Chapter 1  ストレンジの始まり

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 男子寮の中のぼくの部屋は、窓に面した東向きの景色のいい場所だ。いつも夜になると、窓の外からぼんやりとした淡い月の光が入り込んでくる。そこから外を眺めると、このあたりのウィンターズ地方の景色を一望することができるのだ。
 雪にすっぽりと包まれた大地と、同じく銀のグラデーションが掛かった、針葉樹林のうっそうとした森。それを、暗い空でぽつんと輝く月が静かに照らしている。森の先にある広いタス湖の湖面は、月光をきらきらと反射させて、波が揺れるにしたがってその輝きの表情をゆっくりと変化させていく。そしてさらにその向こうには、緩やかなダーク・グレーの山々が望める。
 そうした外の様子を部屋の窓から眺めるたびに、ぼくは、まるで絵画のようなその全体の姿にいつも目を奪われ、はっと息を飲むのだった。朝に見ることのできる曙の輝きも確かに美しかったが、ぼくとしては闇夜の中に見えるこの姿のほうを好んだ。夜の銀世界には、そういった「自然の純粋な美しさ」のようなものがあるのだ。確かに。


 ぼくは窓の外から視線をはずし、枕元の目覚ましを見た。時計の針は夜中の2時を示している。隣のベッドでは僚友のトニーが、すうすうと静かな寝息を立てていた。ぼくは自分の汗でしっとりと濡れてしまっていたパジャマを気にしながら、額にかかった髪をかき上げた。
「やけに、現実感のある夢だったな……」
 妙な夢にうなされ、思わず目を覚ましてしまったのだ。意味もなく見上げると、目線の先に薄暗い天井が見えた。辺りはまだ暗闇に包まれている。ぼくはしばらくぼーっとしながら、自分の今の状況を確認する。
 ここはウィンターズ、スノーウッド学園の寄宿舎の一室。そしてぼくの住む部屋。
 夢の中で聞こえた言葉が、いまもぼくの耳の中で響いていた。知らない女の子の、澄んだ声だった。いや、声がした、というよりはむしろ、ぼくの「頭の中」に直接、それが響いてきたのだ。だから、ぼくは最初それが聞こえたときに、それが声であるかどうかすらも分からなかった。だがだんだんと冷静になり、変だな、と思うにしたがって、それがぼくの「頭の中」に響いている声だ、ということがはっきりしてきたのだ。
 静かな口調だったにもかかわらず、それはぼくの心に強く残っていた。あれはいったいなんだったのだろうか。

……まだ会ったことのない仲間に呼びかけます、

 思うやいなや、どこからか声がして、ぼくはぎくりとした。

まだ会ったことのない、私たちの仲間に呼びかけます! ジェフ! ジェフ! あなたの助けがほしい……。わたしはポーラ。そしてもうひとり、ネス……。あなたに呼びかけています

 ぼくは、キョロキョロと周囲を見渡し、まわりに誰もいない事を確認した。この部屋にはぼくとトニーしかいないはずだ。部屋のドアも確かに鍵が閉まっているはずだ。というか、そもそもここは男子寮だから、女の子なんて存在するはずもない。

