部屋を出て、トニーに連れられながら、ブラウンの絨毯の敷かれた廊下を歩く。消灯時間はとっくに過ぎていたので、廊下の電気も消えていて、通路は薄暗かった。やわらかい絨毯がぼくたちの足音をやさしく消してくれるおかげで、あたりはひっそりと静まり返っている。
 廊下を歩きながら考える。あの少女の声は、なぜか知らないが「南に向かえ」と言っていた。南ということはつまり、この寄宿舎から見て南ということだ。しかしここから南といっても、南に何か目的地になるべき場所とか、そういったものは果たしてあっただろうか。よく分からない。
「トニー。ここから南って、何かあったっけ?」
「え、南?」トニーは、歩きながら振り向いて答える。「……えー、なんだろ、そんなに急に言われても分かんないよ。あ、ストーンヘンジがあるよ。ここからだと、タス湖を渡って回り道しないといけないけど」
 そうだ。地形などを考慮せずに、直線的にまっすぐ南に行けば、そこにはフォギーランドの指折りの観光名所のひとつであるストーンヘンジがある。しかし、そのまま山を南に下っていっても、道は森に入りやがてなくなってしまう。このスノーウッド学園周辺から抜け出るためには、少し東にいったところにあるタス湖をまず経由しなければならない。そして、そのタス湖を渡ってしばらく行けば、ようやくストーンヘンジが見えてくる。
 ……そういえば、トニーとその友達のウィルとボビー、それからぼくの四人で、そのストーンヘンジについて話したことがあった気がした。あの例のストーンヘンジは、実は宇宙人の地下基地の入り口になっていて、そこにはキャトルミューティレーションで捕まえた家畜や人間達がカプセルに保管されて、ずらりと並んでいるのだ、と。トニーは「えぇー、そんなのないよぉー」と不安げに言っていたが、本当は、怖さを紛らわせるために自分に言い聞かせるようにして言っている事がまる分かりで、みんなでくすくす笑いながら、夜を明かしたりしていたのだ。
 方向・距離的にいえば、そこがきっと『南』だ。
「ジェフは南に行きたいの? どうして?」とトニーが聞く。
「いや別に、なんでもないよ」とぼくは答える。
 そう、本当になんでもないことなのだ。ただぼくが気になって仕方がなくなっているだけで、第一、このぼくにだって状況がさっぱり掴めていないのだ。
 その「南」とやらに、彼女たちはいるのだろうか。もしぼくが、ふとした気まぐれでこのまま何もしないでいたら、彼女たちは本当に死んでしまうのだろうか。ぼくは想像してみる。ぼくとは何の接点もない人間の生死が、ぼくの一挙一動によってすべて左右される。もしぼくがこのままここから動かないでいて、それによって彼女が死んだとしても、ぼくの生活という点からしてみればなんの問題もない。しかし、そうは言っても彼女は、確実にこの世のどこかで「死んでいる」のだ。それもぼくの知らない場所で。ぼくの行動は、確実に彼女を「殺す」のだ。
 そう考えると、ぼくの心はずしりと重くなった。それは本当に後味が悪い。それも、心の中でとぐろを撒くような気持ち悪さだ。たぶんそれは、その人が自分に関係のあるないに関わらず、気持ち悪いのだろう。たぶんそうだろうと思う。



