蛍の庭 2





 一番上にある『12』のエレベーターのボタンを押して、それから扉を閉める。ずん、と重力が一瞬重くなったような感触があり、それからエレベーターは静かにぼくを最上階へと導いた。
 エレベーターを降りてから左に折れ、2秒ほど歩いたところに『北村』の表札を確認する。分厚いドアの前で立ち止まり、学校のカバンの中から鍵を取り出す。もう片方の手に持っている弁当のビニール袋が揺れるのに苦労しながら、ガチャリと鍵を開ける。
「…ただいま」
 中は薄暗かった。狭い玄関で靴を脱ぐと、右手にある洗面所に視線をやりながら、フローリングの廊下を渡って、閉まっている居間のドアを開ける。
「…祐? 帰ってきたの?」
「か、母さん」
 居間に入ってすぐ左手のテーブルに、突っ伏すように寝ていた母さんが、頭を掻きながらゆっくりと顔を上げた。長く伸ばした髪を後ろにゴムひもで束ねている。きらびやかな洋服に化粧の落ちていない白い顔。まだ6時にもなっていないのに、テーブルには3,4缶ほどビールの空き缶が転がっていた。
「今日は、帰ってくるの早かったんだね」
「…それがどうかした?」と母さんはぼくに言い放ち、慣れた手つきでタバコに火をつける。しばらく口にくわえた後、すぱー、と空中に煙を吐きだす。指に塗られたマニキュアのラメが薄く光っている。
「ううん、いや別に」とぼくは首を振って、テーブルの上にそっと弁当のビニール袋を置く。「…夕ご飯買って来ちゃったから」
 ぼくの言葉に母さんは「そう」とだけ答えて、灰皿にタバコを押し付けると、立ち上がって台所の方へとふらふらと歩いていく。食器棚からコップをひとつ取り出して、水道で水を汲むと、ポケットから薬ビンを出して中から薬をどばっと何粒も手の上に出し、そのまま口に入れて水で流し込む。
「…母さん、最近薬の量増えてきてない?」とぼくは静かに聞く。「精神科の先生も言ってたじゃん、あんまり飲みすぎると…」
「大丈夫よ、あんたには関係ないでしょ」と、母さんは口を拭きながら吐き捨てるように言う。「…あ、そうだ、今日の夜も母さん出かけるよ。明日まで帰らないから、自分でご飯買ってね。お小遣いあげとくから」
 母さんは台所から戻ると、自分のバッグからブランドの財布を取り出し、中から千円札を二枚引き抜いてぼくの方に投げ渡す。そして、そのままふらふらと、自分の寝室へと向かっていってしまう。
「あとで起こす?」
「いい」
 母さんは答え、そのまま部屋の中に入り、パタンと扉が閉められる。
「………」
 今日はあまり気が立ってなくて良かった、と思う。物が飛んでくるときなんかよりもよっぽどマシだった。
 父さんがいなくなってから、母さんは変わってしまった。
 正式に離婚をしてしばらく経ってから、母さんは主婦を辞めてスナックで働き始めた。出かける時間も帰ってくる時間もてんでバラバラで、最初のうちは良かったものの、最近になってからは親子二人顔を合わせる機会も少なくなった。たとえ顔を合わせたとしても、母さんは働きづめでいつもボロ雑巾みたいにクタクタになって帰ってくるし、ぼくも果たしてどういう顔していいかが分からず、大抵二言三言で終わってしまう。
 たまに、母さんはぼくに八つ当たりをするようになった。物を投げたり、タバコの火をぼくに押し付けたり、殴ったり蹴ったりもする。母さんは仕事でそうとう疲れているんだろうと思う。だから、そういう時はぼくは逆らわないことにしている。下手に逆らってしまうと、さらに八つ当たりがひどくなってしまうのだ。
 ぼくは、ぺたんとフローリングの床に座り込んだ。そして、そのままぐるりと居間の様子を見渡す。
 大きな36型の液晶テレビ。乱雑としたテーブルの上。こまめに手入れされたピアノ。ゴミが散らかった床。ぼくの小さい頃に撮られた家族の写真が写真立てに飾ってある。
 写真は、どこかの市民プールかなにかのプールサイドで、浮き輪をつけたぼくと、青い柄の水着に着替えた母さんが写っている。撮ったのは多分父さんだろう。
 あの頃が一番楽しかったのかもな、とぼくは思う。
 でも、ぼくの頭の中には小さい頃の記憶はもう残っていない。母さんが笑っているのは、もう写真の中だけだ。
 天井に向かって、小さく、ため息をつく。
 テーブルの上に視線を戻す。そこには、母さんが置いていった二千円があり、その横に薬の小さなビンが静かに転がっていた。
 ぼくは立ち上がってテーブルに近づくと、椅子に静かに座り、横倒しになった薬ビンをころころと転がして遊んだ。


***



 思い出す。
 あの頃のぼくには、居場所がなかった。退屈な学校。荒れた家。以前まで習っていたピアノ教室もやめてしまっていたし、夏休みも始まってぼくはさらに暇を持て余していた。
 ぼんやりとした意識の中で、ぼくは考えていた。
 この世界で、ぼくが生きている理由とは、一体何なのだろうか、と。
 たとえぼくがこの世からいなくなってしまっても、この世で困る人は誰一人存在しないのだ。悲しんでくれる人さえも、もしかしたら数えられるほどしかいないかもしれない。もしくはそれさえもいないかもしれない、と。
 ぼくが生きていたとしても、たとえ死んでいたとしても、それだけでは世界は動かないのだ。
 ―――なら、とぼくは思う。

 この世界で、ぼくの生きている意味とは、一体何なのだろうか、と。






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