わたしはポーラ、そしてもうひとり、ネス……。あなたに呼びかけています……

 また聞こえた。
 その少女の声は、ぼくが夢の中で聞いたのと間違いなく同じ声だった。全く知らない人物の声。しかし、彼女の言葉は、明らかにこのぼくに対して言葉を続けていた。ということは、ぼくは彼女を知らないが、彼女の方は、ぼくを知っているのだ
 なんだろう、とぼくは思った。もしかして幽霊か何か? いや幽霊だったとしても、こんなところにいる理由が思いつかない(女の子の霊が出るなら、女子寮であるはずだし)。だとしたら、一体これは何なんだ? 幻聴? それとも、ぼくはまだ寝ぼけているのだろうか? 自分はまだ夢の中から完全に目覚めていないのか?
「……誰?」
!! ジェフ?
 ぼくの答えに反応して、その問いかけの主は歓喜の声を上げた。
ジェフ、ジェフなのね? あぁ良かった! 昨日からずっとずっと祈り続けてたのよ。やっと通じた! 良かった。神様、どうぞあなたに感謝します
「ちょ、ちょっとちょっと、待ってくれよ!」ぼくは声を張り上げる。「一体、これはどういうことなんだ。というか、何なんだ君は。突然いったい」
詳しく説明している暇はないの。黙ってよく聞いて、ジェフ
 その声の主は、なにやらとても切羽詰っているといった様子で続けた。
この呼びかけが聞こえたら、すぐにに向かって出発してください。遠くにいるあなただけが私たちを救えるのよ。ジェフ! この声を信じて、起き上がって歩き出して!
「いや、だから、意味が分からないんだけど……」
ごめんなさいジェフ。でも、事態は本当に急を要することなの。言っておくけど、これは夢でも幻覚でもないのよ。だって分かると思うけど、あなたの頭は今とてもハッキリしているでしょ?
 ベッドの上で呟いているぼくに向かって、声の主が言う。それは確かにそうだ。ぼくの頭は今、その声の唐突さと夜の張りつめるような寒さで、もはや完全に冴えきっていた。ぼくはどうしていいか分からずに、黙って耳を傾けていた。これっていわゆる「テレパシー」か何かなのだろうか、と思う。でもそんなもの、この世に存在するはずがないのだ。
突然のことで、あなたにはかなり申し訳ないと思ってるわ』と声の主が続けた。『けど、本当に時間がないの。私たちの、生死に関わる問題なのよ。目の前にある現実を素直に受け止めて! あなたは、選ば……た、私たちの仲……のよ! おね……い、お願い!
 ふと、だんだん声の中にノイズが入ってきていることに気付く。声の主は最後の力を振り絞るように、懸命に話を続けた。
南に向かって……、すぐに! ジェフ、お願い! まだ会ったことのない……かけがえのない……仲間!
 そこで、彼女の言葉は途切れた。
 しばらく、ぼくはベッドの上で呆然としていた。一体ぼくに何が起こったというんだろう。というか、そもそも話が突拍子すぎる。顔も声も、名前すら知らない彼女が、どうしてぼくなんかに助けを求めたのだろうか?
 彼女は確か、「私たちの生死に関わる問題」と言っていた。ということは、その彼女の言葉どおりにぼくが動かなければ、彼女やその彼女の仲間たちは死んでしまう、ということなのだろうか? そんなの、いくらなんでも有り得なさすぎる。どうしてこのぼくがいきなり選ばれて、わざわざこんな真夜中に外に出かけなければならないんだ?
 大体、南と言われたところで、厳密な場所がさっぱり分からないではないか。信憑性がなさすぎる。ぼくは、もそもそと再びベッドにもぐりこむと、どさりと枕に顔をうずめ、目を閉じた。そうさ、関係ない、とぼくは思う。そんなの知ったことじゃない。そんな突拍子もないことにいきなりぼくを関わらせないでほしい。ぼくには関係のないことだ。

 関係ない? 本当に?

 ぼくは、ふたたび目を開ける。窓の外の月を見ると、その光がさっきよりやや翳りはじめていた。雲が出てきているのだ。
 ぼくは隣のトニーを起こさないように、ベッドからのっそりと這い出ると、部屋の中央のテーブルまでゆっくりと歩いて、置いてある眼鏡を手にとって掛けた。そうすると、だいぶ視界は落ち着いた。ぼくは一つため息をつくと、傍のタンスから普段着の制服を取り出して、パジャマを脱ぎ始める。ワイシャツを羽織り、ボタンを一つ一つ留めていく。
「……ジェフ?」
 不意に後ろでトニーの声がした。反射的に、ボタンの手の動きが止まる。ぼくが振り向くと、トニーはすでに身体をベッドから起こして、癖っ毛の赤毛をボリボリと頭を掻いていた。
「あ、トニー。起こしちゃった?」
「……ん。僕、いま、君と散歩してる夢を……、みてたところだったんだよ」
 トニーは、まだ寝ぼけた口調で言った。口でもにょもにょと声を出している。
「どうかしたのかい? ジェフ」
「いや、なんでもないよ」
 ぼくは振り向くのをやめて、改めてワイシャツのボタンを下からひとつずつ留めていった。それが終わると、ハンガーにかかった蝶ネクタイを締め、ジャケットを羽織った。
「トニー、ちょっと出かけてくる」ぼくは、その上からさらに厚手のコートを羽織りながら、言った。「――いつ戻れるかは、よくわかんないけど」
 それだけ言って、ぼくは部屋の外へと歩いて出て行こうとする。そんなぼくの様子に、トニーは「ジェ、ジェフ?」と声を張り上げた。
「こんな夜中にどこへ行くの? この寄宿舎のルールは知ってるだろう、見つかったら尻叩きだよ」
「見つかる前に出て行くさ」
「ちょ、ちょっと」
 トニーはベッドから飛び起きて、言った。
「どうしたのさ? ジェフ」
「だから、なんでもないって」
「なんでもなくないよ。どうしたのさ」
「トニーに関係あることじゃない。だから気にしなくていいんだ」
「気にするさ! 僕には、なんでもなくないことだけは分かる」
 トニーがじっとぼくを睨んだ。しかし、それでもぼくは口を開けなかった。
「……」
「……」
「……」
「……。ふぅ、わかったよ」とトニーは諦めたようにつぶやいた。「僕にはわからない理由があるんだろうね、止めないことにするよ。……でも、なんにせよ、真夜中に無防備で出かけるのは危険だよ。身を守る道具を持っていくほうがいい。ロッカールームに何かあると思うから、寄っていくといいよ」
「あぁ、ありがと。トニー」
 ぼくはそう言って、トニーに向かって微笑んだ。トニーは、叫んでいた自分がいまさら恥ずかしくなったのか、顔をちょっとだけ赤くして、パジャマ姿でぼくのもとにやってくる。
「一緒に行ってあげるよ」
 彼は、自分のトレードマークのシルクハットを机から取って、頭にすっぽりとかぶったあと、ぼくの左手を強引に引っ張って、一緒に部屋の外へと出て行った。

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