
 そういうわけで、ぼくがちょうど7歳になったときに、父さんは他人をまるで寄せ付けないようにして、南のストーンヘンジの近くにひとりで研究所を建て、たったひとりで閉じこもりながら、今もたったひとりで研究を続けているのだ。
 何がきっかけだっただろう、とぼくは幾度も想い返したこともあった。しかし、頭の中をいくら探ってみても、ぼくの記憶の中でその時期だけがさっぱりと消えうせているのだ。まるで無限に続くトンネルのようにぽっかりと穴が開いていて、それはぼくをとても奇妙な思いにさせた。



 午前3時半のコンビニエンス・ストアは、さすがに人はまばらだった。ぼくが自動ドアを通って中に入ると、ちょうど入り口のすぐ脇に、なにやらよく分からない物体がいた。
 サルだった。
 コンビニの入り口のすぐ脇に、サルが座っていたのだ。
 ぼくは怪訝に思ったが、とりあえず目を合わせないようにして、何食わぬ顔をして中に入っていこうとした。と、パッとサルがこちらのほうを振り向き、一瞬ぴたりと目が合った。何を考えているのかよく分からない、不思議な、というか得体の知れない瞳が、ぼくを見つめた。ぼくはすぐに知らん顔をして、サルの顔をこれ以上見ないようにしながらコンビニのかごを取り、気まずさを感じながらコンビニの棚を物色し始めた。
 ぼくは、こんな日のためにと少しずつ溜めていた貯金を使って、手当たり次第に食料品や薬類ををかごに放り込んでいった。ガム、カロリーメイト、インスタントコーヒー、サンドイッチ、遠足ランチ弁当(名前に惹かれて購入)、バンドエイド、包帯、ライター、乾電池パック、等等だ。商品を選んでいる間じゅうもずっと、背後になにやら微妙な視線を感じていたが、あえて無視しつづけた。
 すっかり重くなったかごを力いっぱい持ち上げて、レジのあるカウンターにどさっと乗せる。レジカウンターの店員の女性は目を丸くした。
「これ全部ですか?」
「はい。お金はありますから」
 店員は、一瞬いぶかしげな顔で、まるで品定めをするようにぼくの容姿を上から下まで眺めたが、やがてそれもどうでもよくなったのか、黙って品物のバーコードを機械に認識させ始めた。
「……あの、店員さん」
「はい?」
 品物を途中くらいまでバーコードで通した後で、ぼくは思い切って尋ねてみた。
「入り口にいるあれ、いったい何なんですか?」
「あぁ、あれですか。ちょっと前からずっとあそこにいて、こっちも困ってたんですけど」
 女性が言い、ぼくはまたサルの方をちらりと眺めやる。彼は(よくわからないが、メスではないと思う)、今度はなにやら熱心に口をもごもごさせていた。
 また目が合った。
 彼は、ぼくと視線を合わせると、「ウキーッウキーッ!」と突如大声で騒ぎ始めた。
「……どうにかならないんですか」
「どうにか、と言われましても、こっちも困ってまして」と店員は言った。「ガムが好きだってのは分かったんですけど、あれ」
「ガム食べるんですか?」
「そう。なぜか好きで」
 ふうん、となんとなく思っていると、そのとき不意に、ぼくのブレザーの裾が誰かに引っ張られた。見ると、さっきまでコンビニの入り口に座り込んでいたサルがいつの間にかこっちまでやってきていて、ぼくの服を引っ張りながら、しきりにぼくに向かって自分の存在アピールを続けていた。
「おい、やめろよっ」
 ぼくは言う。だがサルは話を聞こうともしない。いや厳密に言えば、人の言葉なんて分からないのかもしれないけれども。
「あら、知らない間に随分なつかれちゃったみたいで」
 店員はのんきに笑った。おいおい。


「ありがとうございましたー」
 景気の良い挨拶に追い出されるように店を出た。サルはなおもぼくの後をくっついてやってくる。
「おい、ついてくるなよ」
 ぼくが呼びかけると、サルはまるでぼくの言葉を面白がるかのように、ぼくの方へ懲りずにのこのこやってきた。
「……なんでこんな事になっちゃったんだろ」
 誰に言うでもなく呟いた。サルはぼくを見て「キャッキャッ」と鳴く。まるで(イエイ!)とかなんとか言っているみたいだと思った。歩きながら、彼は、ぼくが持っているコンビニの袋を熱心に覗き込んでいた。
「……なんだよ?」
「(ガムくれ)」とサルは言った。
 言った?
「――うわっ!?」
 ぼくはびっくりして、サルのほうに視線を向けた。
「(どうしたよ、変な兄ちゃんだな)」とサルは言った。口は動いていない。だとすると、このサルの思っていることがそのまま頭の中に響いているのだ。まるでテレパシーみたいに。
 テレパシー
 そうだ、あの少女の声もそうだった。ではこのサルも、もしかしてぼくの頭の中にテレパシーを使って語りかけているのだろうか? いや、いくらなんでもおかしすぎる。なんで今日に限って、女の子や男の子の変な声が聞こえたり、近くのコンビニでサルを売りつけられたり、常識では考えられないようなことばかり起こるんだろう。
 もしかしたらぼくは、頭かどこかが変になってしまったのだろうか? でも、なにが原因なのか全く見当もつかない。ぼくは超能力者にでもなってしまったのだろうか?
 まさか。ゲームか小説じゃあるまいし。
「(さっきからブツブツうるさい奴だなぁ)」とサルが訊いた。「(どっか悪いのか?)」
 サルに言われて、ぼくは思考をやめる。
「……うん、そうかもしれない。ぼくはきっとどこか変になっちゃったんだ。終わらない白昼夢を見ているような気がする」
「(へぇ、大変だ)」と、サルは全く心配していないような声で言った。「(それよりも、ガムくれよガム。あれがないとどうも調子が出なくてよ)」
 ぼくはコンビニの袋からごそごそとチューインガムを取り出して、一枚とってサルに渡した。サルは銀紙を器用にはがし、口に含んでもごもごと噛んでいた。
「そんなに好きなの?」
「(あぁ、こりゃ一度やったらやめられないんだ)」とサルはしみじみ言って、風船のようにガムを口で膨らませた。
「名前とかはあるの?」
「(バルーンモンキーだ)」とサルは言った。「(いい名前だろ? 自分でつけたんだ)」
 あぁそうだね、とぼくはうなづいた。

BACK MENU NEXT