「ね、ねぇ、ジェフ」
 トニーに後ろから呼びかけられて、ぼくは振り返る。
「? なんだい」
「あ、……いや」
 トニーは言いよどんだ。ぼくに何か言おうか言うまいか、少しだけ躊躇しているようだった。
 言いたいことは分かっている。ぼくがこれからどこに向かおうとしているのか、何をしようとしているのかを聞こうとしているのだ。だけどぼくから何か「ただならぬもの」を感じて、それで言いよどんでいるのだ。
 別にぼくは、あの少女の声のことを絶対に他の人に言いたくない、というわけではない。その少女の言葉が、ただのぼくの幻聴だったという可能性も捨てきれないし、もしそうだったとしたらぼくが只の電波くんに成り下がってしまうので、そういう大ごとに至るのを避けるために、とりあえず黙っているだけだ。
 でも、とぼくは考える。さっきも気付いたけれど、それはつまりみんなを騙しているということにはならないだろうか、と。理由を信じていようがいまいが、自分がどこかに旅立つ訳を言っておくというのは、その相手を安心させることにもなるし、それは少なくとも大事なことだ。ただ、ぼくのその理由を相手がどう判断するのかは、その相手次第なわけだけれど。
「トニー」
「……えっ、なに?」
「本当に、ぼくが出かける理由を知りたい?」
 トニーは、急にびっくりした様子でこちらを見る。
「う、うんっ。知りたいよ」
「本当に? それがどんな理由であっても、その理由を信じられる?」
 ぼくはちょっと言葉に凄みをかける。トニーは一瞬ごくりと息を呑んだが、やがて、頷く。
「うん、信じるよ」
「本当に?」
「信じるよ。ぼく信じる」
「ぼくが、ぼくがテレパシーを聞いたって言っても?
 後ろのトニーの息づかいがぴたりと止まる。戸惑っている。ぼくは淡々と話し続ける。
「夢を見たんだ」とぼくは話を切り出す。「そこはうす暗い牢獄みたいなところで、ぼくと同い年ぐらいの少女が閉じ込められていたのが見えたんだ」
「……」
 トニーは黙ってぼくの話に耳を傾けている。
「そして、そこで彼女は、ぼくに向かって言ったんだ。助けてください、私達を救えるのはあなただけだ、って。今すぐ南に、とにかく南に向かって出発してくれって。いや、正確に言うとすれば、彼女はぼくの夢を通してぼくに語りかけていたんだ」
 後ろからトニーの視線を感じる。ぼくの心に、失望感と後悔がじわじわと染み渡っていくのが分かる。ぼくは話し続ける。
「トニーは、お前はいったい何を言っているんだって思っているかもしれない。その『夢を見た』っていう突拍子もない理由だけで、ここを出ようとしているのか、って。でも、でもこれは本当に起こっていることなんだ。なんでこのぼくが選ばれたのかは分からない。なんで今なのかも分からない。でも確かに、彼女は南にあるどこかの部屋に閉じ込められて、ぼくの助けを待っている。それだけは、確かに分かるんだ」
 そうやって、ぼくが話し終えると、トニーは、ぼくから視線を落として黙りこんだ。廊下は重い沈黙に包まれている。二人の服の擦れるカサカサというかすかな音だけが、妙に大きく聞こえた。
「それ、本当なの?」
 不意に、上目遣いになりながら、恐る恐るトニーが言った。
「本当だよ」と、ぼくは歩きながら言う。「信じられないかい」
「う、ううん、もちろん信じるさ」とトニーは言う。「ぼくはジェフの言うことだったら、何でも信じるよ」
「そうか、ありがとう」
 ぼくは言った。トニーは何か言いたそうだったが、口に出すような気配もなかったので、ぼくも黙って、寄宿舎の冷え冷えとした廊下をふたたび歩きはじめた。真夜中の廊下はうす暗く、窓ガラスの外からさしこむ月明かりと廊下の非常灯のグリーンの光が、ぼくらの唯一の明かりだった。
 腕時計を覗きこむと、蛍光の針は2時半を示している。起きてから、もう30分も経ってしまったのだ。寄宿舎を出る頃にはもう夜が明けているだろう、とぼくは思った。雪国の朝は早いのだ。
「……ねぇ、ジェフ」
 ささやくように声がした。
「なんだい、トニー」
「あの、さ」
 と、トニーはそこまで言って、再び言葉を切った。
 トニーが黙ってしまったので、ぼくも喋らないことにした。



 ロッカーのカギは曲がっていたので、鍵穴に入らなかった。
「わっはっは! やっぱりあのカギは使い物にならなかったか」
 ガウス先輩は、声を張り上げて笑った。
「笑い事じゃありませんよ、先輩」
「いやぁ、すまんすまん」とガウス先輩は言った。まだ少しおかしそうに笑っている。「そんなこともあろうかと思って、『ちょっとしたカギなら意外と簡単に開けられるマシン』を今作ってみたんだ」
「……ちょっとした、何ですって?」
「ちょっとしたカギなら意外と簡単に開けられるマシン」
一言も間違えることなく、ガウス先輩が言う。
「ちょっと……」言いかけて、面倒くさくなってやめた。「……カギマシンですね」
「うん、そうだな。ちょっとカギマシン」と、ガウス先輩は言葉をひとつひとつ確かめるように言った。略し方にすっかり満足したようだった。「そう、これなら大丈夫。手間かけさせて悪かったな」
 ぼくは、ガウス先輩からその「ちょっとカギマシン」を受け取った。先っぽが太い針金になった歯ブラシみたいな物体だった。
「お前もアンドーナッツ博士の息子なら、ちょっとした道具くらいなら一晩で修理して役に立てるとか…、それくらいのことはできそうだぞ。もっと積極的に生きてみろよ、ジェフ」
「積極的に、ですか」
 ……。
 積極的に?
 ぼくは今まで、積極的に生きてこなかったのだろうか? 少なくとも他人にそう思われてしまうような、そういう人生を送ってきたのだろうか?

 そうだ。君は積極的なんかじゃない。君は積極的になんか生きてはいないんだ。
 そんなことは、とうの昔に分かっていたはずだろ?


 また声がする。さっきの少年の声だ。一番最初の少女の声は、もう聞こえなくなってしまったのだろうか? それともやっぱり、あれはただの幻聴だったのか?
 分からない。さっぱり分からないことだらけだ。
「……そうですね、やってみます」とぼくは言った。
「あぁ、がんばれよ」とガウス先輩もうなづく。「じゃあ、今度こそさよならだ」
 ぼくも、それにならってうなづいた。

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