 廊下をしばらく行くと、談話室となっている少し広いロビーに突き当たる。そしてその向こうの階段から、1階の出入り口に降りて行くわけだが、ぼくたちが廊下の曲がり角からそっと顔を出して、談話室の中をちらりと覗き込んでみると、部屋は明かりがつけられ、こんな真夜中だというのに3、4人の少年たちが談話している最中だった。ぼくは彼らに見つからないようにそっと談話室を避けながら、トニーと二人でガウス先輩の部屋へと向かった。ガウス先輩は、ここの寮の中で最高学年であり、また寮長の役割も果たしているのだ。
 まだガウス先輩の部屋の明かりが点いていたので、ぼくとトニーは先輩の部屋のドアを静かにノックした。それからしばらくして、「開いてるよ」と中から声がしたので、その声に導かれるように、ぼくたちは部屋の中へと入っていった。
 ぼくたちが部屋に入ったとき、ガウス先輩は実験の最中だった。机の上でアルコール・ランプの火が燃えて、ビーカーの中の緑色の液体が、 ポコポコと怪しげな音を立てていた。
「……おぉ、びっくりした。ジェフにトニーじゃないか」
 振り向いて白衣のガウス先輩は言った。意外な来訪客に驚いているようだった。何せ、真夜中にここにやってくる奴らの大半は、寄宿舎の規則を破って寮の外に出かけようとする不届きな連中ばかりなのだ。
「どうした、夜食でも探してるのか?」
「あ、いえ」
「違うのか」とガウスさんは答えながら、近くに置かれていた銀のマグカップを手に取った。「おれも、研究がいきづまっててさ。ジェフの親父のアンドーナッツ博士がいたら助かるのになぁ……」
「いや、そんなこと言われても……」
「あはは、冗談だよ。すまんすまん」とガウス先輩は笑った。「でもすごい人だったらしいな。わがウルトラサイエンスクラブの初代部長で……アインシュタインやハイゼンベルグ以上の科学者ってことらしい。すっごい変わり者だっていう噂もあるけどな」
「というか、変わり者そのものですよ」とぼくは答えた。「ぼくが7歳くらいの頃に家を出て行ったきり、ストーンヘンジの近くに研究所を立てて、そこにずっと篭りっきりになって研究を続けてるんです。何を考えてるんだか、分かりゃあしませんよ」
「いやあ、でも、言っちゃ失礼かもしれないが、天才はきまって性格破綻者だ、ってよく言うだろ。博士もその例に漏れず、なのかもしれないぜ?」
 そう言って、ガウス先輩はマグカップのコーヒーに静かに口をつける。しかし、ぼくはそんな先輩の話を聞きながら、頭の中ではまったく別のことを考えていた。『ガウス先輩に本当のことを話して、果たして良いものだろうか?』という思いだ。別に、ガウス先輩が信じられないというわけではない。それは何もガウス先輩に限った話ではないのだ。(こんな話、誰に話したところできっと誰も信じてくれないに違いない。だいいち、ぼく自身ですら半信半疑なのだ。)だから本当のことを言って変に気を持たれてしまうよりは、その場しのぎの他愛もない嘘をついて、ちょっと外に出るフリをしてそのまま南に向かった方がいいのかもしれない、と思う。
 でも……と、ぼくはガウス先輩を見る。もしかしたらこの人だったら、ぼくのこの突拍子もない話を信じてくれるかもしれない。隣のトニーに対しても同じだ。トニーならもしかしたら、ぼくの身に起こった不思議な出来事を理解してくれるかもしれない。この場でこの2人に、すべてを相談してもいいのかもしれない。だってぼくは確かに、あの声をこの耳ではっきりと聞いたのだ。誰になんと言われようと、あれはぼく自身の認識した、紛れもない事実なのだ。

 おや、じゃあ君は、周りからの理解を望んでいるのか?
 彼らと君とは決して相容れない存在だ。そんなことは無理な話だよ。


「……?」
 またどこからか声がしたような気がして、ぼくはあたりを見回す。さっきの少女とは違う、どこかで聞いたような少年の声。
「ジェフ、どうかした?」とトニーが尋ねる。
「いや。いま、何か言った?」
「え、えっ? 別に何も言ってないけど。どうしたの」
「いや、別に……なんでもない」
 ぼくは首を振る。そして、それと同時に、今は話す時ではない、と心のどこかで確信する。今は緊急のときであって、そんなに軽々と周りの混乱を招いてはいけない。そうした挙句に、自らの行動の妨げになるようなことはあってはならない。ここは慎重に、穏便にいかなくてはならない。
「で?」とガウス先輩が聞く。
「あっ。ええっと、そう、違うんです先輩。ちょっと、相談に乗ってほしくて、その、ちょっと外に出たいんで、なにか持って行くものが欲しいんですけど」
「ああ、そういう事か……はいはい」
 ガウス先輩は納得して、ポケットから取り出した鍵をぼくの方に投げる。
「ロッカールームに用事があるんだったら、そのロッカーの鍵を持っていけよ。ちょっと曲がってるけどな」
「あぁ、ありがとうございます」
 ぼくは礼を言う。先輩の反応のこなれ具合に、きっと、こういうことは何度もあるんだろうな、と思う。
「いいよ、こういうの慣れてるから」とガウス先輩は笑う。「でも、お前がこんなことするなんて珍しいな。いつまでに帰って来られるんだ? あんまり遅くなると、いくら俺でも誤魔化しきれないぞ」
「あぁ、いや、そこら辺はたぶん大丈夫だと思います」とぼくは答える。頼りになる大好きな先輩を騙している、という罪悪感が、ちくちくと胸に刺さる。「……でも、何があったとしても、必ず帰ってきます。だから、その、何があっても心配しないでください。お願いです」
「なんだよ大げさだな、旅に出るわけじゃあるまいし」とガウス先輩は笑う。「なぁに、お前のほうこそ、身体に気をつけてな」
 はい、とぼくが答えると、ガウス先輩は静かに笑った。

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