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 トニーはぼくの親友だ。いつごろから付き合い始めたかは定かではないけれども、少なくとも、あれは初めての席替えのあった後だと記憶している。
 そのときはちょうど地学の授業で、ぼくは教科書をたまたま寮の部屋に忘れてきてしまっていた。ぼくは、地学なんてあまり興味もわかなかったし(星座とか天体観測には確かにちょっとはあこがれたけれど、ぼくにとってはそんな事より物理科学だとか機械工学だとか、そっちの方がよっぽど惹かれるものがあった)、何よりその担当のグレゴリーとかいう教師が気に入らなかった。銀縁丸メガネに中年太りのたるんだ腹、いつも暑そうに団扇を扇いでいて、生徒の間では密かに「古ダヌキ」なんていうあだ名が付けられていて、別にそれだけならどうという事はないのだが、ことあるごとに生徒にやたらと絡んでくるので、ぼくにはそれがどうしても好きになれなかった。
 そういう事情もあったので、ぼくはその時間の暇をどうやってつぶすか、ということをずっと考えていた。自分でいうのも何だが、ぼくは時間のつぶし方においてはかなりの自信を持っていたのだ。物思いにふけってみたりだとか、落書きでノート見開き2ページを埋めつくしたりだとか、円周率を10万ケタまで筆算したりだとか、そんなものだ。そしてぼくは、分厚い雲に覆われている窓の外の空を見上げていた。太陽の光を微塵も漏らさず、どんよりとした天気だった。まるで夜の学校の壁みたいだった。どこかよそよそしく、温もりなんてこれっぽっちもなかった。
「ねぇ、ジェフ」
 隣から小さく呼びかけられた。声のした方を振り向くと、そこには赤茶色の髪をした少年が、真ん丸い瞳でぼくの顔をのぞきこんでいた。頭には小さなシルクハットをかぶっている。
 誰だろう、とぼくは思った。ぼくの記憶に間違いがなければ、こんな子は少なくともぼくの知り合いにはいなかった。
「……教科書、忘れたんなら、見せてあげるけど?」
 あぁ、と納得する。
「いや、別にいいよ。特に授業受ける気もないし」
「えっ?」
 シルクハットの少年は、びっくりしたような声を上げる。
「な、何か意外だなぁ。ジェフってもうちょっとマジメなのかと思ってたのに」
 その言葉に、ぼくは思わず苦笑する。
「いや君、人を見かけで判断しちゃいけないよ」
「そ、そうだよね。ごめんジェフ……。そうだね、ジェフの言う通りだ」
 少年は顔をまっかにして、ぼくに謝った。いやいや、とぼくは笑ってから、そういえば彼の正体を聞くのを全く失念していたことに気付いた。少なくともぼくのことを「ジェフ」呼ばわりしているところからして、彼はぼくのことを大体知っているのだろうし、それに名前も合っているから、人違いということもないだろう。同姓同名の別人、という可能性も否定できなくはなかったけれど。
「ところでさ、ちょっと聞きたいんだけど」
「え、なになに? 僕のことだったら何だって教えちゃうよ!」
「……どちら様でしたっけ?」
 その瞬間、少年の動きがぴたりと止まった。
「え、だから、トニーだよトニー」と少年は言う。「冗談きついよ、ジェフ」
「いや、全く覚えがなくて」
 そのトニーという名の少年は、しばらくぼくのことをじっと眺めていたが、やがてハッと気がついたのをきっかけにして、どんどん顔が蒼ざめていった。
「……え、マジですか? エイプリルフールはとっくに過ぎましたよ?」
「いや、マジもなにも」
「はうっ!!」
 トニーは衝撃のあまり飛び上がった。
「えぇー、ありえないっしょ。だって同じ部屋に住んでるのに……」
「同じ部屋?」
 ちなみに、スノーウッド学園は全寮制だ。つまり、彼はぼくと同じ寮の同じ部屋に住んでいることになる。しかし、
「……そうだっけ」
「えぇーっ!?」
 衝撃のあまり、ガクッとうなだれるトニー。
「んまぁ、ちょっと変な奴だとは思ってたけど……」
「ごめんごめん、ぼくは記憶力に関してはズバ抜けて凄いんだよ」
「マイナスにかよ!」とトニーは突っ込む。
「あぁいや、ごめんごめん」とぼくは苦笑する。「えぇっと……、巫女子ちゃんだっけ?」
「トニーだよ! 誰だよ! 性別すら違うよ!」とトニー。「いや、ていうかありえないでしょ!」
「ごめんごめん、冗談だよ」
「冗談かよ!」とトニーは言ったが、さすがにそろそろ疲れてきたようだった。
「……はぅぅ」
「あ、そうだトニー君」とぼくは言った。「聞き忘れてたんだけどさ、その『ジェフ』って呼び捨てなのは、ぼくがそうしろって言ったのかい?」
「え、うん、そうだよ」と、元気のない声でトニーが呟く。「堅苦しいのは嫌いだから、とかなんとか言って」
 そんなことまで言っていたとは、さすがはぼく。外ヅラだけはいい。
「じゃあ、これからもぼくの事はジェフって呼んでいいよ」
「あ、さいですか……」と、トニーは力なくうなづく。「だったら、僕もトニーでいいよ……」
「じゃあトニー、これからもよろしく。お互い堅苦しいのは無しにしような」
「……」
 それが、ぼくとトニーの、少なくとも「最初の」、出会いだった。

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